霞と山かげ
霞がたつ春の日。
この条件下でだけ姿を現すのは、たった二人の子どもら。
頭上が平らで猫背の子、流と身が細く色白の子、笑。
誰かが整えたのでは感嘆するほどに、段々に置かれた大岩たち。
武骨な岩々を少しでもなだらかにせんと、さらに美しく魅せんとする、無量の苔たち。
岩と苔の、上を、合間を流れるのは、山陰の水。
岩と苔と川が、この清涼な空間を創り出したのか。
喉で霧散されず肺にさえ届く、この冷たい空気を創り出したのか。
流と笑。
先に相手の姿を見つけたのはどちらであったか。
先に声をかけたのは、どちらであったか。
先に笑ったのは、どちらであったか。
「…おい。子どもら。私に争う意思はないし、縄張りを奪おうとも思っていないので、この縄を解いてもらおうか」
「だめだ」
「いいよ」
刹那の出来事であった。
何かが頭上から降ってきたかと思えば、いつの間にやら川の傍に、全身を蔓で厳重に巻かれて転がされていた。
幸い、頭には巻かれていないので、何が起きているかを知る事はできた。
仰向けの身体の両脇には、生意気そうな子どもと、純粋無垢な子ども。
俄かには信じられないが、このたった二人のこどもらの仕業なのだろう。
不思議と危機感はない。
子どもだから、という理由ではない。
この子どもたちだから、である。
「だめだ」
「いいよ」
「だめだ」
「いいよ」
「だめ」
「いい」
頭上で激しく言い合う二人の子。
これは折れさせる手段が必要か。
いいものがあるぞと微笑めば、余計にひどくなった。
結果、腹が痛いと棒読みで訴えれば、簡単に蔓は解かれた。
有り難いが、少し不安である。
こんなに簡単に騙されてはいかんぞと説教をしたくなるし、その素直さをいついつまでも持っていてくれと切望したくなる。
流と言うんだよ。私は笑。おじさんは?
訊かれて、私は左豊だよと答える。
おじさんじゃないと訂正はしなかった。
「はい」
「なにこれ?」
「手毬。ええと、こうして遊ぶんだよ」
流から貰った丸薬を呑んだら、先程よりも身体が軽くなった。
ありがとうと言えば、そっぽを向かれた。
ううむ。これは仲良くなるのに時間がかかりそうだ。
手毬に夢中なのも、笑だけだし。
流は興味の、き、も示さない。
一緒にやろうよと誘う笑に近づく私と、一歩も動こうとしない流。
笑は頬を膨らませたが、それでも流はそっぽを向いたままだ。
「君たちは霞の立つ日にしか現れないね?」
「なんだ、退治にでもしに来てたのか、おっさん?」
「違うと断言はしておこうね」
手毬を抱きしめて眠る笑の傍らで、川の水よりも冷たい視線をぶつける流に、真摯に向かい合った。
暫しの無言。そして、外される視線。向かう先は、
「私はね、ここに身を隠しに来たんだよ。本当はここを終の棲家にしたかったんだけど」
瞬間、鋭い視線が突き刺さる。
苦笑をして、やおら首を振る。
「認めてもらえそうにないから、もう少ししたら帰るよ。だからもう少しだけここに居させておくれ?」
「…おっさんが首を傾げても気色悪いだけだっての」
「本当に君は口が悪い」
くっくっくっと全身を揺らして、けれど出てくる音は小さい笑い声を零したら、流は睨みを利かせながらも、口を尖らせたまま口を開いた。なんと器用な事だと感心すると、莫迦にされたと思ったのか、蹴りを一撃喰らってしまった。洒落にならないほど痛い。しかしそれはほれ、大人の意地。涼しい顔をして耐えてみせた。
「…笑がおまえに懐いている間は居させてやる」
「ありがとう、流」
「ふん。帰る時は手毬を持って帰れよ」
「いや、それは笑にあげたからいいよ」
「だめだ」
「………わかった」
鋭く重い叱責に、気落ちする。
少しは懐かれたと思ったら、どうやら思い違いをしていたらしい。
しょんもり。
「…渡せばいいだろうが」
聞き間違いかと、流の顔を凝視したら、笑の身体を抱えて姿を消してしまった。
どうやら聞き間違いではないらしい。
にやける顔を抑えはしなかった。
「流」
「…あいつが帰るまでは、な」
「うん」
可憐な白い花を咲かせたかすみそうの傍に転がる手毬。
険しい顔から一変、悲し気な表情を浮かべた一匹の河童は、川の奥に姿を消した。
「ねえ、人間が来ているね」
「………」
「追い出そうよ、私たちで」
「………」
「私の名前は笑。あなたは?」
「……流」
とおい、遠い昔。
数えるのが面倒になるくらい昔の話である。
笑と出会ったのは。
そして、まだ数えられるくらい前に出会ったのは、左豊。
まだいる。
げんなりしながらも、口の端は僅かに上がり。
手毬を一緒にしようとの、笑と左豊の誘いをすげなく断った。
[霞たつながき春日にこどもらと
手毬つきつつこの日暮らしつ]
(良寛)
[霞の立つ長い春の日、子どもたちと手毬をつきながら今日を暮らしたよ]
[山かげの岩間をつたふ苔水の
かすかにわれはすみわたるかも]
(良寛)
[山陰の岩間の苔を伝い流れる水が澄み切っているように、私も隠れてかすかにすみ続けている事よ]
【参考文献 : 新総合図説国語 改訂新版 東京書籍株式会社(高校の時に使っていた教科書)】
『想像以上に長くなった』
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