3 館の住人たち

「パッヘル? 私、パッヘルって名前なの?」

「そりゃそうだニョロん」


 大蛇はふて腐れたように床でとぐろを巻いていた。


「パッヘルさまはパッヘルさま。ボクのご主人さまだニョロん。いったい、いつまで寝ぼけてるんだニョロん」

「ご主人さま……」


 少女――パッヘルはその言葉を反芻した。

 どうやら自分は大蛇にご主人さまと呼ばれる存在らしい。そして、それは何も情報を得ていないのと同じである。そのような存在がいてたまるか。


「あのさ、聞いてほしいんだけど」


 パッヘルは改まった口調で言った。姿勢を正し、真っ直ぐに大蛇を見すえる。

 大蛇のほうも、ただならぬ主人の様子を見てか、きゅっととぐろを引き締めた。


「私ね……」


 緊張の最中、パッヘルは静かに口を開いた。


「記憶がないの。自分が誰なのかも、ここがどこなのかも分からない」

「はえ?」


 大蛇は間の抜けた声を上げたかと思うと、はあと深い溜め息を吐いてみせた。


「まったく、パッヘルさまはもう……いくらなんでもそんなドッキリに騙されるほど、ボクは未熟じゃないニョロん」

「いや、本当なんだってば! 君のこともまったく覚えてないの。なんでヘビが喋ってるのか意味が分かんないし……それに、ご主人さまだなんて」

「本当の本当に? 何も覚えていないニョロん?」


 パッヘルは神妙な面持ちで頷く。


「使い魔であるボクのことも? それに、みんなのことも?」 


 うんうんとまた頷く。使い魔? みんな?


「そんな……」


 大蛇はわなわなと小刻みに身体を震わせた。やがて熱湯でもかけられたかのようにピョンと飛び跳ね、パッヘルの背後へと回った。

 パッヘルは慌てて背後に向き変える。そちらには扉があった。


「どうしたの!?」

「ボク、みんなに知らせてくるニョロん!」

「え? ちょっと……」


 大蛇は身体をドアノブへ巻きつけ、器用に扉を開けた。開いた隙間に身体を滑り込ませ、ニョロニョロと部屋の外へと出ていく。律儀にもきちんと閉めていった。

 一人残されたパッヘルはしばし途方に暮れていたが、程なくして重要なことに気がついた。


「他にも誰かがくる! ……服! 早く服を着なきゃ!」


 先ほどの箪笥に駆け寄り、上から順に引き出しの中を確認していく。ところがどの引き出しも空っぽで、残すは一番下のみとなってしまった。


「お願いだから……!」


 祈るような気持ちで最後の引き出しを引くと、そこには待望の衣服がぎっしりと詰まっていた。


「あった!」 


 その一枚を手にとってぱっと広げた次の瞬間、パッヘルは落胆した。それは今身につけているパンツと全く同じものだったのだ。


「これも……これも……こっちは上のほうか……って、なんなのこれ! 下着ばっかじゃない!」


 大量の下着を放り投げながらパッヘルが頭を抱えた時、扉の方からどすどすと足音が聞こえてきた。

 慌ててそちらを振り向く。


「ちょっと、待っ――」

「うおおおおおぉぉぉ!」


 パッヘルの制止の声は、轟音のような雄叫びにかき消された。

 雄叫びと同時に、勢いよく扉が開け放たれる。そして、〈彼〉は身を屈ませるようにして部屋へと入ってきたのだった。


「え? え? えええええっ!?」


 その姿を見て、パッヘルは衝撃を受ける。彼は身長2メートル、いや、3メートルはあろうかという大男だったからだ。

 逆立った髪の毛とぼうぼうに生やした髭は金色で、肌は土気色をしていた。衣服は腰布一枚だけで、筋肉の塊のようなその肉体を惜しげもなく晒している。

 パッヘルは男の正体について心当たりがあった。それはあくまで、記憶の中にではなく知識の中にである。


 こいつ、ひょっとして……オーガ!?


 人を食らう巨人の怪物。特に若い娘が好物で、出くわしてしまったらまず命はないと言われる。どうしてそんな怪物がこんな所に……?

 オーガはじっとパッヘルを見下ろしていた。

 これは間違いない。獲物を狙う捕食者の目だ。


「こ、殺さないで……」 


 パッヘルはぶるぶると震えながら蚊の鳴くような声で言った。その言葉を聞いた瞬間、オーガはカッと目を見開き両腕を広げた。


「ひぃっ!」


 パッヘルは死を覚悟した。しかしそんな思いとは裏腹に、オーガは思いきりパッヘルを抱き寄せたのだった。


「うぎゅ……」

「パッヘルさまあああああぁぁぁ!」 


 またしても涙ながらに轟音を上げる。


「パッヘルさまの右腕である、このガナールのことさえも忘れてしまったというでごわすかあああぁぁ! おいどんがパッヘルさまを……! パッヘルさまを食うわけがないでごわすうううぅぅ!」


 どうやらこのオーガ――ガナールも友好的らしい……らしいのだが。


「ぐ、ぐるじぃ……」


 どっちにしても死ぬ!


 ガナールの丸太のような太い腕がパッヘルの細身の身体を締め上げる。

 パッヘルの意識はもはや絶え絶えとなっていた。みしみしと己の背骨の軋む音が、まるでレクイエムのように聞こえる。


 ああ、お父さん、お母さん。パッヘルは精一杯生きました……


 覚えてもいない両親に今生の別れを告げ、静かにまぶたを閉じようとした時だった。


「パッヘルさまに何をするんですか、この変態巨人!」

「ぐ、ぐおおおぉぉっ!」


 にわかにガナールの腕の力が失われ、パッヘルはぐちゃっと床に投げ出された。


「ふぎゃ!」

「大丈夫ですか、パッヘルさま!」


 ごほごほと咳をしながら、自身に駆け寄ってきた新たなる来訪者を垣間見る。

 <彼女>もまた、人間ではないらしい。

 一見した限りではパッヘルよりもだいぶ幼い――それこそ十歳にも満たない少女の姿をしているが、異様なのは黒いおかっぱ頭から飛び出した動物の耳だ。

 これは、猫の耳だろうか。よく見ると、鼻も猫のそれだし頬には薄っすら猫髭のようなものも見える。

 彼女の手を借りて、パッヘルはようやく立ち上がることができた。


「ぬおおおぉぉ……ぬおおおぉぉ……」


 ガナールはうずくまり、地鳴りのような呻き声を上げていた。よく見ると、股間を両手で押さえている。


「あれは……?」

「パッヘルさまに危害を加える不届き者は、拙者が成敗いたしました」


 にこやかにそう答えながら、猫娘は鞘に収まった刀を掲げてみせた。それを鞘ごと背後から一撃、オーガですら鍛えられていない部位へ打ち込んだわけか。


 パッヘルは改めて彼女を観察してみた。

 なるほど、道着に袴といういかにも刀が似合いそうな出で立ち。お尻からは長い尻尾が伸びており、その尻尾の先で巻きつけるように刀を持っている。普段はそう収納しているらしい。

 兎にも角にも、パッヘルは彼女に親近感を抱いた。可愛らしい見た目もさることながら、これまでのメンツの中で一番話が通じやすそうだったからだ。


「ありがとう。あなた、お名前は?」


 その質問を受けて、猫娘はピクッと一度だけ耳を動かしたかと思うと、今度は大きく肩を落とした。


「やはり、拙者のことさえも覚えていないのですね……」

「あ、いや、それは……」

「ならば、仕方がありません」


 猫娘は尻尾の鞘からゆっくりと刀を抜いた。


「え?」

「パッヘルさまの右腕、アザミ! パッヘルさまのために慈愛の剣を振るいます!」

「どわああっと! なにそれっ!?」


 パッヘルはまたもや腰を抜かしてしまった。

 猫娘――アザミはパッヘルに向け真っ直ぐに刀を構えていた。刀身は彼女の背丈ほどあり、その切っ先がきらりと光っていた。


「そこを動かないでください、パッヘルさま。今、拙者の二十五ある必殺剣のうちの一つ――断霊の陣で、パッヘルさまの記憶を蝕んでいる悪い霊を滅しますから」

「じょ、冗談でしょ? そんなので切られたらさすがに……!」

「ご安心ください! 拙者の必殺剣の成功率は三割を超えますからあああぁぁ!」

「低すぎいいい!」


 アザミが刀を振り上げると同時に、パッヘルは目を瞑った。

 今度こそダメだ。死んだ。


 ――さようなら、みんな。さようなら、世界。何も覚えていないけど。


「この猫又あああぁぁ! パッヘルさまに何をするでごわすかあああああぁぁぁ!」

「なっ! は、離してください!」

「――うん?」


 おそるおそる目を開けると、復活したらしいガナールがアザミを羽交い締めにしてくれていた。

 宙で足をばたばたさせながら、アザミは叫んだ。


「こうするしかないのです! パッヘルさまはきっと、悪い霊に憑かれてしまっているのです!」

「馬鹿なことを言うなでごわす! これは、どう考えても記憶を消去する魔法の仕業でごわす!」

「魔法ですって?」


 途端にアザミがおとなしくなる。それこそ、憑きものがとれたかのように。

 もはや害はあるまいと判断したのか、ガナールはアザミを床に下ろした。


 ――魔法?


 パッヘルは思わず先ほど見かけた魔女帽子を一瞥していた。

 一方でアザミは、刀を鞘に収めながら何やら思い巡らせている様子だ。ぶつぶつと独り言を呟いている。


「記憶を消去する魔法……しかし、そんな魔法が使えるのは……」

「幻夢の魔女、だけじゃろうな」


 扉の方から新しい声。三人は揃ってそちらを見やった。

 そこに、紺色のローブを着込む年老いた男がいた。

 髪の毛や髭は白く染まり、腰もわずかに曲がっている。しかしながら、彼はどことなく他人を圧倒するような威圧感を持っていた。それはもともとのがたいが良いせいなのか、やけに鋭い眼光のせいなのか、もしくはそのどちらともが起因していると考えられた。

 老人は口元に手を当て、ごほごほと咳き込んだ。よく見ると、彼の腕には先ほどの白い大蛇が巻きついている。


「グラントさま……」


 アザミの声には、なぜか若干の戸惑いの色が見えた。 

 パッヘルはというと、少々不思議な気持ちでこのグラントと呼ばれた老人を見つめ続けていた。


 ――この人は、人間?


 見た限りではそうとしか思えない。無論、人間であるに越したことはないが、これまで化け物にしか出会ってこなかったのである。彼女の疑念も当然といえるだろう。


「あの、幻夢の魔女っていったい……?」


 少しばかり緊張しながら、パッヘルはグラントにそう尋ねた。

 グラントはしばしの沈黙を挟み、やがてふんと鼻を鳴らした。


「幻夢の魔女パッヘル。もちろん、お主のことじゃよ」

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