9 無間地獄

 暗闇の中をひたすら降下する。やや上方にキルリーの姿も見える。


「キルリーさま! 先ほどの浮遊魔法を!」

「やだやだやだやだっ!」


 もうすっかり自律というものを失っているようだ。彼女は差し出されたミハエルの手をがっしりとつかみ、彼に必死に抱きついた。


「パパ、ママ……! キルリーは何も悪いことしてないよぉ……」


 よく言うもんだと思いつつも、ミハエルは彼女の肩をしっかりと抱きとめた。自分がしっかりしなければ、部隊は壊滅してしまう。


 落ち着け! すべては幻なのだ! あの魔女の得意な幻夢魔法に過ぎないのだ!


 では今の状況がその幻だとして、これからいったい何を突きつけられるのか。落下した先には何が待ち受けているのか。

 そしてその答えは瞬時に明らかとなった。


「う……、うがあああっ……!」


 腹部に強烈な痛みが走ると同時に、降下が停止する。薄れゆく意識の中で、漆黒の空に真っ直ぐ伸びた剣のようなものが見えた。

 どうやら先の尖った大岩らしかった。それが自分の腹から伸びている。

 ミハエルはなんとか理解した。自分は背中からその大岩に貫かれている状態なのだと。


 キ、キルリーは……?


「ぐ……、ぐおおお……」


 周囲に顔を向けようとするが、あまりの痛みにそれすらもままならない。これが魔女の魔法ならば、この痛みさえも幻のはずだ。しかし、とてもそうだとは思えない。

 自身の体重でじわじわと傷口が開いていく感覚。肉が、皮膚が、神経がすり潰されていく。こんなリアルな幻などあるものか。


「やだあああっ! 助けてえええっ! 助けてえええっ!」


 耳の端でキルリーの金切り声が聞こえる。ミハエルはなんとかそちらに視線を向けた。

 そこに両手を鎖で繋がれたキルリーの姿があった。鎖は虚空から伸びており、キルリーはそれに吊るされている形だ。


「キ、キルリーさま……」

「あの子、人を痛めつけるのが大好きなんですって?」


 今度はすぐ頭上で声がする。わざわざ見ずとも、そこにパッヘルのいる気配を感じた。


「それじゃあ私も真似してみようかな、なんてね。本当はこんな悪趣味なの、好きじゃないんだよ?」


 ゆっくりとキルリーを吊るした鎖が降下し始める。


「嘘でしょ? やだよ? あたし、こんなのやだよ? ねえってばっ!」


 じたばたと足を動かすそんな彼女の眼下には、真っ赤な海が広がっていた。

 ぐつぐつと煮えたぎる音と、感覚を失い始めた肌を焼くかすかな熱気。海の正体が溶岩だということがすぐに分かった。


「や、やめ……」


 そこまで言ったところで、ミハエルの口から大量の血液が溢れ出る。もはや喋れる状況ではないらしい。


「ギャアアアァァッ!!」 


 やがてこの世のものとは思えない、狂気をはらんだ叫び声が世界にこだました。


 必死に目をそむけようとするも、まるで何かに操られているようにキルリーから目を離すことができなかった。

 いや、実際に操られているのかもしれない。この世界はパッヘルの思うがままに成り立っているのだから。


 引き上げられたキルリーの下半身には、もう骨しか残っていなかった。その骨さえも高熱に負けてボロボロと崩れ落ちている。

 その間もキルリーは声にならない声を上げ続けていた。それほどの痛みならすでに気絶していてもおかしくにのに、ひょっとしたら気絶できないようになっているのか? そういえば自分も……


 耳もとで囁き声がする。


「安心していいわ。みんな幻だから。実際にはあなたにもあの子にも傷一つつけてない。でもね、すごく痛いでしょう?」


 パッヘルはミハエルの頬にそっと爪を立てた。そのまま頬をすべらせて、一筋の傷跡となる。 


「私ならこれから十年間、百年間、千年間、あなたたちにこの地獄を与え続けることができる。実際には丸一日ぐらいしか経っていないんだけどね」


 ミハエルは耐えがたい恐怖を覚えた。


 いったい何を言っているんだ? この痛みを、恐怖を、千年間……? 千年とはいったいどれほどの長さなんだ?


 気がつくと、すぐ目の前にパッヘルの顔があった。彼女は冷酷な目つきでじっとミハエルを見下ろしていた。


「今後、森の魔物たちや私の仲間たちを傷つけるなら、そのぐらいの覚悟をしておきなさい」


 そしてついにミハエルの意識は、深い闇とともに途切れたのだった。




「隊長! 隊長! しっかりしてください!」

「あ……? ああ……」


 気がつくと、ミハエルは森の入り口に立ち尽くしていた。周囲で必死に部下たちが呼びかけてくれていたようだ。


 空は青い。いや、やや西日が差していた。これはあくまで時間経過によるものだろう。すでにパッヘルの魔法は解かれているようだった。


「よかった! 気がつかれたんですね?」

「ああ、すまない」


 ふと脇に目を向けると、そこではキルリーが自身の部下の魔導師たちに介抱されていた。

 彼女は完全に気を失っているらしい。目は白目を向き、口からは泡を吹き出し、よく見ると失禁もしているようだ。


「凄まじかったです」


 部下の一人が苦々しい顔をしながら言う。


「延々と狂ったように叫び続けて、喉を潰してしまったかもしれません。あの子ほどではありませんが、隊長も……」

「あ、ああ……」


 腹部に手を当てるが、そこにはもちろん貫かれた痕などない。魔女の言うとおりすべては幻だったらしい。


 その時、森のほうから悲鳴が聞こえた。


「魔物だ! 魔物が暴れ出したぞおおおっ!」


 一人の魔導師が森から飛び出してくる。

 たしかに、大量の魔物たちが蠢く気配を感じる。それは部下たちも同じようで、彼らは次々と森に背を向けて逃げ出していった。


「おい、おまえら……!」


 気がつくと気絶したキルリーが一人取り残されていた。彼女を介抱していた魔導師も、みんな彼女を見捨てて逃げたらしい。


「くそ!」


 ミハエルは慌てて彼女をおぶった。重い体を必死に動かして森から遠ざかる。


「退却だ! 一時、退却!」


 遅すぎる退却命令を出しながら、彼は心の中で叫んだ。


 魔女パッヘルめ! 次という次こそは必ずお前を討伐してやるからな!


「次はない、って言ったよね?」


 突然耳もとで囁かれ、ミハエルの背筋が凍った。

 おそるおそる背後を振り向く。すると、あろうことか自分がおぶっていたはずのキルリーの顔が、いつの間にかパッヘルのものに成り変わっていたのだった。

 彼女のその冷たいまなざしから、あの地獄の光景が連想される。恐怖と痛みが一瞬でミハエルの脳内に満ちていった。


「キ、キエエエェッ!」


 ミハエルは奇声を上げながら、パッヘルを背中から払い落とした。そして剣を抜き、高々とそれを振りかぶる。


「隊長! しっかりしてください! その方はキルリーさまです!」


 数人の部下が羽交い締めにし、ミハエルを制止した。


「はなせえええぇぇ! 殺してやる! 殺してやるのだあああっ!」


 まるで何ごともなかったかのように、幻夢の森を包み込む赤い空。

 沈みゆく太陽のみが、彼らを見下ろしていた。

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