第7話 幸せな忘却 3

「では、二人で君の名前を考えようか。」


「はい、でも僕は人の名前ってあまり知らないんです。」


「でも先ほど一人の時は、いくつかの名前を言っていたね?」


「ええ…、そうですね。」


「もう一度、その思い付いた名前を言ってごらん?」


そう言われ、先ほどの名前を並べてみた。


「モーガン、マティアス、ロバート……、」


微かにペンを走らせる音がしている。


「ベンジャミン、グレイアム……、オブリー、」


「それは衛生班の奴だな。」


あ、そうだった。

オブリ―さんは僕をの命を救ってくれた人で、その後も度々病室にお見舞いに来てくれた人だ。


「すいません、後は確か…ベネット、え…と………今はそれぐらいしか思い浮かびません…」


「君はその中で気に入った名前はあるかい?」


「えっ、……いいえ、自分の名前にと考えると、どれもしっくりこなくて。」


「そうか…では今度は私が思いつく名を言ってもいいかい?気に入った名があったら言ってみてくれ。」


「はい。」


「そうだな、ダレル、デーヴィッド。」


アダム様はゆっくり、丁寧に名前を挙げる。

でも、何故かジークフリードさんが小さな声で笑っているのが聞こえる。

一体どうしたんだろう。


「それはね、ダレルとは愛らしい人、デーヴィッドとは愛される者と言う意味が有るのですよ。きっと少将殿はあなたの為に色々考えていたんでしょうね。」


そうジークフリードさんが教えてくれた。

名前に意味など有るのですか!?

そんな大それた名前、僕には無理です。相応しくありません。


「ジーク、余計な事は言うなと言っただろう。

俺はね、愛しい君に相応しいと思ったものしか考えていない。

だからそんなに深く考えずに、自分がいいと思った物を選んでごらん」


そんな恥ずかしい事を、面と向かって言わないで下さい。

どうしていいか分からなくなっちゃいます。


「俺の考えた他の名も聞きたいかい?ディラン、ヒューバート、ケニー、マシュー。意味も教えようか?」


いえ、聞いてしまったら、きっと選べなくなってしまう。


「特に私のお気に入りは、最後のマシューと言う名前だ。君はどう思う?」


「分かりません。でもアダム様が選んでくださった名前なら、喜んで名乗らせてほしいです。」


「よかった。では、今から君はマシューだ。わが家へようこそマシュー。」


「ありがとうございますアダム様。」


「マシュー、マシュー、マシュー。」


「はい、アダム様。」


「愛しているよ、マシュー。」


僕はここに存在する事を許された気がして、とてもうれしくて、自分からアダム様の首に腕を回し、ギュっとアダム様に抱き着いた。

そしてその耳元に、そっと”愛しています”と呟く。

アダム様は初めは驚いた顔をしていたけれど、すぐにとろけそうな笑顔になり、僕を抱きしめ返してくれた。


「ようやく言ってくれた…」


そう喜んでくれた。

こんなに喜んでもらえるなら、もっと早く言えばよかった。

僕は今までこんなに幸せだった事など無かった。

……今まで……なかった……。

今まで……?


今までっていつの事?僕は?…僕っていったい誰だったんだろう?


「ア…ダム……様…。」


何だろう、何かが僕の頭をこじ開けて出てこようとしている。

嫌だ!出て来るな!お前なんていらない!

そして僕はいつの間にか泣き出していたようだ。


「どうしたんだ!マシュー!!」


宙を見つめ涙を流し続ける僕を、アダム様がしっかりと抱き締めてくれる。


「大丈夫だマシュー。何も心配する事はない。俺がずっと傍に居る。マシュー、マシュー。」


まるで小さな子供をあやすように優しく抱き締め、ゆっくりと揺らすように、頭や背中を撫でてくれる。

そうだ、僕はマシュー。アダム様のマシューです。


「も…だ…いじょぶ…です……。ごめ…なさい。」


「お前が謝る事は何も無い。もう暫く、こうしていよう。」


アダム様はそう言って僕を抱きしめ続けてくれた。

トク、トク、トク、と刻み続けるアダム様の鼓動を聞きながら、壊れそうになっていた僕の心も次第に安らいでいく。

此処は僕がいていい場所なんだ。

この腕を失ったら、僕はきっと死んでしまう。

何となくそう思った。


「今日は此処までに致しましょう。」


気が付くと、ジークフリードさんがノートを抱え、すぐそばに立っていた。


「いえ、僕ならもう大丈夫です。お二人の時間が許すならば続けてください。」


「辛いでしょうに、そんなに無理をなさらなくてもいいのですよ」


そう言いながら、ジークフリードさんは、僕の頭を撫でようとした……、

けれど、アダム様がその手をはじいてしまった。


「はいはい。分かってますよ。このエロ狼殿。せっかくの申し出です。私は空気に戻りますので続けて下さい。」


そう言うと、また元の場所に戻って行った。

アダム様は心配そうな目をしながらも、後を続けた。


「無理をさせてすまない。どうしても早急に決めたい事が有るのだ」


アダム様の手が、優しく僕の頬を撫でる。

その暖かさがとても好きだ。


「今マシューの身元を探させているが、俺としてはそれが判明するまで気長に待つ事は出来ない。だからすぐにでもマシューの戸籍を作ってしまおうと思うのだが。」


「え?」


なぜそんなに僕の戸籍が必要なのだろう。


「えっと…、僕みたいなのは、普通はどうなるのですか?」


「そうだな、普通だったら専門機関が捜索願いに該当者がいないかを調べる。

まあ記憶が無いのだからかなり情報は少なく難航するだろうが。そして身元が分からなかった場合、新たな名前を付け、その名前で戸籍も新しく作り直すことになる。」


「そうなんですか。」


難航すると聞き、僕はどこかでほっとしている。

きっと僕は昔の事を思い出したくないんだ。

僕にはアダム様に付けていただいた名前があるから、後は戸籍を作ってもらうだけだな。


「戸籍が出来ればそれを役所で証明してもらい、国から色々な補助を受けて職に就き、新しい人間として生きていく、というのが一般的な方法だな。」


「でも、新しい戸籍が出来るまで、その人はどうすればいいのですか?僕にはお金もないですし、住む所も有りません。名前や家が無くても仕事は出来ますか?」


出来損ないの僕だけど、何かしら仕事は出来るかな。

いや、仕事をしてお金を稼がないと生きて行けないだろう。

その為には早く体を直して…だめだ、多少無理をしてでも仕事をしなくては。

それから………。


「まっ待て待て、マシュー、これは通常の場合と言っただろう?

マシューは仕事などしなくてもいい。ずっと俺の傍に居てくれるだけでいいんだ。」


「そんな、お世話になりっぱなしなんてダメです。きっと僕にでもできる仕事はある筈ですから、ご迷惑にならない様にすぐにでも働きます。そうだアダム様にもご恩返しをして…」


僕は思うがままに話し続けていると、ふいにアダム様の唇が僕を黙らせた。


「困ったな……。いいかいマシュー、今まで言った事は通常の場合だ。しかしマシューには俺がいる。だから通常の場合と違ってくるんだ」


「そうなんですか?…」


「あぁ、だから俺が今から言う提案を最後まで聞いてほしい」


「えっ…あ…す、すいません。僕は…」


アダム様はお優しい方だから、きっと僕の今後の事も考えて下さっていてくれたのだろう。

僕はそんな事も思いつかず、一方的に捲し立ててしまった。


「マシュー、私の提案は最終的に行き着く先は同じだが、過程として2つある。」


2つですか?

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