梅と野べ
小さく丸まっていた葉が広まった時。
刹那の間、癒される為に動くのだ。
住宅街のある我が家からうんざりするくらい歩いて、ようやく目的地に辿り着いた。
屈まなくても通れるが、小さいとの印象を持つ紅の鳥居を真正面にすれば、自然と顔つきは凛々しくなり、背筋は伸びる。
息を整えて、踵が宙を浮く五つの石段を上り、鳥居を潜れば、寒々しい光景が目に入る。
見渡す限り一本も雑草が生えておらず、先が知れない広大な裸土。
前日の大雨の跡など見せない、その渇いた大地の上に唯一在るのは、一枚の葉さえ生えておらず、枝が入り組んでいる一本の大木。
圧倒されないのは、葉がないからか、背が低いからか。
息を静かに吹いて。
意を決して、地面の上に大の字になる。
汚れたって構わない。
いい年なのに服を汚してと、母に叱られたって構わないのだ。
目を閉じた。
深く呼吸をした。
一回、二回、三回と。
脳裏に浮かべるのは、ただ一つの願い。
瞼裏には、緑の色が浮かぶ、はず。
若葉萌ゆる季節。
前日に途切れなく雨が降りしきる日。
大木の前で大の字に寝転び、脳裏に一つの願いだけを浮かべ続ける。
燦燦と降り注ぐ灼熱を受け止める浅緑。
水分をたっぷり含んで柔らかい日光を浴びる若緑。
深い影に隠れる深緑。
どの緑色でも、瞼の裏に浮かんで、瞼を開けた時にその色と同じ葉が胸元に置かれていれば、願いを叶えてくれるらしい。
胴体は寸胴、羽は萌葉。
見た目は雀に似ている祈願の守鳥、
木漏れ日さえ射せないほどに密集した萌葉の影は、次第に少年に収束する。
すれば、少年の身体は深緑の色に塗り替えられる。
同時に、幾千もの脈絡のない白い線だけが浮かび上がる。
夾は小ぶりの黄色の嘴を僅かばかり開いては、恍惚の表情を浮かべて、葉が一枚も生えていない大木の枝へと飛び乗る。
大木が小刻みに震えたかと思えば瞬時に止み、夾の姿は消え。
浅緑の葉だけが、少年の胸元に残されていた。
兄の病を治してほしい。
浅緑の葉を受け取った少年は、不老不死になって、三百年後に兄の病の治療法を見つけ、同時にタイムマシンを作って、過去に行っては兄の病を治し、現代へと戻って来た。
自分の相棒になる為に。
瞼の裏に緑色が浮かび、その色の葉が残っていれば、願いは叶えられる。
浅緑は激辛な手段で叶えられる。
若緑は塩の手段で叶えられる。
深緑は激甘な手段で叶えられる。
色の違いは叶えられるまでの受難の程度を示していたのだ。
「俺は開いたばかりの葉が好きだ。触り過ぎたら成長を妨げるだろうと、刹那の時間だけ、親指と人差し指で挟んで優しく擦る。瑞々しく柔らかい感触は、ストレス解消になる」
「…私の羽に触れるなよ」
「見ているだけでも癒される」
不老不死を持て余している少年。
願いを叶えてしまったから、どうすればいいのかわからないのだろう。
空っぽな自分には願ってもない申し出だ。
仕事を手伝えと言えば、安堵したように微笑んだ。
己の輝きがわからんやつだ。
呆れもするが、わからせようとは思わない。
今暫くは、
もう暫くは、私だけがわかっていればいい。
[君ならでたれにか見せむ梅のはな
色をも香をも知る人ぞ知る]
(紀友則)
[あなた以外の誰に見せようか、この梅の花を。色も香も、わかる人(あなた)だけがわかってくれる]
[薄く濃き野べのみどりの若草に
あとまで見ゆる雪のむらぎえ]
(宮内卿)
[野辺の若草の緑に薄いところや濃いところがあって、雪がまだらに消えて行った跡までわかるよ]
【参考文献 : 新総合図説国語 改訂新版 東京書籍株式会社(高校の時に使っていた教科書)】
『連続古典名歌選三作をお届け。副題、しっとり。さらっと読んで、情景が浮かんだのを書きたいままに書きました。ので、歌の真意とは違うです。が、この文字数で美しく描写して、加えて情景を浮かべられる文章が書けるとは、やはりすごいなと思いました。ありがとうございます!』
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