10 宴のあと
「パッヘルさま、そろそろお背中を流しましょうか?」
「うん、でももうちょっと……」
パッヘルは湯船に浸かりながらそっと目を瞑った。
この赤みがかった湯にも不気味な装飾たちにも随分と慣れたものだ。一汗かいたあとの風呂がこんなにも心地よいとは。
「極楽、極楽って感じよねー」
「ふふ。パッヘルさまってば、なんだかお爺さんみたいですね」
湯船の中にはアザミも一緒にいた。珍しく彼女から一緒に風呂に入りたいと打診してきたのだった。
「それにしてもよかったです。グラントさまもガナールさまも、思ったより深刻な傷ではなくて」
「うん、そうだねぇ……」
少々不思議なことではあった。彼らだけではなく、重症に見えた妖精のピンキーもすぐに回復したようだった。森の障気が戻ったあと、他の魔物たちと一緒に討伐軍を元気に追い回していたほどだ。
「パッヘルさまも、お怪我がなくて何よりです」
「怪我はないんだけど……」
パッヘルは暗い顔をした。
実は彼女の魔力はいまだに戻っていなかった。
いや正確に言うなら、戦闘後にまた魔力が失われてしまったのだった。もう一度魔法を使おうとしてもうんともすんとも言わなかったし、例の光のオーラも消えてしまっていた。
もちろん、記憶も戻らない。こちらについては始めから一瞬たりとも戻ってはこなかったが。
「ごめんね」
「え?」
「結局、振り出しに戻っちゃったね」
パッヘルは部下たちに引け目を感じていた。パッヘルが参上した時、アザミやガナールはもちろん、グラントも期待したはずだ。ついに主が戻ってきたのだと。
しかし実際は記憶は戻っていないし、魔力もまた消え失せてしまっている。そのことを知った彼らの落胆は想像に難くなかった。もちろん、誰も態度に表したりはしないものの。
「パッヘルさま」
「ん?」
アザミが真剣な目つきでこちらを見つめていた。
「パッヘルさまは拙者たちを、森のみなさんを守ってくださいました。やっぱり、パッヘルさまはパッヘルさまなのです。たとえ記憶が戻らなくても、拙者にとってパッヘルさまはあなただけなのです」
「アザミ……」
「今朝のことは本当にすみません……でも、今ならはっきりといえます! もうパッヘルさまの記憶が戻らなくても構いません! こうやってちゃんとそばにいてくれるんですから!」
抱きついてきたアザミをしっかりと受けとめる。
なんだか救われたような気持ちだった。
まるでようやく自分の居場所が見つかったかのような妙な安心感。
みんなも、アザミと同じ気持ちでいてくれたらうれしいなとパッヘルは心底思った。
入浴後はちょっとした宴が開かれた。
シープルが腕をふるって大量の料理を作り、誰が誘ったのか森から続々と魔物たちが訪問してきた。そのせいで館は深刻的な圧迫空間と化してしまった。
「おい、パッヘル、遅かったじゃねえか! 危うく爆散しちまうところだったぜ!」
「今日だけはあんたに感謝してあげるわ。だから、いたずらは明日まで我慢ね」
態度はあれだが、言葉が喋れる魔物も喋れない魔物も、みんながみんなパッヘルに感謝しているようだった。
森の魔物たちを見捨てて逃げるべきだという自分の意見が、やはり間違っていたのだと思い知らされる。
「あんまり汚さないでください! 誰が掃除すると思ってるんですか!」
振り回されるアザミに。
「どわーっ! パッヘルさまが大事にしてた置き物を割ってしまったでごわす!」
ハメをはずすガナールに。
黙々と料理を作り続けるシープルの表情も、いつになく満足感に満ち溢れているように感じる。多分気のせいだが。
食堂のテーブルの隅でグラントが一人、ワインをあおっていた。
パッヘルは静かに彼に歩み寄っていった。すると、その姿に気がついたのか隣の席に座っていた魔物がすっと席を空けてくれた。
席に座りながらパッヘルは言う。
「お酒なんて珍しいね」
「ふむ」
目の前にワインの入ったグラスがとん、と置かれる。見ると、シープルが気を利かせてくれたらしかった。
どちらからともなく、二人はグラスを交わした。
「焦らんでいいぞい」
そう言いながら、グラントがパッヘルの肩を叩く。
「……うん」
自分を慕う仲間たちに囲まれて、今は間違いなく幸せだといえる。
魔女という存在の在り方についてはいまだによく分かっていないものの、パッヘル自身はいつまでもこうありたいと願った。
そのためには今回のような危機に立ち向かうための強大な魔力が必要だが、グラントの言うとおり焦ることはないのかもしれない。あれだけの恐怖を植えつけたのだから、当面は討伐隊も攻めてはこないだろうし。
そうだ。記憶のことなんて後回しでいい。
この幸せがずっと続いてくれれば、それでいい。
それで……いい?
「ふうー、ようやく解放されたニョロん」
「そうだね」
魔物たちが去っていったのは夜中になってからだった。
心身ともに疲れきっていたパッヘルは、やっとのことでニョルルンとともに寝室に入った。
「身体が引っ張られてじんじんするニョロん。おやすみだニョロん」
ニョルルンは早くもベッドの装飾と化していた。彼も相当に疲れているらしく、一刻も早く眠りにつきたいのだろうが。
「ちょっと待って」
「ニョロん?」
パッヘルは壁の絵画を見つめていた。
魔女パッヘルが契約を交わしたという悪魔アスモス。
ただ、もはやそんな偶像に何の興味もない。パッヘルはその向こうに、これまでの五日間を見ていた。
この部屋で目が覚めてニョルルンと出会い、アザミや部下たちと出会い、彼らとの絆を深めていって、最終的には森の魔物たちとの絆までもが芽生えた。
目を覚ました時は、まさかこんな気持ちになるとは思いもしなかっただろう。
みんなとの生活を壊したくない。自分はずっと記憶を失ったままの魔女でいい。いつまでも……そう、いつまでもこんな日々が続いていけば……
「そろそろ、本当のことを話してよ」
しかし、パッヘルは踏み出すことにした。
どうしてだかは分からない。
たとえ築き上げてきたものをすべて破壊することになったとしても、今は前に進まなければいけないと思った。
「パッヘルさま?」
振り向いてニョルルンを見つめる。
やがてパッヘルは言った。
「あなたが本当のパッヘルなんでしょ?」
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