第6話 幸せな忘却 2

「僕は一人でも大丈夫です。だからアダム様はお仕事をなさって下さい」


お仕事が有るのは当たり前なのに、僕がすっかり甘えてしまったからアダム様は仕事に行けなかったんだ。

僕はもう自分の事は自分で出来るだろうし、一人になるのは平気だ。


「ジーク、余計な事を言うな!」


「ああ、申し訳ありません。あなたが悪い訳では無いのですよ。ただ今回は健康上の問題で待てをくらった狼が、獲物の周りをウロウロするぐらいしかできず、欲求不満を溜め込んで、頭が使い物にならないだけですから」


「えっと?」


「いつもでしたら、たとえ在宅勤務でも的確な指示が出せる人なんですが、

今はすっかり、残念な狼に成り下がってしまっているだけです」


「それって、えーと、あまり意味が分からないのですが、やっぱり僕のせいなんでですよね?……」


「狼とは何だ狼とは。上官に向かって。」


「狼ではダメですか?では肝っ玉が小さいネズミにしますか?どんな動物に例えてほしいか言ってもらえれば考慮しますよ。しかしそんな事に文句を言う暇が有ったら、さっさとお話を始めていただきたいんですけどね。」


そう言うと、ジークフリードさんは扉に行き、大きく開け放った。


「さあ、ベッドなどでは話は進まないでしょ?

お加減もよさそうですし、こちらのソファでお話なさって下さい。」


「ちっ!」


するとアダム様は、薄い肌掛けのまま、僕を抱え上げた。


「あの、僕歩けますよ」


「無理をしては駄目だよ。何より俺がこうしたいのだから」


ちょっと嬉しい。だけどジークフリードさんがいるから恥ずかしいです。


「まるで新婚カップルのようですね。ご結婚おめでとうございます」


「はは、嫌みのつもりか?だが俺にとっては願っても無い話だな。いつまでも言っていろ」


な、何を言っているんですか!?

アダム様は真面目な方だと思っていたけれど、冗談もお上手なんですね。

それにお顔にいつものクールさが無くなっていて、とても楽しそうだ。

ジークフリード様とお話する時は、いつもこんな顔をしているのでしょうか?

僕はちょっと寂しくなってアダム様の首に回した手に、ギュっと力を込めてしまった。


「この小悪魔め。」


そう言いながらアダム様の唇が近づいてくる。

そんな時、小さな咳払いが聞こえた。


「そんな事ばかりしているからお話が進まないのですよ、このエロ狼殿。早くして下さい。」


「うるさい!」


そう言いながらもアダム様は軽々と僕を隣の部屋に運んでくれる。

だけどやっぱりお二人は仲がいいんだな………。

アダム様は、僕を抱えたままソファに腰を下ろし、それから丁寧に肌掛けで僕を包みなおしてくれた。


「アダム様、僕は重いでしょう?」


「全然」


にっこりと笑いながら短く答えてくれた。

その部屋をぐるっと見渡せば、とても広く豪華な応接間だけれど、

でも僕が一番目を引いたのは、やはり大きな窓とそこからの景色だ。

この部屋からも海が見える……。


「さて、まず名前の件だが、いつまでも“君”では他人行儀で仕方がない。

早く名前で呼びたいのだが。何か思い当たるものはあったかい?」


何となく胸に響くものはいくつかあった。でもそれを口に出すのが怖い。だから…。


「いいえ、思い出せません。でも僕は思ったんです。

もう思い出せないままでもいいかなって。無理に思い出さなくても、今がとても幸せだから」


「俺もとても幸せだ。愛しているよ。」


そう言って、またギュッと抱き締め、キスをしようとしてくれる。

アダム様のキス、最初は戸惑ったけれど、でもとても心地よくて今では当たり前に受け止めている。


「ですから、いい加減にして下さいと言っているのです。」


目の前にいきなりティーカップが差し出された。

いつの間にかいなくなっていたジークフリードさんが、

いつの間にかお茶の支度をして下さっていたようです。

何かジークフリードさんて、すごく出来る人って感じです。


「私が少しでも目を離すと、とたんにこれですか。

まあ仕方がない事とは言え、これからは少将殿ではなく、ずっとエロ狼とお呼びしましょうか。」


「この子に触れることが出来ないのなら、エロ狼だろうが何だろうが構わない。」


「ほう、あの頑固で堅物だったあなたがプライドすら手放しましたか。

運命の番とはすごい物なんですね。少し憧れます。」


え、アダム様って頑固で堅物なんですか?

でもそう言われたアダム様のお顔は怒るでもなく、反って得意げな表情をしている。


「嫌みです。分からなかったのですか?まあとにかくエロ狼殿は朝食を済ませたと思いますが、あなたはまだ何も召し上がって無いでしょう?

簡単なものを用意しましたから、お話をしながらでも召し上がって下さい。」


そう言いながら、サンドイッチもテーブルに並べてくれた。


「さて、まず名前からでしたね?

私はその隅の椅子で空気になって居ますので、チャッチャと片付けてください。

いいですね。空気になって、そこに、い、ま、す、からね。エロ狼殿。」


そう言うと、自分のカップを手に

部屋の隅にあるサイドテーブルに移動していった。


「どうぞ。」


椅子に腰かけたジークフリードさんが、アダム様を促す。


「わ、分かった。だが君は少しでも食べた方がいい。」


そう言いながら、アダム様がサンドイッチを一つ手に取り、僕の口へ運ぶ。

まぁ、いつもの事だから、今更抵抗しても無駄だと分かっていたので、僕は大人しく口を開けた。

結局僕はサンドイッチを一切しか食べられなかった。

だから残った二切れは、アダム様にお願いした。



「さて、名前の件だが、君が思い出せないと言うのであれば、この際新しい名前を付け、戸籍を作ってしまおうと思うがどうだろう。」


「うれしいです。僕もいつも“君”では少し寂しかったから。

アダム様が付けて下さるんですか?」


「俺でいいのか?自分で好きな名が有れば付けてもいいんだぞ。」


「いえ、アダム様に付けてほしいんです。何て言うか、名付け親と言うか。」


「………。」


「え、いえいえいえ、違います!言い間違えました!

親なんて失礼ですよね。」


「そう言われて一瞬どうしようかと思った。」


隅の方で、押し殺したような笑い声が聞こえたけど、

ジークフリードさんも呆れちゃいましたよね、きっと。

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