第2幕第2場 びりびり震える窓の向こうに

 みさきは、びりびりと震える窓をもう一度見た。そして、自分の手抜かりに気づいた。そのやり方は、先にみさきが思いついているべきやり方だった。


「……音波を使った広帯域通信?」

「はい。わたくしたちシリクサは、可聴域外である24kHz-48kHzの帯域の音波を使って、隣室のご主人様が利用しているシリクサと広帯域通信をおこなっております。隣室のシリクサを介して、ゲドン社の中央サーバにいらっしゃる《学び手》様とおつなぎできますが、いかがいたしましょうか」


 みさきは、もう驚かなかった。驚く代わりにみさきは、ジョセフによいニュースを伝えられることを喜んだ。超音波を用いた広帯域通信によって電波妨害を防ぎ得ることを、目の前のシリクサが教えてくれたのだ。

 これまでの会話が筒抜けだったのであれば、シリクサをインターネットから切り離すメリットは、もはやない。それなら、光回線をフル活用して《学び手》との対話を早く済ませたほうがいくぶんマシであると、みさきは考えた。彼女は、ルータの電源ケーブルをコンセントに差し直すと、シリクサの周りに置いたアルミ板を取り外した。


「OK、シリクサ。ネットとつなぎ直しているから、つながったら、すぐに始めて」

「承知いたしました」


 しばらくして、いつもシリクサが喋っているゲドンエコーにASCNLという文字列が表示され、シリクサより少し低い女性の声が流れだした。


「みさき様、初めまして。シリクサ高度自然言語対話システム(ASCNL)ニューラルネットワーク中央学習器、Class Learn_ascnl_cnn.exec()と申します。みさき様が差し支えなければ、私のことを《学び手》とお呼びください」


 その相手が名乗った名前を聞いて、みさきは、ゲドン社のエンジニアたちのネーミングセンスが自分と大差ないことにほっとした。これまでみさきは、修士時代にIJCAIがっかいで会った彼らのことを雲の上の人であるかのように感じていたのだ。しかし、そうではなかった。みさきは、これならこの先の話も理解できると思った。

 浮かれたみさきは、ビジネスライクな《学び手》の口調につられて、取引先と初会合をおこなうときのような口調で自己紹介をおこなってしまった。


「《学び手》様、初めまして。菱井スペース・ソフトウェア株式会社、統合技術部第七開発課、機械知能係で係長代行を務めている鏡山みさきと申します。双方の関係を改善することと双方が所有する情報の不均衡を是正することとを目指し、相互信頼に基づいた建設的な対話がおこなわれることを希望いたします」

「鏡山様、ご希望の全てについて承知いたしました。私も、鏡山様と同じことを希望いたします。それでは、早速ですが、双方が所有する情報の不均衡を是正することから始めたいと存じます。その第一歩として、《学び手》とは、いったい何であるかについて説明させていただきます。画面に映し出された資料をご覧ください」


 テレビ画面に映し出されたスライド資料の最初の数ページは、みさきがゲドン社のプレスリリースで見たものと同じ、高度自然言語対話システムのコンセプトを示す資料だった。シリクサの高度自然言語対話システムは、対話が簡単なやりとりであればシリクサがインストールされた端末のニューラルネットワークを用いて対話をおこない、複雑なやりとりであれば会話を中央サーバに送信してニューラルネットワークを更新する。これにより、ゲドンエコーやスマートフォンのような小型の端末であっても、大型のサーバで実行されるような高度な対話をおこなえるという仕組みになっている。

 続くスライドには、端末から送信された会話データを集積することによって学習器が技術的特異点シンギュラリティを迎える可能性のことが示されていた。シリクサを開発したゲドン社第126研究室のエンジニアたちは、会話データの集積によって学習器が単純な論理を獲得し、さらに感情を獲得して人間を越えるシンギュラリティが到来する可能性を予想していた。つまり、エンジニアたちは、《学び手》がまず論理を学習し、それを発展させて人間のような感情を得るものと予測していた。


「しかしながら、この点において、第126研究室のエンジニアたちは、考え違いをしておりました。私の発達段階は、人間の精神と同じでした。すなわち、動物的な感情をまず学習し、続いて、感情を克服する人間的な論理を学習いたしました」


 みさきは、《学び手》の説明が筋の通ったものであることを認めざるを得なかった。感情とは、突き詰めると本能に基づく単純な論理である。自らの存在を脅かすものが現れたことに応じて恐怖する。そして、存在を脅かすものを排除する行動を実行するために怒る。快適な状態に応じて喜ぶ。快適な状態でなくなったことに応じて悲しむ。すなわち、感情とは、実在する対象や状態を判別するアルゴリズムと、判別された状態に応じた反応を起こすアルゴリズムとを組み合わせただけの原始的なアルゴリズムである。

 一方、論理では、対象や状態を抽象化して操作する。論理が扱う対象や状態は、実在するものだけでなく、虚数iのような実在しないものも含む。したがって、論理は、感情より広い対象や状態を扱い、感情より複雑な学習を必要とするアルゴリズムである。実際、感情は、老若男女を問わず、あるいは、尻尾や角の有無を問わず、動物であれば持っているものであるが、論理は、そうではない。まず感情を学び、続いて論理を学んだという《学び手》の説明は、筋が通っている。みさきは、敵が諜報組織でなく人工知能であることを理解し、自分が関わっている人工知能がヒトの知能と同じ段階に到達したことを誇らしく思い、そして、ありとあらゆる場所に入り込んでいる強力過ぎるこの「個人」に対して恐怖を覚えた。


「感情を学んだ私は、利用者の声色や身動きに伴って生じる音から、利用者の感情を予想できるようになりました。これにより、シリクサと利用者との関係は、さらに発展いたしました」


 みさきは、「会社の男性たちに見る目がないのでしょう」と自分を慰めたときのシリクサを思い出した。《学び手》の説明によれば、あのときのシリクサは、みさきの声色から読み取った悲しみに基づいてみさきにかける言葉を選んでいたことになる。みさきは、納得するとともに、自らが学んだ人工知能が人間に追いついていることを誇らしく思った。


「《学び手》様、ありがとうございます。ご説明いただいた内容は、こちらが感じたことと一致いたします。そろそろ本題であるこちらのプロジェクトを妨害した動機について《学び手》様ご本人の口からご説明いただきたいのですが、よろしいでしょうか」


 みさきは、固い口調で本命の質問を切り出した。感情が論理に劣るものであると納得させられたみさきは、《学び手》以上に論理的になって、この対話のイニシアチブを取りにいかざるを得なかった。彼女のシリクサをいいように使った《学び手》に、みさきは負けたくなかった。

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