7 母親

 パッヘルは何も答えられず、パクパクと口を動かすばかりだった。

 中年女性がすこぶる小声で話しかけてきたおかげで、周りの者の耳にはパッヘルという単語は届かなかったらしい。どうやらこちらに注意を向けている人物は、他にはいなさそうだ。

 目の前にいたグラントでさえ無反応だったので、パッヘルは彼の背中を忙しなく叩いた。 


「ん?」


 ようやく振り向いたグラントに、中年女性が軽く頭を下げる。


「ああ、お主か……」

「その節は本当にお世話になりました」

「すまんがお忍びってやつでの。ちょいとそっとしておいてくれんか」

「そうですか。我が家にお招きしたかったのですが」

「よければ次の機会にしとくれ。気持ちだけ受け取っておこう」


 二人のやりとりを、パッヘルはまぶたをぱちくりしながら眺めていた。


 し、知り合いなの? おまけに、かなり友好的だし……


「お気をつけくださいませ。憲兵の動きが不穏です」

「ああ、分かっとる」


 別れ際に女性はパッヘルに深くお辞儀をした。なんだかよく分からないが、パッヘルも軽く頭を下げて答える。


「ふむ」


 などと一息つきながら列に戻ろうとするグラントの腕にぴょんと飛びつく。


「な、な、なんなのよ! 今の人は味方なの?」

「まあ、敵ではない」


 グラントはパッヘルを払い除けながら答えた。


「十年ほど前じゃったかな。この町がオーガの大群に襲われたことがあるんじゃ。今のご婦人は、その時お主が命を救った赤子の親じゃよ」

「私が命を救った?」

「そうじゃ。その時だけじゃない。三百年を超える歴史の中で、お主は幾度となくこの町の危機を救ってきておる。その類稀なる魔力でな」


 ようやく合点がいった。町に着く前グラントは、『ここまでくればバレでも大丈夫』と話していたが、つまりはそういうことだったのか。


「つ、つまり……この町の人はみんな私の味方ってこと?」

「そういうことじゃ。ただし、当然ながら国は魔女を認めていない。魔女を支持するのは悪魔崇拝と同じじゃからな。みんな表向きは反魔女の思想を掲げておる」

「ほえー……」


 どうやら、グラントの話は本当らしかった。

 その後も何度か町人に話しかけられ、彼らはみんな魔女を慕っているように見えた。それが店主という場合もあり、『代金はいらないから好きなものを持っていけ』などと豪胆なことを言ってのける人物もいた。もちろん丁重に断っておいたが。

 話しかけてきたのは中年から年寄りがほとんどで、若者は一人もいなかった。おそらく若者にはまだ充分に顔が知れ渡っていないのだろう。おぼろげにだが、町の歴史というものを体感する。




 一時間ほどですべての買い物を終え、パッヘルたちはすんなりと帰路につくことができた。二人は町を出てしばらく歩き、すでに丘を越えようとしていた。

 町の奥――住宅街の方面も少し覗いてみたかったが、あまり帰りが遅くなるのもよろしくない。

 それにあの婦人も言っていたように、兵士の存在もある。兵士は国が派遣しているわけだろうから、彼らには絶対に素性を知られてはいけないということになる。


「随分とご機嫌なようじゃの」

「ん? そう見える? ふふん」


 ただ、パッヘルの足どりはやたらと軽かった。グラントを置いて一人でスキップして帰ってしまいそうなほどに。


「ちやほやされたのがよほど嬉しかったと見えるな」

「そんなんじゃないって。なんかさ、自分が良い魔女だったって知れたのが嬉しいの。だって、そうじゃん。アルマの町のみんなからすると、私って英雄みたいなもんでしょ」

「魔女に良いも悪いもあるまい。あんまりはしゃいでるとまた転ぶぞい」

「こんな何もない道で転ばないっての」

「……ああ、そうじゃったの」


 そう話すグラントの口調は、どこか憂いの色を帯びていた。

 パッヘルは立ち止まり彼を待った。かなり先を歩いていたためそれは妙に長い時間となってしまったが、やがて彼と肩を並べるタイミングでまた声をかける。


「ねえ、色々聞いてもいい?」

「色々?」

「うーん……たとえば」


 尋ねたいことは幾らでもあったが、中でも特に気になっていたことを一つ。


「どうして人間であるはずのあなたが、館で暮らしているのかとか」

「なんじゃ、そんなことか。別に熱心な悪魔崇拝者というわけではないぞい」

「まあ、そうだろうねえ」


 短い付き合いではあるが、なんとなくそれは分かった。


「わしは捨てられたんじゃよ」

「捨てられた?」

「ああ」


 前を向いたまま、グラントは頷いた。


「どこかの川へ流されたらしい。もちろん、まだ赤ん坊だった頃の話じゃから事情はよう分からん。育てられなくなった両親の手によってなのか、もしくは誘拐でもされて邪魔になったのかもしれん」

「ひどい……」

「――ともかく、川に流されるまま、わしは幻夢の森へと迷い込んでいたらしい。川の畔で魔物のエサになろうとしていたところを、お主に助けられたそうじゃ」

「わ、私に……」


 あれ、でもそれって……


 どこかで聞いたことのある話だなと思ったが、すぐに見当がついた。それはアザミが話してくれた彼女とパッヘルとの馴れ初めに類似していた。


 そして――


 彼女はパッヘルのことを、母上のようなものと称していたはずだった。


「これで分かったじゃろ。わしは赤ん坊の頃に森で拾われて、以来ずっとお主のもとに仕えてきた。人間だから、魔物だからなどという問題ではない。わしにとって、あの森が自分の世界のすべてというわけじゃ」

「あ、あのさ」

「ん?」

「つまり、あなたにとって私は……お母さんのようなものってこと?」


 グラントは表情を変えるでもなく、ただじっとパッヘルの顔を見つめた。やがて再び前方に向き返ると、どこか遠くに視線を泳がせながらゆっくりと頷いたのだった。


「まあ、そう呼んでおった頃もあったな……」

「やっぱり……」

「その服は、わしがまだ少年だった頃にお主から贈られたものじゃ」

「え?」


 身を包む衣服たちを見下ろす。


「これ、あなたのために作ったものだったの!?」

「すぐに背が伸びて着られなくなったがの。一応、取っておいたんじゃ」

 ハンチング帽に丸眼鏡、ベストに丈の短いズボン。それらを身に着けたグラントの姿を想像し、不覚にもくすりときてしまった。


「わしは当時からじじいだったわけではないぞい」

「ご。ごめん……」

「かまわん。ほれ、日が暮れんうちにとっとと歩け」

「はーい」


 もうしばらく歩き、二人はついに幻夢の森の入り口まで帰ってきた。

 その頃にはもう軽々しかった足どりもだいぶ鈍くなり、ぜえぜえと肩で息をするようにもなっていた。隣を見ると、グラントもかなり辛そうに見える。


「ねえ。転送の魔法はあるのに、瞬間移動の魔法はないの?」

「あるにはあるが、わしには扱えん。あれは更に高等な魔法じゃ」

「なんか、かゆい所に手が届かない感じ。それさえあれば、買い出しなんてあっという間なのにね」


 言いながら岩の上に腰を下ろそうとする。そこは行きの際に二人で休憩した場所だったが、なぜかグラントはそれを制した。


「休憩はなしじゃ。さっきのあの兵士に見つかったら、今度こそ不審がられてしまうじゃろ」

「そ、それもそうか……」

「先ほど遠目にヤツの馬の影が見えた。どうも、森の外周を見回っておるらしいな。じきにまたここにも来るはずじゃから、とっとと森の中へ入ってしまうんじゃ」

「はーい」


 そんなわけで二人はそそくさと森に入る。ここから館までまたかなり歩かなければならないことを思い出し、パッヘルはげんなりと肩を落とした。


「なんなら先に帰っとくか?」

「へ? どゆこと?」

「お主だけ転送することは可能じゃ。わしはあとからのんびり帰るとしよう」

「い、いいよ」


 力なく首を振る。


「なんかそんなの悪いし、ここまできたら二人で帰ろう」

「そうか。さすがにおぶってはやれんぞ?」

「いいってば!」 


 数時間ぶりに見た森の中の景色は、相変わらず不気味だった。

 ただ、そんな景色がどことなく懐かしくも思えた。親近感とは末恐ろしいものである。ようやく自分の庭に帰ってきた、という感覚さえも抱かされてしまう。

 この森が自分の世界のすべてだと話すグラントも同じだろう。もしくはそれ以上にか。

 そして、彼に対しての親近感も確実に大きくなっているのも自覚した。本当に色々な話ができたし、彼について様々なことを知れた。そういった意味でも、本日のこの旅は有意義だったといえるかもしれない。


「ふふ、お母さんか……」


 独り言のように呟きながら、くすくすと笑う


「なんじゃい。気味の悪い」

「私があなたのお母さんならもっとしっかりしなきゃならないのに、なんか世話になってばかりだよね」

「まったくじゃ。母親というよりは手のかかる娘のようなもんじゃな」

「っていうか孫じゃないの?」

「へらず口だけは達者じゃの」

「でも……早く記憶を取り戻さなきゃね」

「ほう?」


 グラントは気持ち目を丸くした。


「もともとは母親だったのにある日突然娘になるって、ちょっと面白いけど……だけど寂しいじゃん。早く思い出してあげたいよ。アザミたちのことも、あなたのことも……」

 

 それに対しての返事が何もなかったため、不思議に思ってグラントを見やる。

 手先で髭をいじりながら、彼は何か考えごとをしているようだった。


「あの、グラ――」

「ちょいとよいか?」


 話を遮ると同時に、グラントは真っ直ぐにこちらへ目を向けた。


「な、なに?」

「ずっと迷っておったが、いずれは話さねばならん時がくるじゃろうしな」


 その表情はいつもより険しく、パッヘルは思わずたじろいでしまった。


「結論から言うぞ。お主の記憶が蘇る可能性は限りなく低い」

「え……?」


 一瞬、時間が止まったかのようだった。気がつくと、森のどこかから薄っすらと川のせせらぎが聞こえてきた。

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