第1幕第4場 サシ飲み

「課長、お疲れ様でーっす。ここは自分が持ちますので、ぐいーっといきましょう!」


 開発七課の外海課長にお酒を勧めているのは、機械知能係の宴会担当、大輝だ。技術統括部で新橋を知り尽くしている男として知られる大輝は、技術統括部の上役たちの好みも知り尽くしている。彼が外海課長攻略のために選んだのは、白髪のマスターが経営するオーセンティックなウイスキーバーだ。


「それじゃ、グレンフィディックをロックでもらおうかな。ここはいい雰囲気だね」

「課長は、一流を知る方ですから、とっておきのところを用意しました。接待にぜひ使ってください」

「はは、そうだね。常務も好きそうだ。君が頼んだものが来たら乾杯しよう」


 大輝の目論見通り、外海課長は、好物のウイスキーを味わって上機嫌になった。外海課長は、ウイスキー好きだけあってウイスキーを語らせ始めたら止まらない。外海課長は、ウイスキーを減らしながらスコッチウイスキーの伝統や、シングルモルトとブレンデッドとの違い、スコットランド出張のときに経験したエピソードなどの持ちネタを次々と披露した。外海課長が3杯目に18年物のタリスカーを注文したところで、大輝は、1つ目の本題を切り出した。


「課長、アレルギーで倒れちゃった岩井さんの代打、至急なんとかなりませんか。ただでさえ荒木さんが交通事故で入院したところに仕様変更への対応で大変になっていて、そろそろうちの主任も倒れそうなんですよ」

「岩井くんの件は、ついてなかったね。卵アレルギーだっけ?」

「いや、甲殻類アレルギーです。レモン塩のせんべいに入っていたえびでアレルギーを起こしちゃいまして」


 大輝は、外海課長の言葉を訂正しつつ、ペースを落とすためにジャーキーを注文した。外海課長が酔っぱらい過ぎて今夜のことを忘れては、元も子もないからだ。もっとも、50代に差しかかった外海課長も百戦錬磨の曲者なので、酔ったふりをして大輝にカマをかけてきた可能性も否定できなかった。敵意がないことを示すために、大輝は、ヘラヘラと笑って見せた。


「岩井くんは、アレルギーのことをみんなに言っていたの?」

「いやー、当の岩井さん本人が誰にも言ったことがないと話してました。付き合いが長い辻さんも知らなかったみたいです。あ、ジャーキーどうぞ」


 大輝は、土曜日の出来事が不可抗力の事故であったことを外海課長にもう一度説明した。今日の事件でみさきへの印象が悪化している可能性がある外海課長がみさきに対する悪印象を持つことを、大輝は、なんとしても避けたかった。


 そう、土曜日だけでなく、月曜日の今日にもまた事件が起きたのだ。大輝が外海課長をウイスキーバーに誘ったのは、この2つ目の本題があったからだ。大輝は、今日の事件を思い返した。

 今朝の機械知能係は、最初から変だった。まずみさきが変だった。大輝が朝一番のお茶をみさきに持っていったとき、みさきは、普段と違う香りをさせていた。大輝が香水についてみさきに尋ねると、彼女は、シリクサの勧めで香水を変えたのだと答えた。その香水が普段のみさきと違う色っぽい香りだったので、大輝は、シリクサが良い仕事をしたと内心で褒めた。

 みさきだけでなく関原係長の臭いも、変だった。いつも通り定時ちょうどに出勤した関原係長は、酒臭いような甘い香りをまとっていた。大輝だけでなく辻も、関原係長が朝から一杯呑んできたのではないかと疑ったほどだ。

 大輝が関原係長の臭いの話をすると、外海課長は、不思議そうな顔をした。


「ふぅん、妙だね。関原くんは、陽川くんも知っての通りアルコールの匂いだけで酔ってしまうくらいお酒に弱いし、前に失敗したことがあるのでうちに来てから酒量を押さえている。そんな彼が朝から一杯やってくるというのは、どうもピンとこない話だねえ」

「自分も、そう思います。昨日は、関原係長だけでなく、鏡山主任も普段付けない香りの香水をつけていて、変な感じでした」


 大輝がその変な感じにもっと気をつけておけば、大輝は、その後に起きた事件を防げたのかもしれない。

 その事件は、みさきが土曜日に起きたアレルギー事件を報告するために関原係長の席に向かったときに起こった。関原係長は、みさきが胸元に構えていたバインダーを押しのけてみさきの胸を鷲掴みにしたのだ。セクハラ係長の名に恥じない、堂々たるセクハラの現行犯だった。


 その後は、大混乱だった。怒りに顔を紅潮させたみさきは、バインダーを思いっきり振り上げて、係長の眼鏡と顔をまとめて殴り飛ばした。バインダーの角ではなく平らな面で叩いたみさきは非常に理性的な対応をしたというのが観戦していた辻の評価だが、とにかくみさきは、眼鏡が吹っ飛ぶほどの勢いで関原係長をぶん殴ったのだ。殴られた関原係長は、一瞬呆然として、それから怒りの咆哮をあげてみさきにつかみかかろうとした。

 そのときに自分がした仕事を、大輝は、誇りに思っている。いつもみさきを目で追っている彼は、いち早く異変に気づき、みさきにつかみかかろうとする関原係長に飛びかかって彼を取り押さえたのだ。大輝は、「係長、セクハラです、ダメです!」と隣の係にも聞こえる大声で叫ぶことも忘れなかった。関原係長とみさきとの間に割って入った大輝は、勢い余ったみさきに殴られたが、それは、大輝にとってご褒美みたいなものだった。


「関原くん、本社でも呑み会の席でやらかしたと聞いていたけど、朝の職場でセクハラの現行犯とはね。陽川くんもびっくりしただろう。お疲れ様」

「いや、ほんっとびっくりしました。なんだこれエロゲーかと思いましたよ」


 どうやら、外海課長の心証は、前科持ちの関原係長がまたやらかしたというものであるようだった。大輝は、関原係長を吹っ飛ばしたみさきに対する処分がなさそうだと感じてほっとした。だから、彼は、その直後に外海課長が投下した爆弾に対する心構えができていなかった。


「関原くんには、しばらくの間、部署を移ってもらうよ。これで2回目だから、彼を可愛がっている本社の常務にもダメだとは、言わせません。当面の間は、鏡山くんに係長代行を務めてもらうから、陽川くんが主任代行として鏡山くんを助けてあげてね」

「俺ぇ!?」


 大輝は、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。関原係長が更迭されれば、係長に次ぐ主任であるみさきが係長代行を務めることになることは、予想していた。しかし、みさきの代わりに主任を務めて係長代行となったみさきを補佐するのは、大輝より年上で部署の先輩でもある辻だと思い込んでいた。実務経験を考えても、仕事の能力を考えても、それが妥当な人事のはずだった。外海課長が何を考えて大輝に主任代行の仕事を割り当てたのか、大輝は、わからなかった。

 混乱する大輝に、外海課長は、大輝の接待能力を買っての人事だと説明した。外海課長は、この後の打ち合わせや引き渡しのときに観咲がクライアントたちを接待しなければならないことと、女性であるみさきがアメノカコユミのクライアントや仲介した議員のような保守系の年配者になめられやすいこととを大輝に説明した。そして、外海課長は、そうした場合にトラブルにならないように上手く調整する役割を大輝に期待していると締めくくった。


「お客様相手に今日みたいなことがあったら困るでしょ? 同期の君がしっかり係長代行を守ってあげてね」


 「陽川くんの昇進に対する仮祝いですから、ここは、私が持ちます」と黒光りするカードを出す外海課長にそう言われると、大輝は、主任代行を断るわけにいかなかった。大輝は、言われなくても何かあれば今日のようにみさきを守るつもりだった。しかし、外海課長が話したことを思うと、みさきを守り続けるのは、そう簡単な仕事ではなさそうだった。

 外海課長と別れてアパートに戻った後も、大輝は、明日から大輝が負うべき責任のことで頭がいっぱいだった。緊張して眠れなくなった機械知能係の宴会男は、コンビニで缶チューハイを6本買って意識を失うことにした。


「OK、シリクサ。6時と6時5分と6時10分に起こして……」

「承知いたしました」


 空になった缶を押しやりながら、みさきを守った男は、目覚ましをセットして、酔いつぶれた。

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