4―2

 その日の放課後は1人で帰りの電車に乗っていた。思うところがあり、いつもの準急のほうではなく各駅停車の普通のほうだった。


 曇った空がどんよりと重たく覆いかぶさり、海の色はただ光を吸い込むかのように暗く波打っていた。


 陽子は部活があるため一緒ではない。そもそも帰りは試験期間は抜きにして、普段も別々に帰ることが多かった。


 ちなみに先日のビリヤードで、俺は運動会で起こったことや委員長の林原にとっちめられたこと、そのあと陽子がバスケ部に入ることになったことなどを近況として山崎に報告していた。


 それを聞いてもらってスッキリしたかったというのが実は本音だったのかもしれない。所々かなりぼやかしながら核心の部分については詳しく言わなかったつもりだが、過去から事情を飲み込んでいる山崎は話を聞いているだけでなんとなく察してくれているようだった。


 俺が話すこと以上は質問してこず、意見することも否定することもなく、時々茶化しを織り交ぜた俺の話し方に時々頬を緩めるだけだった。やはり江上絡みのネタは面白かったらしい。

 話を聞いてもらって気分は少し軽くなったが、


「加賀谷は……まだひきずってんのか?」


 最後に山崎の呟いた言葉が心の奥に引っかかっていた。


 そのとき、停車した駅で電車の同じ車両に何人かの学生が乗り込んできた。この時間はいつもは準急に乗っているため顔を合わさない面々だ。地元では有名な進学校である海浜高校の制服を着ている。


 その中に1人の女子生徒の姿があった。

 名前を新條詩織しんじょうしおりと言う。


 俺が中学時代に想いをつのらせていた相手だった。


 ◇


 逡巡している間に何駅かをやり過ごし、いよいよもうあとがなくなったとき、俺は靴底に鉛が入っているんじゃないかと思うほど重たい足を一歩踏み出した。


「よう、久しぶりだな」

「あっ? 加賀谷くんだ……」


 彼女は振り向いて少し驚いた顔で俺の顔を見上げたあと、にへらと柔らかい笑みをたたえた。

 胸の動機がヤバイ。もしも魂が可視化できるなら、胸からごそっとエクトプラズムが抉り取られているような錯覚を憶えた。


 俺は本当に好きなのだ。彼女に恋してしまっているのだ――。


 他の異性には感じない明確な恋慕。改めて自覚する。

 しかし、そこまで深く好きになってしまった明確な理由は自分でもよくわからない。まぁ、彼女は外見も内面もそれは素晴らしいのではあるが……。


 容姿は好みの問題があるが、ホンワカした可愛い顔は俺の好みにどストライクだった。柔らかそうな髪は暫く会わない内に肩まで伸びていて、艶かしさがプラスされたように思える。高校に入ってから身体つきも女性らしさを増していた。制服の上からでもそれは分かる。くっ、似合う。眩しい!

 しかも彼女は中学時代は学年2位、女子では1位の学力の持ち主であった。ちなみに俺はいつも20位前後をうろちょろしていて、このため進路では別々の高校にいくことになってしまった。


 しかし彼女の最大の魅力はその外見やましてや学力などでもなく、真面目で優しいその性格にあった。おそらくその聖母のような優しさに何人もの男たちが自分に気があるんじゃないかと勘違いしてしまったに違いない。かく言う俺もまたその虜になってしまった1人ではあるのだが。


 とはいえ、そう言った言葉ではとても全てを説明しきれない気持ち、筆舌には尽くし難い激しい想いが胸を襲っていた。


「元気にしてたか?」

「うん……、加賀谷くんも元気そう。良かった……」


 そう言ってまた、にへらと顔を破顔させる。包み込むような優しい笑顔だった。

 たいして会話をするまでもなく、その笑顔に見惚れている内に電車が駅に到着してしまう。


「新條、もしかしたらあとで電話するかも……。じゃ」


 返事を聞く暇もない間際のタイミングでなんとかそれだけ口にすると、俺は電車を飛び降りた。新條はなんのことかよくわからず少し不思議そうな顔で、それでも優しい笑顔は絶やさず俺を見送っていた。

 やがて電車が動き出しその姿が小さくなっていく。


「ハァ〜〜……」


 俺は緊張が解けていくとともに深いため息を吐き出す。


 山崎の言う通りだった。間違いなく今も俺は引きずったままでいる。


 ――はっきりさせなければ。


 ◇


 その日は夜から雨になった。時折風も強く吹いて窓がガタガタ音を立てていた。

 俺は家に帰ってからずっと考えていた。


 新條との関係はすでに半ば夢だと思っている。夢は追いかけている時が楽しい。だからずっと夢に酔っていたいだけなのかもしれない。

 しかし、気球が高く上がるときに重りの砂袋を一つ一つ落としていかなければならないように、抱えたままの夢もいつかはケリをつけなければならないときがくる。

 ただ諦めただけの夢には、そのあとには空虚感しか残らない。

 だから、ちゃんとケリをつけよう。


 高校になってから、おそらく異性から好意的な想いを寄せらるようになってきたように思う。一方でそんなのは自分勝手な思い込みで、ただの自意識過剰ではないかと、そんなことを考える自分自身が酷く醜く愚かに見えて仕方ない。


 いずれにしてもあとのことはどうあれ、とにかく目の前のこの気持ちをそのままにしておくことはできないと悟った。前に進むためには、まずそれをなんとかしなければならない。


 これ以上遅くには電話できない時間帯となり、俺は彼女の名前をタップし、コールする。

 電話をするのはこれが初めてではない。誕生日には電話をして祝ったりしていた。

 そんな微妙な距離感で曖昧な仲の良い関係だったのだ。


「はい、新條です」

「もしもし、加賀谷です」

「あっ……加賀谷くん? 今日は久しぶりだったね? どうしたの?」

「実は前々から言おう言おうと思って伝えられなかったことがあって、今日会った時にやっぱり間違いないと思ったんで、どうしても言いたいことがあったんだ」


 俺のこわばった固い語り口に、こいつはただ事ではないと一瞬で察した新條は、変に茶化したり誤魔化したりせず、真面目な口調で応じてくれた。


「うん……それで?」


 電話の向こうでも彼女の緊張が伝わってくる。ただ黙って俺の言葉を待っていた。


「新條、俺は、加賀谷恵一は、君のことが好きです……」


 生涯でこれ以上ない極限の緊張の中で、ようやっとその言葉を一言を告げる。

 電話の向こうでもハッと息を呑むのがわかった。


 やがて長い間の沈黙……。


 電話を当てたままの耳は痛くなり、腕は極度の緊張でブルブル震えていた。


「ゴメンね……」


 静かに新條の声がした。

 その一言呟いたきり、それ以上は何も言わなかった。やがて受話器の向こうから微かにすすり泣く声が聞こえてきた。

 身体全体に衝撃が走る。心が無になり一切の感覚が一瞬なくなる。本当に何もかもが、ほんの僅かな間だけではあるが完全に失われた。

 臨死体験? もしかしたら死ぬときの感覚ってこんな感じなのかもしれない。


 To say good-by is to die a little

 別れとは 僅かの間 死ぬことだ。


 チャンドラーの名言が染みる。

 その先のことはよく憶えていない。どうやって電話を切ったのかもまったく。


 俺の初恋はこうして終わりを遂げた。

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