第二章 町へ

1 眠れる森の魔女

 記憶を失ってから、四日目の朝を迎えていた。

 記憶を失ってからという表現は少々違和感を覚える。本人からしてみれば記憶を失った記憶すらもないわけで、どちらかというと、この世界に目覚めてから四日――としたほうが適当だろうか。


 もしくは逆かもしれないとパッヘルは思う。


 自分は眠りこけたまま、未だに目覚めていないのだ。

 自分が魔女で、化け物たちを従えて、不気味な森の不気味な館で暮らしている。そんな夢の中をゆらゆらと徘徊している。記憶喪失という奇異なる境遇まで付け添えて。


 ああ、もう充分に夢を堪能したから。さっさと覚めちゃえばいいのに……


 キイと音を立てて扉を開く。


「おはよー」


 あくび混じりで、パッヘルは挨拶をした。


「パッヘルさま、おはようございます!」


 朝一番で台座の間を訪れるのは、もはや習慣となっていた。なぜなら、いつもみんながここで自分のことを待っているからだ。だからおそらく、この習慣は記憶を失う前から続いていたのだろう。

 本日もグラントとシープルを除く三人が部屋に集まってきていた。


「……ん?」


 ガナールの様子がおかしいことに気がついた。彼はふて腐れたような顔を浮かべ、じっとパッヘルを見つめていた。


「ど、どうしたの?」


 思いきってパッヘルは尋ねてみた。


「おいどん、パッヘルさまに不満を抱いているでごわす」

「え……?」


 なんともストレートな答えが返ってきた。


 不満? 不満というと……


 ひょっとして、いつまでも記憶が回復しないことに対してだろうか。そのくせとぼけたような挨拶をして彼の神経を逆なでてしまったとでもいうのか。


「ガナールさん! パッヘルさまになんて無礼なことを……」


 アザミがすかさず食ってかかった。


「だってだって……」


 ガナールは悔しそうに歯を食いしばり、やがてビシっとアザミを指差した。


「アザミばっかり贔屓されて、おいどんは寂しいでごわす! おいどんだって、パッヘルさまと一緒にお風呂に入りたいでごわす!」

「は?」


 パッヘルはぽかんと口を開けた。アザミも似たような顔をしている。


「どうしてでごわす、パッヘルさま? どうして、おいどんはお風呂に誘ってくれないでごわすか?」

「どうしてって……」


 確かに、アザミと一緒に入浴するのも初日からの日課となっているが……


「っていうか、記憶を失くす前の私は、あんたもお風呂に誘ってたわけ?」

「もちろんでごわす!」

「図々しい嘘を吐くんじゃありません、この色ボケ巨人が!」


 ずしんと巨体が倒れ込み、その背後に刀をかまえたアザミ。もう見慣れた光景である。


「――まったく、パッヘルさまの記憶がないのをいいことに。いつか拙者の必殺剣の一つ――禁欲の陣で、ばっさり去勢してしまわなければなりませんね」

「な、生々しいからやめて……」

「茶番はそのぐらいにするニョロん」

「……そういうあんたは何してんのよ」


 いつの間にやら身体に巻きついているニョルルンに冷たい眼差しを向ける。


「ボクはパッヘルさまの使い魔だニョロん」

「理由になってないから!」


 言いながらパッヘルはニョルルンを引き剥した。

 ニョルルンは華麗に床に着地した。


「パッヘルさま、先に食堂で朝ごはんでも食べてくるニョロん」

「へ? なんで?」


 朝だからと言われればそれまでだが。


「ちょっと話し合いをしていたのです」


 アザミが代わりに答える。


「物資調達の件について、いよいよどうしようかということで……」

「ああ……」


 そういえば前にもそんな話をしていたのを思い出した。これまではアザミやガナールに变化の魔法をかけ、彼らが町へ買い出しに行っていたのだと。ところが、パッヘルが記憶と一緒に魔法も失ってしまったせいで、それができなくなってしまったのだと。


「――うん、分かった」


 パッヘルは素直にそう返事をして、台座の間をあとにした。

 彼らの話し合いに参加しても力になれそうになかったし、そもそも朝食は食べておきたかったのだった。




 食堂には先客がいた。


「お先に失礼しとるよ」

「どうも……」


 グラントだった。上座のパッヘルの席とは最も遠い席に着いている。

 パッヘルも席に座り、慣れた手つきでちりんと鈴を鳴らした。


「いつもの!」

「かしこまりました」


 飛んできたシープルにそう告げると、今度はしげしげとグラントを観察し始める。

 どうやら、彼のメニューはクリームシチューのようだ。付け合わせにはライ麦パンと、だいぶ文化水準が高い。


「けっこうグルメなんだね」

「お主の好物はわしの口には合わんからのう」


 にべもなく言われ、パッヘルはぶすっと膨れる。


 ったく、人を魔女みたいに言って。魔女なんでしょうけど。


 お互いに口を開かず、気まずい空気が流れていた。

 パッヘルはこのグラントという老人をやや苦手としていた。

 どうもこの老人は自分と距離を置いているというか、一線を引いているというか、そんな気がしてならなかった。


 それはある意味仕方がないともいえる。

 彼は自分と五十年以上の付き合いらしい。長い付き合いだからこそ、今回のことで色々と思うことがあるのかもしれない。むしろ、以前と同じように自分と接する、他の私用人たちのほうが異常だとも考えられる。

 とはいえ、できれば彼とも打ち解けたいというのがパッヘルの本心だ。記憶が戻るにしても戻らないにしても、この先も付き合っていくわけなのだから。


「あの、館の物資が尽きかけてるんだって」


 そんな話を振ってみた。


「ん? そうじゃな」


 グラントは再びスプーンを口へ運ぶ。


「森に住む魔物が变化の魔法を使えるんだっけ?」

「妖精じゃ。あやつらにお主の状況を知られるのは危険じゃから、なんとか嘘で言いくるめて力を借りられないかという話じゃ」

「なるほど。でも、騙すのはなんだか悪い気もするね」

「いっつも騙されとるから、お互い様じゃろうて」


 間を切らさずに話を続けたのが功を奏したか、会話が弾んできた。


「ふーん、そっか。でも、どうやって騙すの?」

「さあのう。そもそも、あやつらの魔法はお主のそれと比べて効果時間も短い。せいぜい一、ニ分じゃろう」

「一、ニ分!?」

「そんな短時間で町へ買い出しに出かけるのは不可能じゃから、妖精を頼るのはきっぱりあきらめるしかないという結論のようじゃな」

「なんかさ……」


 パッヘルは不満げに口唇を尖らせた。


「随分と他人ごとのように話すよね。あなただって、この館の住人なんでしょう」

「他人ごと? はて、そうじゃろうか」


 グラントはそう言いながら、テーブルに立てかけてあった杖を手に立ち上がった。どうやら、食事が済んだらしい。

 一方のパッヘルは、いつの間にか運ばれてきていたトカゲの天ぷらにまだ手をつけてさえいなかった。

 慌ててひとつまみ口へ運ぶ。やはり美味い。


「今日のところは、わしが町へ買い出しに行くことになった」

「え?」


 パッヘルは驚いてグラントを見た。


「そんな、大丈夫なの? けっこうな量なんじゃ……」

「なんとかなるじゃろ。たまにはわしも仕事せんとな」

「そ、そう……」


 アザミの言っていた話し合いとは次回以降のことだったのか。たしかに、今はこの老人に頼ってしまうのが手っ取り早いだろう。

 パッヘルはふと思い立ち、口にしてみた。


「あのさ、私も一緒に行っちゃ駄目かな?」

「ほう?」

「私も力があるってわけじゃないけどいないよりはマシだろうし、私だけが何もせずにじっとしてるのも悪いから……それに、あなたに色々と聞いてみたいこともあるしね」


 グラントはしばし黙ってパッヘルを見つめていた。

 やがてその視線をどこかへ背けながら言った。


「わしは一向に構わんよ」

「駄、目、で、す!」

「うわっ!」


 突然、眼前に現れたアザミのドアップに驚き、パッヘルはその場で飛び跳ねた。


「まったくもう……!」


 アザミは腕を組みながら、グラントに仏頂面を向けた。


「確かにグラントさま一人で買い出しに向かわせるのは、拙者も忍びない気持ちでいっぱいです。しかし、今の状態のパッヘルさまが館の外に出るのは危険過ぎます! おまけに、町へだなんて……町の人にバレたらどうするんですか?」

「ま、なんとかなるじゃろ」


 グラントは楽観的に笑った。

 聞いていてパッヘルは少しだけ落ち込んだ。やはり、魔女というものは普通の人間とは敵対する関係にあるわけか。


「なんとかなりませんよ! パッヘルさまの格好は『私が魔女です』って宣言してるようなものじゃないですか! っていうか、こんな恥ずかしい格好を人前に晒すわけにはいきませんよ!」

「あんた、そういう風に思ってたわけね」


 パッヘルは白い目をアザミに向けた。


「あ……ち、違うんです、パッヘルさま! あくまで人間の倫理観の問題で……!」

「服ならあるぞい」


 その言葉に反応し、パッヘルとアザミは同時にグラントを見やった。


「本当ですか? 拙者、そんな話は初めて……」


 グラントはゆっくりとアザミに近づき、彼女の頭にぽんと手を置いた。


「心配いらん。わしがついておる」

「はあ……」


 そんなわけで、パッヘルは初めて――正確には記憶を失ってから初めて、館の外に出る運びとなった。

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