8 帰宅

「ど、どうして……?」


 不安と戸惑いの入り混じったか細い声だった。パッヘルは訝しげな視線をグラントに投げかけていた。


「実は……」


 躊躇したように一瞬だけ言葉を切ったグラントだったが、すぐに意を決したようだ。


「お主が記憶を失うのは、これが初めてではない」

「は?」


 驚いて目を見開く。


「初めてじゃないって……それ、どういうこと?」

「ふむ」


 グラントは鼻を鳴らしながら、近くの倒木に腰掛けた。


「今から五十年ほど前、わしが二十歳かそこらだった頃じゃ。ある日の朝、記憶を失くしたとお主に告げられた。先日と全く同じ状況じゃ」

「そんな……」


 あまりのことに言葉を失くす。

 グラントに促され、パッヘルも彼の隣に腰を下ろした。


「もう大騒ぎじゃったわい。当時も館には魔物の家来がたくさん住んでおってな。わし以外の人間も数人おった。とにかく、今よりもずっと大所帯じゃった。魔法を使える者も多くおって、身内で犯人探しが始まったりしてな。誰が魔女の記憶を奪ったんかと――」

「ちょっと! ちょっと、待って! 頭が全然追いつかないんだけど……! つ、つまり、私が記憶を失うのは今回が初めてじゃなくて……五十年前にも一度記憶を失っていて……」

「だから、そう言っておるじゃろう」

「で、でもさ!」


 パッヘルは懇願するような目をグラントに向けた。


「どうしてそれが、その……私の記憶が戻る可能性が限りなく低いってことになるわけ? むしろ逆じゃん! その時、どうやって記憶を取り戻したのか覚えてないの? 覚えてれば、今回も同じように……」


 グラントは口をつぐんだまま目を伏せた。

 その沈黙の意味はパッヘルにもなんとなく想像できた。だが、にわかには信じられなかったのだ。


「つまり……そういうことなの?」

「そういうことじゃ」


 頷いてから、グラントは真っ直ぐにパッヘルを見つめた。


「その時、最後までお主の記憶は戻らなかった。その日を境に、お主はわしの母ではなくなったんじゃ」

「う、嘘でしょ……」


 絞り出すようにそれだけ言うと、パッヘルは両手で頭を抱え込んだ。

 つまり記憶を失うまでの自分は、五十年前に記憶を失ってからの自分ということか。


「それじゃあ本当に……本当に記憶を取り戻す方法なんてないってこと……?」

「あくまで、経験上の話じゃ」

「他人ごとみたいに言わないでよ!」


 思わず怒鳴り声を上げてしまう。いつの間にか目には涙で濡れていた。


「確かに辛いじゃろうが、決して他人ごとなどとは思っておらんぞい」

「……うん、ごめん」

「かまわんよ」


 グラントに優しく頭を撫でられる。

 本当に、どちらが母親なのだろうか。


「ともかく、この話は館の者には内緒にしといたほうがいいじゃろう」

「……どうして?」

「恥ずかしい話じゃが……」


 グラントは腕を組み、虚空を見上げながら言った。


「母の記憶が戻らぬと悟ってから、しばらくお主とのあいだにわだかまりができた。『お前のせいで、母さんが消えてしまった』とお主に怒鳴ったりもした。無論、お主のせいなどではないと、頭の中では分かっていたつもりなんじゃがな。わしもまだ若かったんじゃよ」 


 自然とアザミの顔が思い浮かんだ。


『パッヘルさまは拙者にとって母上のような存在です』


 パッヘルの記憶が戻らないと知った時、アザミも自分に対して複雑な感情を抱いてしまうのか。確かにそれも有り得ないとは言い切れないだろう。


「あのさ」

「ん?」


 ひとつ気になったことを尋ねてみた。


「五十年前に記憶を失うまでの私がお母さんで、今の私が娘だっていうなら――そのあいだの、アザミたちが慕っていた私は、あなたにとってどんな存在だったの?」


 グラントは目を閉じ、また黙り込んでしまった。

 しばらく返事を待っていたが、彼はついに何も言わずに立ち上がったのだった。




 会話もまばらに一時間ほど歩き、二人は無事館に帰り着いた。

 空を覆う木々たちの隙間から、かすかにオレンジ色の陽光が差し込んでいる。なんとか日が暮れる前に帰ってこれたようだ。

 玄関の扉を開けると、部下たちが一列に並んで出迎えてくれた。


「パッヘルさま! お帰りなさいませ!」


 一番に飛びついてきたのはアザミだった。


「お怪我は!? 何か問題はございませんでしたか?」

「大丈夫だってば。なかなか悪くない旅だったよ」


 不安げな彼女を諭すように、笑みを返す。


「そ、そうですか……パッヘルさまにもしものことがあったらと拙者は……」


 そう言いながら、アザミは思い悩むようにうつむいた。そんな彼女の背後には、安堵の表情を浮かべるガナールとニョルルンの姿もあった。

 彼らの様子を眺めながら、パッヘルは先ほどのグラントとの会話を思い出していた。


 そうだ。

 彼らの慕うパッヘルは、もう二度と戻らないかもしれない。

 では、彼らにとってのパッヘルとはなんなのだろう。

 そして、私にとってのパッヘルとは――


 その時、ふと強い衝動に駆られた。


「へ?」


 パッヘルは思いきりアザミを抱きしめていた。その手からすり抜けてしまわないように、強く強く。 


「パ、パッヘルさま? これはいったい?」

「あああああ!」


 吹き抜けのホールにガナールの轟音が鳴り響く。


「アザミばっかりずるいでごわす! お、おいどんもぎゅっとしてほしいでごわす!」

「いいよ」


 アザミから優しく手を解きながら、パッヘルは言った。


「ほら、ガナールもおいで」

「うおおおおお!」

「ぐ、ぐぇぇ……」


 飛び込んできたガナールに潰されそうになりながら、パッヘルは玄関先に佇んだままのグラントに顔を向けた。

 グラントはふんと鼻を鳴らして言った。


「わしは遠慮しとこう」

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