6 溢れ出すもの
台座のあった部屋のすぐ隣に食堂があった。
黒いテーブルクロスのかかった長テーブルを八つの椅子が囲んでいる。その上座と思われる席にパッヘルは座らされていた。
先ほどの部屋に比べればだいぶ過ごしやすい空間だった。なんといっても、窓がたくさんあって比較的視界が明るい。例によって窓の向こうには森しか見えないのだが。
食事を摂りたいと言い出したのは、他でもないパッヘルだった。
明日になれば記憶が戻るかもしれないというグラントの言葉に、心なしか安心してしまったらしい。途端にぐうと腹の虫が音を上げ始めた。
アザミにそう告げると、待ってましたとばかりにこの食堂へ案内してくれたのだった。
「パッヘルさま、席についたらその鈴を鳴らしてください」
「これ?」
言われるがまま、テーブルの片隅に置かれた呼び鈴を手にとり、ちりんちろんと鳴らしてみる。すると、厨房らしき場所からコック姿の山羊の半獣が飛び出てきた。
「パッヘルさま、本日のご注文は?」
「えっと、あの……シープルさんだよね」
「いかにも」
シープルは頷いた。
「執事である私は、館のすべての雑務を受け持っておりますので」
「料理もなんだ。すごいね……」
「お褒めに預かり光栄です」
ちっとも光栄じゃなさそうな無表情で、シープルは頭を下げた。
「ボクとパッヘルさまにいつものをお願いするニョロん」
テーブルの上でとぐろを巻くニョルルンが、パッヘルの代わりに注文する。
「ちょっと、なんなのよ? いつものって」
「パッヘルさまの大好物だニョロん」
自分の大好物……なんとなくだが、嫌な予感がする。
アザミとガナールは朝早くに食事を済ませていたようで、席に着いてはいたが何も注文しなかった。
「アザミ、買いだしはどうするでごわす?」
「今日のところは中止せざるを得ませんね。明日以降はパッヘルさまの様子次第です」
「森の妖精たちに相談してみるのはどうかニョロん。あいつらも变化の魔法が使えたはずだニョロん」
「おいどん、あいつらは嫌いでごわす……」
「拙者もあまり気乗りはしませんね。彼らにパッヘルさまのことを知られたら何をしでかすか分かりませんよ。本能的にいたずら好きな連中なのですから」
料理を待っているあいだのそんな会話に、パッヘルはまるでついていけなかった。そのことに気がついたアザミが慌てて解説する。
「森を抜けてしばらく歩けば、人間たちの住む小さな町――アルマの町があります。拙者たちはいつもその町へ食料や生活用品を買い出しに出かけるんです」
続きをガナールが引き継いだ。
「だけど、おいどんやアザミは見た目がこんなでごわすから、人間たちが怖がって物を売ってくれないんでごわす」
「なるほど……つまり、普段は私があなたたちを变化の魔法とやらで人間の姿に化かしているわけね」
「その通りでごわす」
魔女というのもなかなかに面倒なものだなとパッヘルは思った。
程なくして、シープルが二つの皿を手に厨房から出て来る。それをパッヘルとニョルルンの眼前に、音も立てずに置いた。
「大変お待たせいたしました」
「あ、ありがとう」
すぐさま厨房へ引っ込んでいくシープルの背中に礼を言いながら、パッヘルは皿の上に盛られた料理を観察する。
どうやら指先でつまめるほどのサイズの何かを、油で揚げたものらしかった。
「いっただきまーすだニョロん」
ニョルルンが主人をさし置いて料理にかぶりついた。幸せそうな顔でもぐもぐと咀嚼している。
「さあさあ、パッヘルさまもお召し上がりください」
「う、うん……でも、これなんなの?」
「食べてみれば分かるでごわす」
食器の類は用意されておらず、やはり手でつまんで食べるのが正解のようだ。
パッヘルはおそるおそるその揚げ物をひとつまみしてみた。
アザミとガナールが何やら期待するような目つきで、パッヘルをじっと見守っている。ひょっとすると、好物を口にすれば記憶が戻るのでは、などと考えているのかもしれない。
パッヘルは意を決して、それを口の中に放り込んだ。
これは、何かの肉だ。すごく柔らかくて……あれ?
もうひとつまみ、口へと運ぶ。
「いかがですか? パッヘルさま」
アザミが真剣な顔つきでパッヘルの顔を覗き込んだ。
ごくんと二口目を飲み込んでから、パッヘルは放心したように「美味しい……」と呟いた。
「柔らかいのに油っこくなくて……それに、一口噛むごとにじゅわって肉汁が溢れ出してくるの。なんていうか、止められないっていうか……」
続けざまにもう一口頬張りながら、少々ばつの悪い顔を浮かべる。
「でも、まあ……記憶のほうはやっぱり駄目みたい」
「ですよねー」
アザミは大きく息を吐いた。
うんうんとガナールが頷く。
「そりゃあ仕方がないでごわす。いくら大好物の〈トカゲの天ぷら〉を口にしたからってそう簡単には――」
「ぶっはあああぁぁ!」
パッヘルは食べていたものを勢いよく吹き出した。それらはことごとくガナールの顔面に貼りついたのだった。
「なんてもんを食べさせんのよ! ト、トカゲなんてそんなもの……! 人間が食べるもんじゃないでしょうが!」
「だから、魔女だって言ってるニョロん」
ニョルルンが呆れたように口を挟む。そう言うお前はなぜ、自分と同じ爬虫類の仲間をそんなに美味そうに食えるんだと言いたくなる。
「でも、パッヘルさまも美味しいって言ってたでごわす」
顔中がトカゲの残骸にまみれたガナールが正論を吐いた。
「うっ、それは……」
「ガナールさん。パッヘルさまに失礼ですので、早くその顔を洗ってきてください」
アザミに非道なことを言われ、ガナールはとぼとぼと食堂を去っていった。
結局、美味いものは美味いということでパッヘルは納得することにした。平穏を取り戻した食事の席で、彼女はふと思いついたことを口にする。
「ところでさ、私にも魔法って使えるのかな」
パッヘルのその言葉を聞いて、アザミとニョルルン、そして洗顔を終えたガナールの三人は顔を見合わせた。
「そ、それはもちろん――」
「パッヘルさまなんだから、当然でごわす!」
「どうやって使うの? 昨日までの私はどうやって魔法を使ってた?」
「どうやってと申されましても……」
アザミは困ったような表情を浮かべた。
「特に何もしてはいませんでした。特定の仕草も、ましてや呪文の類も必要としていないようでしたし……拙者も正直に言うと、あまりパッヘルさまの魔法について詳しくはないのでなんとも言えませんが」
「グラントさまに尋ねるのが手っ取り早いかもしれないでごわす……」
「ボクは聞いたことあるニョロん」
そう話すニョルルンに三人は注目する。
「パッヘルさまの魔法は、すべて人を惑わせる魔法なんだニョロん。だから、变化の魔法も本当に变化してるわけじゃなくて、变化しているように惑わせてるだけなんだニョロん」
「なるほど……」
なんとなくだが理解はできた。
ニョルルンは続ける。
「イメージするんだってパッヘルさまは言ってたニョロん。魔法をかける対象者がどんな幻を見るのか――それを頭の中ではっきりと思い描くのが大事なんだニョロん」
――対象者がどんな幻を見るのか頭の中で思い描く。
パッヘルは試しに言われたとおりやってみた。厳ついガナールの姿が可愛らしい小動物に変貌するといった想像だった。
「どう? ガナールの見た目、变化した?」
「え?」
突然話を振られて驚いた様子のアザミも、次の瞬間にはパッヘルの意図を理解したようだ。ガナールを一瞥してから「いえ」と力なく首を振る。
「やっぱ駄目かー」
パッヘルはふうと溜息を吐きながら椅子にもたれかかった。
もし本当に魔法などというものが使えたなら、自分が本当に魔女であると実感できただろう。しかし、そう上手くはいかないものだ。
そもそも――
本当に自分は魔女なのだろうか。彼ら化け物たちにからかわれているだけなのではなかろうか。
もちろん、彼らが嘘をついているようには見えなかったし、どうしてそんなことをするのかと問われても、これといった答えは見つからない。
パッヘルはまぶたを閉じた。
「パッヘルさま?」
「ごめん、ちょっと静かにしてて」
今一度記憶を呼び起こそうとしたのだ。
よくよく考えてみれば、まだ本気で自分の記憶と向き合ってはいなかったような気がする。もっと深い部分で、気づきにくいところに何か眠っていないだろうか。
意識を極限まで集中させる。
きっと何かあるはず。ちょっとした記憶の欠片でもいいから、どこかに……
家族は? 友人は?
それなら、アザミたちのことは? 私が自在に操っていたという魔法のことは?
――駄目だ!
やっぱり、見つからない。空っぽの箱はどれだけ探っても空だ。目覚めてからの記憶だけが、その箱に薄く覆い被さっていた。
落胆してまぶたを開けると、パッヘルは異変を感じ取った。
周りで見守っていた三人の様子がおかしいのだ。いずれも呆然とした顔で自分を注視している。
「へ?」
「パッヘルさま、お顔を……」
いつの間にか、シープルが傍に立っていた。彼の差し出した右手にはハンカチが握られている。
「え……?」
そして、ようやくパッヘルも自覚した。
溢れ出す大量の涙が、頬を伝っていることを。
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