7 明日になれば

「はあ、疲れた……」


 湯船に肩まで浸かるなり、パッヘルは溜息混じりにそうこぼした。

 館には浴室が二ヶ所あるのだという。一つは部下たちが使用するもので、もう一つがここ――パッヘル専用のものだ。


「パッヘルさま、お湯加減はいかがですか?」


 窓の外からアザミの声。どうやら彼女が薪を焼べてくれているらしい。


「うん、丁度いいみたい。ありがとう」


 湯加減もそうだが、足を悠々と伸ばせる広い浴槽はなかなかに快適だった。

 あとは、柱という柱に巻きついた不気味な植物の蔦、なぜかどんより赤く濁った浴槽の湯、中央辺りにどんと構える悪魔だか魔獣だかのオブジェと、すっかりお馴染みになったどくろ燭台さえ改善してくれれば、本当に至福の空間になっていたかもしれない。


 それにしても、とパッヘルは思う。

 こんな悪趣味な浴室なのに、言われるがまま入浴している自分にやや驚きである。これが慣れというものなのか、もしくは魔女としての自分が本能的に受け入れてしまっているのか。


「パッヘルさま。あれからは、どのように過ごされていたんですか?」

「え? ああ……」


 陽はすでに傾きかけていた。

 朝食のあと、仕事があるからとアザミはすぐにどこかへ消えてしまったのだった。


「しばらくは、ニョルルンが持ってきてくれた不気味なカードで遊んでたかな」

「パッヘルさまの大好きなタロットカードですね! 楽しかったですか?」

「まあまあ楽しめてはいたけど、すぐにニョルルンとガナールもいなくなっちゃった」

「そうですか……みなさん、仕事がありますからね」

「私も何か手伝おうかって言ったんだけど、そういうわけにはいかないって」

「もちろんですよ! パッヘルさまの手を煩わせるわけにはいきません!」


 アザミが喋るたびに彼女の喜怒哀楽が伝わってくるようだった。

 化け物であるとはいえ、一見した限りでは小さな幼女にしか見えない彼女に、ここまで気にかけてもらっているのはなんだか申し訳ないような情けないような気分にさせられる。


「ねえ、アザミ」


 とパッヘルは何気ない調子で言った。


「はい?」

「いつまでもそんなところにいないで、こっちにおいでよ」

「え?」

「こっちにきて、一緒にお風呂入ろうって言ってんの」


 一瞬だけ、アザミは固まった様子だった。


「え!? そ、そんな、従者がパッヘルさまのご入浴の邪魔をするわけには……!」

「昨日まではどうだったの? 私にこうやって誘われたことはなかった?」

「えっと、たまに……」

「じゃあ、決まりだね。ご主人さまの命令ってことで」


 少しのあいだ迷っていたアザミだったが、やがて心を決めたのか「分かりました」と返事をした。


「すぐに準備をしてまいります。お背中をお流ししますね」


 そのどことなく嬉しそうな声色を聞いて、この提案は間違いじゃなかったなとパッヘルはしみじみ思った。

 ものの数分もしないうちに、準備は済んだようだ。


「失礼いたします」


 がらがらと音を立て、アザミは引き戸を開けた。そして、その姿を見てパッヘルはげんなりとした表情を浮かべる。 

 生意気にもタオルで裸体を隠しているのはまだよしとしよう。問題なのは尻尾の先にくっついたままの物騒な代物だ。


「……なにそれ?」

「え?」


 アザミはパッヘルの視線を追うように、後ろを振り向いた。


「ああ、これは拙者の愛刀です」

「知ってる、一度それに殺されかけたから。そうじゃなくて、どうして浴室にそんなものを持ってくるのかって聞いてんの」

「もちろん、パッヘルさまをお守りするためです」


 アザミはない胸を張って答えた。


「入浴中といえども気は抜けません。どこに敵が潜んでいるか分かりませんからね。剣士たるもの、刀は肌身離さず持っておくものなのですよ」

「……そう」


 反論する気力も失せ、パッヘルはぐったりと浴槽にもたれかかった。

 そんな主に手を差し出しながら、アザミは言った。


「さあさあ、パッヘルさま。背中をお流ししましょう」

「ああ、それはありがたいわね」


 返事をしながら、パッヘルはアザミの身体に巻かれたタオルをギュッとつかみ、そのまま思いきり引っ張った。


「わっ! ちょっ!?」 


 アザミは慌ててタオルを押さえた。


「何をするんですか、パッヘルさま?」、

「女同士なんだから、そんなもん外しなさいよ」


 悪戯っぽく、パッヘルは笑った、


「っていうか、その尻尾の付け根の部分がどうなってるのか、ずっと気になってたの」

「そんなの、どうもなってませんってば! どうしちゃったんですか? もしかして、記憶が戻ったんじゃ」

「……私もなかなかいい性格をしてたみたいね」




 抵抗むなしくタオルを剥かれたアザミは、しばらく涙目でぶつぶつと何かを呟いていたが、当初の予定通りパッヘルの背中を流し始めた。


「うう……ひどいですよ、パッヘルさま」

「そんなに気にしないでいいじゃん。たかがちょっとばかし毛深いぐらいで」

「そ、それ以上はやめてください! 拙者、パッヘルさまに刃を向けてしまいます!」

「すでに一度、向けられてるけど」 

「うっ……と、ところでパッヘルさま。あの、グラントさまとはあれからお話になられましたか?」


 アザミは露骨に話題を逸らした。


「ああ、ちょっとだけ。食堂でシープルが入れてくれた奇妙なお茶をちびちび飲んでたんだけど」

「どくだみ茶ですね。それもパッヘルさまの好物でした」

「そう、それ。でその時、あの人が散歩から帰ってきてさ。二階にある書庫で本でも読んでこいだって。私がよっぽど退屈そうに見えたんだろうね。まあ、実際そうだったんだけど」

「グラントさまなりにパッヘルさまを気遣ったのでしょう。あの方は気難しいところもありますが、とても優しいお方ですよ」

「ふーん……あ、交代しよ」

「え? そ、そんな」


 遠慮するアザミを無理やり座らせて、今度はパッヘルが彼女の背中を洗い始める。


「書庫にあった本はどれもこれも悪趣味で……おまけに難しくてさ、ちっとも退屈しのぎにはならなかったな」

「みんなパッヘルさまのコレクションなんですよ。でも、拙者も難しくて読めませんが」

「そうだよねー」


 二人は顔を見合わせ、苦笑した。


「そのあとはどうしていたんですか?」

「うーん」


 パッヘルは虚空を見上げた。


「外には出ないほうがいいって言うし、とりあえず館を散策してたかな。寝室に戻ってベッドに寝転んでてもよかったんだろうけど、なるべく何も考えたくはなかったし」

「あ……そ、そうですよね……」


 パッヘルは自然と朝食時のことを思い出していた。

 無意識のうちに溢れ出た涙。それに気がついた途端、彼女の心は悲しみに満たされた。もちろん、記憶が戻ったわけではなく、感情だけが湧き出てきたのだ。


 底知れないほどの深い悲しみだった。あの感情が記憶を失う直前に覚えたものだったとしたら、いったいどれほどの悲しい出来事が自分の身に降りかかったのか。

 途端に記憶を取り戻すのが怖くなった。グラントの話では、それが明日訪れるかもしれないと。

 自身の境遇を忘れるため、そして恐怖心を振り払うためにも、パッヘルは努めて何も考えないようにしていたのだった。


「拙者はもともと普通の野良猫でした」

「え?」


 唐突なアザミの告白に、パッヘルは目を丸くした。


「ですが、ひょんなことからこんな姿になってしまい、一緒に暮らしていた兄弟たちから巣を追い出されてしまったのです」

「そ、そうなんだ……」


 ひょんなこととはいったいなんなのだと疑問に思ったが、話の腰を折らないでおく。


「帰る場所を失ってしまった拙者は、単身でこの森を訪れました。この幻夢の森には同じような境遇の魔物や魔獣たちが集まってくるのだと風の噂で聞いたものですから」


 思わず窓の外を見やる。森のどこかから獣の遠吠えが聞こえたような気がした。


「ですが、拙者にはまだ早かったのです。力も弱く気も弱かった拙者は、すぐに群れを成す魔物に追い詰められてしまいました。そのうちの一匹が今にも拙者に飛びかかろうとした時、目の前に一つの影が立ちふさがりました」

「ひょっとしてそれが……?」

「そうです! パッヘルさまだったのです!」


 アザミは身体ごとこちらに向けて言った。興奮からか、猫の耳がぴんと立っている。


「パッヘルさまが魔物たちを一瞥すると、彼らはそそくさと逃げるようにその場を去っていったのです。そして、パッヘルさまは相変わらず怯えたままの拙者に優しく微笑みかけ、『行くところがないのなら、うちにきなよ』と手を差し伸べてくれました」


 アザミはパッヘルの手を包み込むように両手で握りしめた。


「パッヘルさまは拙者にとっての母上のような存在です。兄弟たちからも拒絶された拙者を、その広い心で受け入れてくれたのです」


 真っ直ぐに自分を見つめるアザミの澄んだ瞳から、思わずパッヘルは目を逸らしてしまった。

 なんだか打ちのめされたような気分だった。

 アザミにとって自分はこんなにも大事な存在だったのだ。あるいは他の部下たちや、あのグラントという老人にとっても……

 怖がってばかりいちゃ駄目だと思った。自分を待ってくれている人は、すぐ近くにいるのだ。


「アザミ」


 呼びかけながら、パッヘルはアザミの手を握り返した。


「私、絶対に思い出すよ。あなたのことも、みんなのことも」

「パッヘルさま……」


 アザミは心から安堵したような表情を浮かべ、パッヘルの胸に飛び込んできた。


「きっと……きっと大丈夫です! もしパッヘルさまが危険に晒されるようなら、拙者が命に代えてもお守りしますから!」


 彼女を抱きしめながら、パッヘルはうんと頷いた。


 記憶を失ってから初めての夜が更けていく。

 明日になれば本当にすべてを思い出すことができるのか。思い出したとしても、あの深い悲しみに耐えられるのか。

 幾つもの不安を胸に抱えながらも、パッヘルにはもう迷いはなかった。

 その日、部下たちとの穏やかな晩餐を済ませたあと、パッヘルはニョルルンを連れて早々に寝室にこもったのだった。




 朝を迎える。

 目覚めは悪くない。昨日のような頭痛はないし、意識も鮮明としている。

 ベッドの飾り板にニョルルンの姿はなかった。先に起きて、下に降りているのだろうか。


「さあ、私も行かなきゃ」


 パッヘルはベッドを発ち魔女一式を身につけると、そのまま堂々とした足どりで寝室を後にした。

 静まり返るホールを抜け、一階の台座の間の扉を開く。


 部下たちが彼女を待っていた。

 彼らの期待のこもった視線を浴びながら、パッヘルは台座に向けて颯爽と歩く。


「パッヘルさま!」

「もしかして記憶が……!」


 部下たちが次々とそのような声を上げる。

 パッヘルはふっと微笑を浮かべ、マントを翻しながら彼らのほうを振り向いた。

 息を呑む音が聞こえるようだった。部下たちはいずれも緊張した面持ちで、パッヘルの第一声を待っていた。


 やがて、パッヘルは静かに口を開く。


「やっぱり、何も思いだせない」


 全員が一斉にずっこけた。


「……じゃあ、どうしてそんなに堂々としてるニョロん?」


 ニョルルンが呆れたような口調で言った。


「いや、なんか、形から入ればそのうち思い出すのかなって……」


 パッヘルは赤面しながら、ぽりぽりと頬を掻いた。




 彼女の失われた記憶との戦いは、こうして続いてゆく――

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