5 魔女の墓

 命が惜しければ、幻夢の森には足を踏み入れるべきではないだろう。


 道なりに進めば迷うことはない。だが、森の中には目に見えるほど禍々しい妖気が立ち込めているし、腹を空かせた魔獣どもがそこらかしこに身を潜ませている。ただの人間がこの森を歩くのは自殺行為に等しい。


 けれども、グラントにとってはそうでもない。

 彼は幼い頃からこの森で育ってきた。森に棲む魔獣たちは彼の存在を受け入れていた。

 無論、それは森の主ともいえる幻夢の魔女の後ろ盾があったからに他ならなかった。


 グラントがその場所を知ったのは、彼がまだ少年だった頃だ。


「とっておきの場所を教えてやる」


 と、ある日、母に手を引かれて連れてこられたのだった。

 そこへ至る脇道の入り口は、巨大な老木が邪魔をしていて非常に気がつきにくかった。しかし、一度道に入ってしまうと、あとは樹木が開けた部分をたどるのみ。

 当時のグラントは、まるで森に導かれているようだ、と感じた。


「まるで森に導かれてるみたい」


 悪戯っぽくそう囁いたのはパッヘルだ。

 グラントは少年から青年の姿に成長していた。母から教わったとっておきの場所を、今度はグラントがパッヘルに教えてやる番だった。


「気をつけろよ。随分と枯れ木が落ちている」

「大丈夫だって――うわっと!」


 ずしんと音を立て、パッヘルは前のめりに倒れ込んだ。

 はあとグラントは溜息を吐く。


「たった今、気をつけろって言ったばかりだろうが」

「だってえ」


 やがてその場所にたどりつき、二人は自然と並び立った。


「すごい……」


 目を輝かせながら、パッヘルは独り言のように言った。

 この陰鬱な森には似つかわしくない風景がそこにはあった。

 緩い丘になったその広場だけは、空を覆う樹木がぽっかりと抜け落ちていた。爽やかな陽光が降り注ぎ、辺り一面を優しく照らしている。

 まるで、色褪せてしまった絵画にふと鮮やかな色彩が戻ったかのような――ここを訪れるたび、グラントはそんな感覚に陥るのだった。


「すごい! なにここ、すごくない!?」


 パッヘルは感嘆の声を上がるなり、広場を駆けだした。

 それを見て、グラントは慌てて彼女の背中を追いかける。


「おい、そんなにはしゃいでると……」

「ぐえー!」


 言うが早いか、足をもつらせて彼女は派手に転んでしまった。

 グラントはまた大きくため息を吐いた。 


「本当によく転ぶな、お前は」

「いたた……あたし、生まれ変わったら蛇になりたい」


 つまらない冗談を聞き流し、彼女を助け起こす。

 広場の中心には、古代の石碑の跡なのか大きな一枚岩が置かれていた。長い年月を経てところどころが砕け落ち、ほぼ原型を留めてはいないのだろう。

 岩の上には数匹の小鳥たちが日向ぼっこをしていた。森の他の区域では見かけないおとなしい種だ。

 二人は岩に寄りかかるようにして座った。


「この場所には、名前はあるの?」

「母は〈魔女の墓〉と呼んでいたよ」

「素敵な名前だね」


 縁起でもない名前だという感想を期待したのだが、パッヘルは平然とそう言ってのけた。彼女は少々変わった感性の持ち主だということを知っていたので、気にとめないでおく。


「ねえ、どうしてあたしにこの場所を教えてくれたの?」

「あん……?」


 グラントの顔にわずかな狼狽の色が現れた。


「あなたとお母さんだけの秘密の場所だったんでしょ?」

「そりゃあまあ……」


 それ以上、グラントは何も答えなかった。

 しばしの沈黙。先ほどよりも少し強くなった風が、木々たちをざわめかせていた。


「ねえ、グラント」


 やがて、パッヘルは静かに口を開いた。


「まだ、あたしを恨んでるの?」




 あれから数十年の月日が流れた今でも、<魔女の墓>は何も変わっていなかった。母の愛した、パッヘルの愛した、あの景色のままだった。

 ふと肩越しに脇を見やる。いつもそこで笑っていたパッヘルの姿はもちろんない。


 彼女は記憶を失ってしまったのだという。


 館に残した彼女は、今頃どんな思いでいるのだろう。自分の運命を受け入れられずに泣きじゃくっているのか、悩んでも仕方がないと開き直っているのか。

 一日様子を見てはどうかとグラントは提案した。パッヘルの魔法が原因ならば、その効力が失うのを待ってみてはと。


 しかし――


 グラントは確信していた。

 パッヘルの記憶はもう二度と元には戻らないだろう。


 仰向けになり、澄んだ空を見上げる。今にも溢れ出してしまいそうな様々な感情を誤魔化したかったのかもしれない。

 思えば、何もかもあの日と同じだ。あの日も、グラントは一人で〈魔女の墓〉を訪れたのだった。


 母を失ったあの日と、何もかもが――

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