第5話 幸せな忘却 1

目が覚めると、僕は知らない部屋に一人でいた。

たしか昨日までいたのは、普通の病室だったはずなのに。

今寝ている部屋は、とてもじゃないけど病室には見えない。

いや、あそこもやたら豪華そうな個室だったから、普通の病室とは言い難かったけれど、今いる部屋はそれに輪を掛けた凄い部屋だ。

でも見慣れない部屋にたった一人だけ。

心細くて、とても寂しい。


「一人なんだ……」


そんな事慣れているじゃないかという感情が、心の片隅でささやく。

でも僕が入院してからは、誰かしら傍にいてくれた。

病院の先生、担当の看護師さん、そしてアダム様。


「ここは一体どこなんだろう。

アダム様はお忙しいのかな」


自分から隠れるように一人になる事はあっても、知らぬ間に一人になるなど初めての経験だ。


僕は体を起こし、締め切ったカーテンに手を伸ばして外の様子を窺ってみる。

日はすでに高く、空は晴れ渡っている様子だ。


「海が見える……」


海は好きだ、でも…怖い。

相反する気持ちが交差し、心がざわつく。

僕は海を漂流していたらしいから、多分その時に怖い事があったのかな…。

それからふとアダム様との話を思い出した。

そうだ、僕は名前を思い出さなくちゃ。

思い出して、アダム様にお伝えしなければ。

未だに僕の身元を明らかにできるような記憶は戻らない。

だから、アダム様に自分の名前すら伝えることが出来ないんだ。

僕は思い浮かぶ限りの名前を記憶から拾い出す事にした。


「ロバート、グレイアム、ベンジャミン、マティアス、他には何かあるかな、……エリック、モーガン……」


「君の口から、他の男の名が出るなど、やはりいい気がしないね」


「アダム様!」


そこには部屋の入り口に背を預け、じっとこちらを見つめるアダム様がいた。

あぁ、アダム様。

僕は思わず両手を差し出し、ベッドから身を乗り出した。


「目を覚ましていたんだね、寂しかったかい?」


そう言いながら僕を抱きしめ、覆いかぶさるようにキスをしてくれる。


「はい、とても」


「何か思い出したのか?」


「いえ、思い出せないかと思って、頭に浮かんだ名前を挙げてみたのですが、どうもしっくりこなくて……」


「そうか」


そう言いながら、何度もキスをしてくれるアダム様の力強さが心地いい。

なんて幸せなんだろう。


「あぁ、くそっ、ダメだ」


そう言って、アダム様は急に腕を緩めた。


「ど…うしたんですか?」


僕はアダム様のご機嫌を悪くさせてしまったのだろうか。

少し不安になって問いかける。


「ち、違う、このままでは君の体を気遣うことが出来なくなりそうだから。決して君が悪い訳では無いんだ」


「僕なら……大丈夫ですよ?」


だって、アダム様に抱きしめられるのはとても安心できて好きだから。


「君は何も分かっていない」


アダム様は少し困ったような顔をしながらまたキスをしてくれた。


「さて、今日の気分はどうだい?もしよければ少し話をしようか」


「はい、僕なら大丈夫です」


するとアダム様は、部屋のカーテンをすべて開けて放ってくれた。


「君が寝ている間に私の家に運ばせてもらった。此処は君の部屋だよ、気に入ってくれたらいいのだが」


僕の…部屋なんだ……。

そうだよね、アダム様に優しくしてされたからと言って、いつも一緒にいてもらえる訳では無いのだから。


「広くて、とてもきれいなお部屋ですね」


僕は微笑みながらそう言う。

若草色を基調とした、広く落ち着いた室内。

大きな窓からは港が見え、遠目ながらも様々な船が停泊している。

そして開け放たれたそこからは涼しい風が通り抜けていった。


「海は好きなはずなんです。でも今は少し怖い…」


「すまない、漂流していた時の恐怖が有るのだろう。俺が無神経だったな。

すぐに別の部屋を用意しよう」


アダム様は慌てて部屋から出て行こうとする。


「いえ、そんなことしないで下さい。僕、此処からの眺めが好きです。此処に居れば、あなたがお仕事をしている時もあなたのいる海を見ていられるから」


初めて会った時、アダム様は制服を着ていらっしゃったし、大きな船で助けに来てくれた。

きっと海軍の方なんでしょう?


「ただ、こんなに広い部屋に一人は、ちょっと寂しいです」


つい本音が口をついて出てしまった。

そんな僕の言葉を聞いたアダム様は、何かを考えているようだった。

その表情を見ていると、まるで百面相のようで、ちょっと面白い。


「よし、決めた!海軍をやめる!」


えっ!何言ってるんですか。もしかして僕が寂しいっていったから?

駄目ですよそんな事。


「俺も君と一時も離れていたくはない。しかし俺には仕事が有る。

だが君を一人にしておくのは心配だ。だからと言って君の傍に他の奴を付き添わせるのも嫌だ。

幸いにして、私は海軍をやめても他の仕事もあるし、甲斐もある。

だから俺は海軍はやめる」


「ばかも休み休み言って下さい」


今まで聞いた事の無い声が部屋に響いた。

ドアに目を向ければ長身の男性がそこにいた。

アダム様とはまた違ったタイプのきれいな方だけど、でもやっぱりアダム様の方が素敵だ。


「この部屋に立ち入る事を許可した覚えはないが」


「そうですね。求めた覚えも有りませんし」


どなただろう。アダム様とはとても親しそうだ。


「初めまして、私は少将殿の副官を務めております、ジークフリード・ランセルと申します。多分これから長いお付き合いをすると思いますのでよろしくお願いしますね」


そう言って、にっこりと笑う。


「すいません、僕は名前をまだ思い出せないので名乗ることが出来ません。

ごめんなさい。

でも僕の方こそよろしくお願いします」


そう言って頭を下げた。


「あなたはいい子ですね。おまけにとても礼儀正しい。アダム様になど勿体ない。」


「お前!何を言っているんだ!」


「とにかく、運命の番が現れたと聞いた時から、あなたが海軍をやめると言い出す事は予想が付いていました。」


「それなら話が早い。すぐに退役届を提出するから……」


「だからバカな話は止めて下さいと言いましたよね。この後の事はすべて計画済みであり、手配も完了しています。それよりもあなたは肝心の話が全然済んでいないのでしょう?」


「何の事だ。」


「この方のお名前の事、今後の事、色々です。彼の体を気遣うのも結構ですが、進めなければならない話は少しづつでも片付けておいた方がよろしいかと。」


「お前言葉が丁寧ならいいってものじゃないだろう?もう少し上官を敬いながら話をしろよ。」


「あなたは、きちんと言われなければ面倒な事はすぐ後回しにする癖がありますからね。大方イチャイチャ、ベタベタが忙しくて、肝心な事が進んでいないと判断してここに伺った次第です。私だって、あなたが仕事を休んでいる分、とんでもなく忙しいのですからね。」


「あっ…、ご、ごめんなさい。」


そうか、そうだった。

いつもアダム様が一緒に居てくれたのは、お仕事を休んでいたからだよね。

今頃気が付くなんて、僕は何て世間知らずなんだ。

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