さなえ
津蔵坂あけび
第1話
掃除は、こまめにしている方だと、自分でも思う。けれど、冷蔵庫の冷蔵室の中にこびりついた汚れを拭いたり、冷凍室の霜取りをしたりは、年末の大掃除でもない限りやることはない。この日のために、計画的に冷凍庫の中の食材を消費しておいた。残っているのは、溶けたところで大して傷まない食パンと、保冷剤くらいだ。
冷凍室を開けると、内側にびっしりと霜がついている。安いからといって、リサイクルショップで購入したことを後悔するくらいの量だ。氷の厚さは優に数センチはあり、がっっちがちに固まっている。アイスピックなど、持ち合わせていないので、ベッドの組み立てに使用したプラスドライバーを突き刺してほじくって剥がす。氷の塊を数個剥がし終えたところで、ごろりとアルミ袋に包まれた棒アイスが出てきた。昔ながらのバニラ味のものだが、自分が滅多に買わない系統のアイスだったので首を傾げる。
けれど、輪をかけて不可解だったのは、アルミ袋にマジックペンで書かれた「さなえ」という丸文字だった。
恥ずかしながら、白状する。俺は独り暮らしだ。そして、大学進学を機に住み始めたこの部屋に、女性はおろか友達を上げたこともない。加えて、俺の知り合いや家族に、「さなえ」という名前の女性はいない。つまり、この棒アイスは、”あるはずがないもの”なのだ。
正直、気味が悪い。この冷凍庫は、リサイクルショップで購入した。もちろん、その時点では中身は空っぽのはずだ。それからこの部屋には、俺しか足を踏み入れていない。考えれば考えるだけ、訳が分からなかった。
棒アイスは一度溶けて形が崩れた様子もなく、アルミ袋を開封すれば食べられそうだったが、流石にそうはしなかった。とりあえず、視界の外に置いておいて霜取りに集中した。ドライバーの先で、がんっ、がんっと氷を突っついては剥がす。その作業を繰り返し、冷凍室を引き出して水洗い。キッチンペーパーで水分を拭き取りって引き出しを戻した頃、案の定棒アイスは少し溶けて形が崩れてしまっていた。
さて、この棒アイスをどうしようか。悩んだが、捨ててしまう気にもなれなくて、冷凍庫に戻した。それから冷蔵室も念入りにウェットティッシュで拭いて、掃除を済ませた。冷蔵室からまで身に覚えのないものが出てきたらどうしよう、とも思ったが、幸いにもその心配は無用だった。
清潔になった冷蔵庫で冷やしたビールは、いつもよりよく冷えている気がした。舌に突き刺さるほどの冷たさだ。
「かーっ、旨い!」
まだまだ覚えたての酒なのだが、飲む仕草は完全に親父譲りだ。と気づいてちょっぴり照れ臭くなる。酒の肴にするのは、四人組のゲーム実況者がパーティーゲームをやってバカ騒ぎをする動画だ。ゲームは、子供の頃友達と遊んでいるもので、内容も知っている。だから、酔いが回って上手く働かなくなっていく頭でも楽しめる。それまでポイントを一番稼いでいて、余裕ぶっこいていた奴がドジ踏んで転落したときは、動画の中の奴らと一緒に笑い転げた。ところで、つまみが切れていることに気づく。外は寒いけど、ちょうどいい酔い覚ましになると思い、コンビニに出掛けた。
唐揚げとさきいかを買った。日付も変わろうかという時間帯に揚げ物を買うのは背徳感がある。でもそれがまた、旨さを引き立てるってものだ。部屋着のまま出掛けた下半身から寒さが上ってくるまでに、玄関を開ける。そこで、ふと違和感に気づく。
――音楽が鳴っている。それも、俺の全く趣味じゃない軽いポップスが。キラキラした音色に、甲高い女声の歌唱が乗せられている。おまけに芳香剤なんか置いていないのに、花の香りがする。カモミールみたいな。
でも感じるのは、ひたすら嫌悪感のみだ。まるで姿の見えない同居人が、いつの間にか部屋に居付いているみたいだ。
「誰かいるのかっ!?」
俺の声が廊下と一体化したキッチンスペースに空しく響く。開きっぱなしのドアの向こう側に覗く居間に置いてあるラップトップPCの中で、ポップス歌手が――
ずっと一緒だよDarling
私との
なんて歌っている。
やめろ。やめろ。頭がおかしくなりそうだ。
「いったい、どうなってるんだよ」
動画サイトの画面を閉じる。静寂が戻って、ようやくこの場所が自分の部屋だという自覚を取り戻す。
もうすっかり、酔いが覚めてしまっていた。けれど、それがたまらなく居心地が悪い。今にも、あのポップソングが鮮明に聞こえてきたらと思うと。平静なんか保って居られなくて、普段はベースにしているウイスキーをストレートで流し込んだ。
***
頭をトンカチで殴られたような激痛で目が覚めた。
ここまでの二日酔いは久しぶりだ。悪寒が背中をぞわぞわとかけ上がってくる。喉のあたりにこみあげてくるものがあったので、時おり崩れ落ちそうになりながら便所まで這って移動する。ドアノブに手をかけたそのとき、ノブが三十度回ったところで引っかかった。
は?
もう一度、回す。やはり、開かない。
あり得ない!
「開けろ。開けろ! なんで開かないんだ!」
十数回ドアノブをがちゃがちゃ回し続けてやっとドアが開く。俺は頭から便器に飛び込んで胃の中身をぶちまけた。途中から泣きながら吐いた。今日は休みだから、これからどこかに出掛けて、なるべく家に居ないようにしようか。それともホテルに泊まるか、知り合いの家に飛び込むか。どれも気休めにしかならないな。せっかく昨日綺麗にした便器に吐瀉物がこびりついているのを見てると笑えてくる。
それから俺は、自分の部屋に居付いている姿のない同居人を追い出すためにあらゆる手を下した。角という角に盛り塩をし、効き目のありそうなお札を壁という壁に貼りまくった。一応、賃貸なので気を使って養生テープにしておいた。お金を出して霊媒師にも見てもらった。けど、「この部屋には霊は居ない」とほざきやがった。「居るから呼んだんだよ、殺すぞ」と物騒な言葉が口から出そうになったことは、ここだけの話。
でも、でも、でも。何の進展もなかった。
それどころか、その「同居人」の影は、より色を強めてきやがる!
一昨日、体重計に乗ったら、百六十九センチ、五十三キログラムの履歴があった。俺の身長は百七十六センチだ! これも、「さなえ」とかいうやつのなのか? なんで無駄にスタイルいいんだよ、腹立つ。
昨日は、冷蔵庫に「さなえ」と名前の書いたプリンが入っていた。
そして、今日という今日、もう何日もろくに寝れていない俺を、洗面所でピンク色の歯ブラシが出迎えてくれた。鏡の中で、目元にくまのくっきりついた、小汚い男が眉間に皺を寄せて眼をひん剥いている。
自分の顔が、とても他人に見せられたものじゃないとか、それよりも、やり場のない怒りがこみあげてきた。
「ふざけんなっ! いるんだろ。姿を見せろ! さなえ! さなえ!」
この正月休みに入る前は、知りもしなかった女性の名前を叫ぶ。今となっては憎くて憎くて仕方のない名前だ。せっかく口うるさい両親の居る実家に帰らなくていい、気楽な正月休みだったのに。なにもかも、お前のせいで台無しだ。
呼びかけたところで、どうせ返事はない。けど、歯ブラシ立てに、ピンク色の歯ブラシは立てられたまんまだし。奴の生活感だけは、確かにこの部屋に存在し続けている。
「いったい、何なんだよ」
「どうしたの?」
背後から声がした。女の声だ。知らない女の声。
妙に艶がある声色。それでいて、俺を慕っているかのような。振りかえると、長くたおやかな黒髪を伸ばした女性が、我が物顔で俺の部屋に居た。
見ているだけで涼しくなりそうなその美貌が、たまらなく気持ち悪かった。
「さなえ、さなえなのか?」
「何言ってるの。今さら」
彼女は、あっけらかんとした態度で返してくる。もう、訳が分からなくてその場に尻餅をついた。
「ちょっと、大丈夫?」
慌てて駆け寄る彼女に「触るなっ!」と怒号を浴びせて振り払い、居間に出たところで、俺は膝から崩れ落ちる。居間の内装が、何もかも変わっていた。いや、居間の中心に置いてある座卓は、俺がほんの数日前に缶ビールやつまみを置いていたものだ。でも俺が昨夜寝たベッドはなくて、買った覚えのないアイボリーカラーのソファーが置いてあった。他にも馴染みのない家具がちらほらと。
「本当にどうかしたの? ねえ?」
俺は、彼女の声に優しさを感じ取って、身の回りを囲む現実に抗うのをやめた。
何もかも知らない世界で、唯一寄り添ってくれるのが、彼女だったから。
彼女の提案で、病院で診てもらうことになった。
昨日まで真冬だったのに、外は何故か暖かい。スマートフォンを見ると、カレンダーは、昨日から二年と三ヶ月が経過した日付を示していた。意味が分からない。
診察中、いくつか質問を受けた。自分の出身地、誕生日、住所。もちろん全部言えた。けれど、直近の記憶がどれもこれもズレていて、付き添いの「さなえ」とはまるで話が合わなかった。当然だ。今の俺には、二年と三ヶ月の空白の時間があるのだから。俺は、ある種のせん妄のような状態だと診断され、とりあえず定期的な外来で様子を見ることになった。
「でも、身体は悪いところが無くて、本当に良かった」
と、安堵の息を漏らす彼女は、俺の手を引いて繁華街を歩く。二年と三ヶ月が過ぎた街は、馴染みの店もあれば、新しい店もあったりした。周りをきょろきょろと見回して、記憶を整理しながら歩くから、しょっちゅう彼女の足を止めてしまう。
「大丈夫? ほら、行くよ」
俺を呼ぶ彼女の声は、ひたすらに優しい。
不思議な気分だ。ちょっと前までは、彼女の存在が、気味悪くて仕方が無かったのに。今では頼もしささえ感じてしまっている。
「さなえ」
俺は親しみを込めて、彼女の名前を呼んだ。
彼女はにっこりと笑って、「なあに?」と甘えた声を出す。鮮やかな緋色のワンピースの裾を揺らして、俺と向き合ってくれた。背が高い上にヒールを履いているから、目線がぴったりと合う。すごく照れ臭い。
「ありがとう」
けど踏ん張って、感謝の言葉を送った。
正直、彼女がいなかったら、この意味不明な現実に向き合おうと思えなかったから。
「何言ってんの。もう、五年の付き合いでしょ?」
今、彼女は、なんて、いったんだ?
街を行き交う人の声が、聞こえなくなった。
車の音もしなくなった。
ただ、街中に流れるポップス歌手の歌声だけが、頭の中に響いていた。
ずっと一緒だよDarling
私との
聞き覚えのある歌だった。
さなえ 津蔵坂あけび @fellow-again
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