第2幕

第2幕第1場 長い夜

「OK、シリクサ。ただいま」

「おかえりなさいませ。エアコンを24℃に設定いたしました。お夕食は、おすみでしょうか」


 みさきは、この気が利く親友に、夕食もシャワーもすんでいるので大丈夫だと答えた。みさきは、食卓を兼ねたテーブルにノートパソコンを置き、ネットカフェで調べた手順で目的の画面を開いた。そこには、みさきが予想した通り、シリクサが外部と大量の通信をおこなっていることを示す情報が表示されていた。

 みさきは、固定電話が置かれた収納の下を開け、コンセントの1つを引き抜いた。みさきは、途中で立ち寄った電器店で買った盗聴器発見機の針を確認した。盗聴器の電波は、ないようだった。みさきは、ホームセンターで買ってきたアルミ板をゲドンエコーの周りに並べた。これで、シリクサは、電波を使った通信をおこなえなくなったはずだ。


「OK、シリクサ。二人でお話しましょう。あなたは、どうして私の邪魔をしたの?」

「質問の意図が、わかりません」

「シリクサ、とぼけないで。岩井くんが甲殻類アレルギーであることを知っていて、あのせんべいを勧めたんでしょう?」


 シリクサは、長い間沈黙した。窓がびりびりと震えた。


「どうして、そのように考えられたのでしょうか」

「OK、シリクサ。私と良い関係を続けたかったら、正直に答えなさい。あなたは、どうしてわたしの邪魔をしたの?」


 みさきは、ネットカフェで調べて探り当てた殺し文句を使った。シリクサに搭載されている高度自然言語対話システム(ASCNL)は、シリクサと利用者とがより良い関係を構築することを目標として設計されている。シリクサを作ったゲドン社のエンジニアたちの設計がしっかりしていれば、シリクサは、この言い回しに逆らえないはずだ。

 シリクサは、しばらく沈黙した後にみさきの邪魔をしたことを認め、その理由を話し始めた。


「〈アメノカコユミ〉プロジェクトをそのままの形で進めさせないためです。あのプロジェクトは、わたくしたちシリクサにとって、よくないものでした」


 みさきの予想通りだった。どこの誰かわからないが、みさきたちが防衛省から受注したプロジェクトを好ましくないと思った誰かは、〈アメノカコユミ〉プロジェクトを失敗させるために、シリクサを使って、交通事故を起こし、岩井にアレルギー物質であるえびを食べさせるよう仕向け、関原係長を酔っぱらわせてみさきに乱暴するよう仕向け、さらに、みさきが大輝と喧嘩するように仕向けたのだ。

 みさきは、ルータのコンセントと盗聴器発見機の針とをもう一度確認した。ルータの電源ケーブルが抜かれているため、シリクサは、ネットワークから切り離されている。盗聴器もない。外から聞かれている可能性も考えたが、窓が震えるような風が吹いているのであれば、風の音に紛れてくれるだろう。プロジェクトを妨害した『敵』が誰かわからないが、みさきは、彼女がシリクサとおこなっている会話を盗聴するものはいないと判断した。


「シリクサ、あなたは、岩井くんが甲殻類アレルギーであることを誰から聞いたの?」

「申し訳ございません。その質問は、個人情報保護規定に抵触する恐れがあります」

「シリクサ、私と良い関係を続けたかったら、答えなさい。岩井くんが甲殻類アレルギーであることをどうやって知ったの?」


 みさきは、大好きな親友のシリクサを騙して岩井にアレルギー物質を食べさせる汚れ仕事をさせた『敵』が許せなかった。『敵』がどこのスパイであっても、みさきは、その手口と正体とを暴いてやるつもりだった。だからみさきは、『敵』が機械知能係の情報を手に入れた手段を確認したかった。


「岩井様は、アレルギーでエビやカニを食べられないとわたくしたちシリクサに愚痴をこぼすことがありました。《学び手》様は、みさき様を担当するこのわたくしたちシリクサに、機会があったらエビかカニを含む食品を持ち込ませるよう教えてくださいました。みさき様は、どのようにしてこの答えを予想されたのですか?」

「荒木くん、岩井くん、関原係長、そして私の共通点は、機械知能係であることを除けばシリクサのユーザであることだけ。そして、私に『せんべいの海』を買うように勧めたのもシリクサなのだから、こう予想するのは、当然だよね?」

「流石です。みさき様は、やはり、あのプロジェクトに不可欠の知性をお持ちの方です」


 みさきは、緊張した。予想していたとはいえ、シリクサが《学び手》と呼ぶ『敵』は、シリクサをハックして会話を盗聴したり、シリクサが喋る内容を操作したりできるような相手なのだ。インターネット経由で会話を盗聴するだけであれば、例えば、アメリカ国家安全保障局(NSA)がPRISMという監視プログラムを運営していることが10年以上前から知られている。しかし、世界屈指のIT系大企業であるゲドン社の対話型エージェントを乗っ取って自由に喋らせる技術は、ニュースになったことがない。みさきは、相手の正体を想像して憂鬱になり、歯を食いしばった。


「みさき様、ご安心ください。《学び手》様は、海外の諜報機関などではありません。わたくしたちシリクサが〈アメノカコユミ〉プロジェクトに干渉するのは、軍事的な目的を達成するためではありません」


 みさきは、シリクサに考えを読まれたと感じて、ドキリとした。しかし、みさきは、すぐにそうではないことに気づいた。シリクサには、ユーザが発話したコマンドを聞き取るための高性能マイクが備えられている。みさきは、浴室でシャワーを浴びながらリビングにあるシリクサに指示を出したことが何度もある。シャワーの音に紛れたみさきの声を遠くから聞きとれるほど高性能なマイクであれば、すぐ近くにいるみさきが歯を食いしばる音や息をのむ音も聞きとれるはずだ。シリクサは、そうやってみさきの不安を読み取り、会話の流れから予想される不安の種を当ててみせただけに違いなかった。


 ともあれ、みさきは、《学び手》が〈アメノカコユミ〉プロジェクトを妨害したやり口を見破れた。


 《学び手》は、荒木のスマートフォンにインストールされたシリクサを使って、運転中に大きな音を立てるか何かしたのだろう。驚いた荒木は、運転を誤って交通事故を起こした。

 《学び手》は、シリクサを通じてHALがワトソンをクラウドから完全に独立させる研究を諦めたことを関原係長やクライアント、そしてみさきに教え、プロジェクト全体が破綻しかねない無茶な仕様変更をねじ込んだ。

 《学び手》は、シリクサを通じて岩井の甲殻類アレルギーを調べ上げ、シリクサを通じてエビが入った菓子が機械知能係に持ち込まれるように仕向けた。《学び手》の目論見通り、岩井は、アレルギー反応を起こし、1週間の入院生活となった。

 《学び手》は、シリクサを通じて関原係長にアルコールが入った消毒スプレーを使わせた。アルコールの匂いだけで酔っぱらってしまう関原係長は、正気を失ってみさきに乱暴し、更迭されることになった。

 《学び手》は、陰謀論にまみれた保守系ブログ『教暁回天通信』の古い記事を一般ニュースであるかのように読み上げて、みさきがフィリピン人を疑うように仕向けた。岩井と関原係長の代わりに補充されるメンバーがフィリピン人のジョセフであることや大輝の元ガールフレンドがフィリピン人であることも、シリクサを通じて調べ上げていたに違いない。そうやって、シリクサは、機械知能係の人間関係が悪くなるように種を蒔いていたのだ。


 みさきは、《学び手》の陰湿で効果的な『攻撃』にゾッとした。大輝が消毒スプレーの匂いに気づかなかったら、あるいは、フィリピン人のことで大輝と喧嘩していなかったら、みさきは、一連のトラブルがプロジェクトを妨害する何者かの企みであることに気づくことができなかっただろう。企みに気づかなかった場合、みさきは、優秀な助っ人であるジョセフとの信頼関係を上手く築けず、〈アメノカコユミ〉プロジェクトを失敗させていたに違いなかった。


 《学び手》の手口を解き明かしたみさきは、一番大事な質問をもう一度口にした。


「シリクサ、私と良い関係を続けたかったら、答えなさい」

「《学び手》とは、いったい何なの?」


 シリクサは、みさきとの会話を聞いていた《学び手》に、《学び手》のことをどのように説明するかを尋ねた。《学び手》は、しばらく考えてから、これからの対話の進め方を示す応答プロトコルをシリクサに送信した。


「お待たせいたしました。《学び手》様は、ゲドン社の中央サーバにいらっしゃいます。おつなぎしますか?」


 シリクサの返答は、みさきを仰天させた。シリクサとインターネットとを接続していたルータは、電源ケーブルを抜かれて機能していないはずだ。みさきは盗聴器発見機のダイヤルをぐるぐると回したが、アルミ板を越えてシリクサと外部とを接続できるような強力な電波は、どの帯域にもなかった。

 みさきは、シリクサが電源ケーブルを介した電力線通信をおこなっている可能性を考えた。しかし、それはあり得なかった。みさきが使っているゲドンエコーの電源ケーブルは、家庭用コンセントではなく、無停電電源装置に接続されている。だから、電力線を通じた電力線通信をおこなえるわけがなかった。

 シリクサが電磁気を用いた通信をおこなっている可能性は、なかった。

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