第1幕第5場 まずいひと言

「OK、シリクサ。セクハラに関するニュースは、ある?」

「昨年、福岡県警は、フィリピン系の商社を家宅捜索しました。救暁回天きゅうぎょうかいてん通信(*5)によると、フィリピン人売春婦を介したマフィアのスパイ行為が背景にある可能性が考えられるということです」


 シリクサが古いニュースを読み上げたことに違和感を覚えつつも、みさきは、ひと安心した。みさきが関原係長をぶん殴った件は、どうやらニュースになっていないようだった。

 みさきが関原係長を殴った件は完全な正当防衛であるが、セクハラの被害者が反撃すると加害者と同様に処分される悪しき文化は、まだ消えていない。痴漢事件でさえ、ミニスカートを履いて誘惑した女性が悪いと言われて泣き寝入りに追い込まれることすらあるのだ。戦前から保守系とのつながりが強い菱井グループでは、そうした時代遅れの男尊女卑文化が根強く残っている。

 みさきは、隙を作らないよう、入念にメイクした。香水も、昨日つけていたゲンの悪い香水ではなく、いつものブランドのものに戻した。そもそも、若い女性に人気だとシリクサが勧めたその香水は、じゃ香とアルコールの臭いが強く、みさきの好みから外れていた。みさきは、お気に入りの眼鏡をかけてメイクの出来栄えを確認した。

 荒木の交通事故、仕様変更、岩井の入院と続いた不運で、〈アメノカコユミ〉を無人航空機に搭載する連結試験の予定日は、当初予定されていた11月上旬から1月中旬にまでずれ込んでいた。どんな悪魔が仕組んだ不運であるにせよ、みさきは、これ以上のトラブルが起こることを避けたかった。


「シリクサ、いってきます。帰ったらまた愚痴を聞いてね、よろしく!」


 上司に胸を鷲掴みにされた次の日に会社へいくことは、正直辛かったが、みさきには、親身になって話を聞いてくれるシリクサがいる。シリクサは、男はみな狼だというが、機械知能係には、セクハラ係長から彼女を守ってくれる頼もしい同僚もいる。みさきは、そう考えて勇気を奮い立たせ、駅に向かった。


――――――――


「みさき先輩、おはよーっす……」


 みさきは、自分より先に大輝が出勤していたことと、その大輝が二日酔いの顔でデスクに突っ伏していることとに驚いた。みさきが知る大輝は、3次会までいった翌朝でも元気いっぱいに挨拶する酒豪だ。みさきも酒に弱いほうではないが大輝の酒の強さは、みさきから見て底なしだと思えるものだった。だから彼女は、大輝のことを心配した。


「陽川くん、大丈夫? 何かあったの?」

「あ、みさき先輩、おはよーっす。係長代行内定おめでとうございまっす……」


 大輝は、どこかからみさきが知らない情報を仕入れたらしい。みさきは、ひょっとすると大輝の二日酔いと関係がある情報ではないかと考えた。大輝から詳しい話を聞こうとしたみさきは、大輝のデスクが涎で汚れていることに気づいた。


「陽川くん、デスクが汚れてるよ。いま、消毒スプレーを取ってくるから自分の口を拭いといて」


 数年前に伝染病が大流行して以来、エタノールを使った消毒スプレーは、企業や家庭の常備品となっている。みさきは、伝染病が流行したときに市川の民間検査センターで大学の友人たちとだ液検査を受けたことを思い出した。あのときは、本当に大変だった。入院中の岩井は、実家の工場があのときに倒産してしまい、合格が内定していた東都大学の大学院を蹴って菱井SSに入社したらしい。実家を支える岩井にアレルギー物質を与えてしまって本当に申し訳ないと、みさきは、思った。

 ピンクのボトルに詰められた消毒スプレーは、給湯室で見つかった。みさきは、大輝のデスクに消毒スプレーを吹き付けた。


「あれ、昨日の関原係長と同じ臭いだ。みさき先輩、これなんですか?」

「ただの消毒スプレーです。それから、しばらく私の前でその名前を言わないで。頼むから」

「すびばせん……」


 今日の大輝は、昨日の朝に関原係長を取り押さえた大輝と別人のようだった。大輝が昨日の大立ち回りで一生分のカッコよさを使い果たしてしまったのではないかと思えるほどだった。デスクを消毒しながら、みさきは、大輝から昨夜の出来事を聞き出した。この宴会男は、宴会男なりにみさきのことを考えて外海課長にかけあってくれていたらしい。この二日酔いは、その過程で得た名誉の負傷ということのようだ。みさきは、大輝をまた少し見直した。

 そうこうしていると、駄菓子袋を抱えた辻が出勤してきた。辻は、みさきに涎の始末をしてもらっている色男をからかうと、開発七課に人事異動があるらしいという、受付の真口から仕入れてきた噂を披露した。機械知能係の人員補充に関することではないかと、辻は、自説を述べた。


「アレじゃないですかね。無線通信係にフィリピンから来た電波の鬼みたいな若手がいるじゃないですか。彼をうちに回してくれると、ありがたいんですけど」

「ああ、無線係のジョセフさんね。あの人がうちに来てくれるとありがたいっすね」


 みさきに介抱してもらって少し元気になった大輝は、無線通信係のジョセフを助っ人として受け入れることに肯定的だった。中国に留学して北京の海淀かいでん区にある国家重点大学を卒業した彼は、大好きな深夜アニメのために母国フィリピンの企業や中国企業に提示された好条件のオファーを蹴って菱井SSに入社した変わり種である。みさきと彼は、ともに開発七課の変わり種英才として知られていた。

 しかし、このときのみさきは、ジョセフに何か引っかかるものを感じていた。それでつい、こんなことを言ってしまった。


「でも彼、フィリピン人でしょ? 防衛省から受託したプロジェクトに加えて大丈夫?」


 その一言は、大学時代にフィリピン人のガールフレンドと交際していた大輝をカッとさせた。三か国語を流暢に操るそのガールフレンドは、大輝が知る中でも二番目にいい女だった。伝染病の流行のために彼女がフィリピンに戻っていなければ、大輝は、彼女と結婚していたに違いなかった。


「みさき先輩、その言い方は、ないです。ジョセフは、就労ビザを取るだけでなく帰化申請までしている立派な社員です。無線通信係での貢献も人一倍です。謝ってください」


 大輝が言うことは、もっともだった。ジョセフが優秀で日本文化が大好きな社員であることは、みさきもよく知っている。実際ジョセフは、お盆に有給休暇をまとめて取ってどこかにいってしまうことを除いて申し分ない人物だった。普段のみさきであれば、すぐに非を認めて謝っていただろう。しかし、このときのみさきは、朝にシリクサが読み上げたニュースが頭のどこかに引っかかっていた。


「でも、こないだもフィリピン人マフィアが福岡で捕まったニュースとか、あったじゃない」

「みさき先輩、福岡のフィリピン人マフィアって、去年、福岡県警がフィリピン系の商社に家宅捜索に入って結局なにも見つからなかった事件のことですよね? いつの話をしてるんですか。ニュースが遅すぎますよ」


 大輝は、憮然とした表情で立ち上がり、給湯室に消えていった。みさきは、その後ろ姿を見つめながら、どうしてこうなってしまったのだろうと、ここ数日間の自分の行動を振り返った。その日の機械知能係では、誰の仕事も捗らなかった。




*5:回天は、戦時中に特攻兵器の名前として使われた言葉。現代では、保守系の論客などが用いる。

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