第1幕第3場 苦境、来る

「OK、シリクサ。職場へ持っていくお菓子、何がいいかな?」


 機械知能係では、電波妨害を防ぐ新機能を追加するための修羅場が続いていた。平日であるか週末であるかを問わず、係長と大輝を除くほぼすべての社員が夜遅く過ぎまで残業していた。そんな中で社員たちの癒しとなっていたのは、内部インタフェースを担当する辻が持ってくる菓子の大袋だった。辻が持ってくる菓子は、1個20円のチョコレート菓子を詰めた大袋や穴が空いた棒状の揚げ菓子などの駄菓子ばかりだったが、ともすれば下がり気味になる社員たちの士気を維持するために大いに役立っていた。

 とは言え、毎日毎日駄菓子ばかりでは、士気を維持する効果も下がってくる。納品予定日まで士気を維持し続けるため、みさきは、辻の駄菓子と違うタイプの菓子を持っていこうと考えた。みさきは、時間が許すならば日本橋にある老舗百貨店の地下で菓子を買いたいと思っていた。しかし、毎日一番遅くまで残っているみさきには、日本橋まで菓子を買いにいく時間がなかった。

 そこで、みさきは、百貨店の代わりにゲドン社の通販を使って菓子を調達することにした。みさきが借りている女性向けワンルームがある建物の共用スペースには、入居者の安全と利便のために宅配ボックスが設置されている。これを使えば、帰りが遅いみさきでも、ゲドン社から配達された菓子を受け取ることができる。クール便が必要な生菓子を宅配ボックスで受け取ることはできないが、シリクサなら、常温で配達されても大丈夫な美味しい菓子を知っているに違いなかった。


「愛知県で各種のせんべいを製造している『せんべいの海』が販売する塩レモンせんべいとわさび小花は、いかがでしょうか。塩分とビタミンCを摂取しつつ、わさびの刺激で脳を活性化できます。忙しいビジネスマンが夜に食べるおやつにぴったりの組み合わせだと思います」


 美味しい菓子を尋ねられたシリクサは、テレビ画面にせんべいが詰まった2つの袋を映し出した。200グラムで540円という価格設定は、がんばっている同僚たちに少しよいものを持っていきたいというみさきの気分にぴったりだった。

 少し考えてから、みさきは、同じ会社が販売するせんべいを2袋追加することにした。大輝、辻、岩井の分と自分の分だ。みさきは、残業しない係長の分は不要だと判断した。


「OK、シリクサ。その2つと同じ会社で一番売れている商品2つとを注文して」

「承知いたしました。塩レモンせんべい1袋、わさび小花1袋、えびうす焼2袋を注文してもよろしいですか? 配送料と合わせて3040円になります」

「注文を進めてください。支払いは、1回払いで。宅配ボックスに入れるよう書き添えてね」

「承知いたしました。カード1回払いで、商品を宅配ボックスへ投函するよう注文をおこないます」


 しばらくして、シリクサが「注文を完了いたしました。スマートフォンのシリクサアプリで配送状況を確認できます」という定型メッセージを読み上げた。アプリによると、4袋のせんべいは、金曜日の午後に配送されるらしい。みさきは、シリクサのおすすめを食べる日が待ち遠しくなった。


――――――――


 土曜日のみさきは、宅配ボックスに入っていたせんべいと一緒に出勤した。みさきのデスクの向かいで、通信系の実装を担当する岩井が突っ伏していた。どうやら、岩井は、昨夜帰らずに実装作業を進めていたらしい。みさきが岩井に声をかけるかどうかで迷っている間に、大輝と辻も出勤してきた。3人で相談した結果、疲れ切った岩井を気がすむまで寝かせてやろうということに決まった。

 先日振ってきた電波妨害に対応する作業によってみさきとともに割を食ったのは、この岩井だ。みさきが海外文献を当たって見つけ出した通信系の制御ライブラリを〈アメノカコユミ〉に組み込むのは、岩井の仕事なのである。ライブラリの組み込み作業が手分けできない作業なので、みさきは、ライブラリについてきた英語ドキュメントの和訳をおこなって、岩井の仕事をサポートしていた。

 意外なことに、英語ドキュメントの和訳では、大輝も立派な戦力になっていた。大輝は、アメリカ企業から借り受けた個人識別ライブラリのドキュメントで苦労していたイメージがあっただけに、みさきだけでなく係の全員が驚いた。


「俺だって成長しているんですよ、みさき先輩。惚れました?」

「陽川くん、バカなこと言ってないで手を動かしなさい」


 この余計な一言がなければ、みさきは、大輝の仕事ぶりに惚れていたかもしれない。ともあれ、みさきと大輝が和訳したドキュメントのおかげもあって、岩井の作業は、順調に進んでいた。昨夜の岩井は、あと少しでライブラリの組み込みが終わると言っていたから、それで徹夜作業をしてしまったのだろう。みさきは、岩井が起きたら一番にせんべいを選ばせてやろうと心に決めた。


「ん……おはよう、シリクサ。いま、何時?」

「岩井くん、おはよう。まだ10時だけど、身体は、大丈夫?」

「えっ、主任!? ああ、大丈夫です。寝ぼけて自宅だと思ってました……すみません」

「岩ちゃん、気にしないの。昨日も隣の係の連中と新橋に繰り出してたそこのイケメンと違って岩ちゃんが頑張っているのは、みんな知ってるから」

「あ、辻さんひっでえ」


 係長がいない機械知能係に笑いが響き渡った。機械知能係の面々は、疲れていたが、士気が下がっているわけではなかった。


「岩井くん、お腹が空いてない? みんなに買ってきたおせんべいだけど、どう? 2つ選んでいいよ」

「あ、主任、ありがとうございます。僕は、甲殻類アレルギーがあるので、こっちのレモンのやつとわさびのやつをもらいます」

「そうなんだ。えびのせんべいは、岩井くんにとって目の毒だったかな。気が利かなくてごめんね」

「いやいや、誰にも言ってなかったことですから。お気遣いありがとうございます」

「俺も岩ちゃんがエビカニを食べられないなんて知らなかったな。前からだっけ?」


 みさきが入社する前から岩井を知っている辻に岩井のことで知らないことがあるというのは、みさきにとって意外なことだった。肩回りががっしりした岩井と、腹回りの恰幅が良い辻とは、いつも以心伝心で動いていて、互いのことで知らないことなどなさそうに見えていたのだ。

 朝食を食べ損ねていた岩井は、レモン味のせんべいをみるみる減らしていった。その食べっぷりの良さは、機械知能係の食欲を刺激した。大輝は、美味い美味いと言いながらせんべいを3枚重ねにして口に放り込んだ。


 最初に岩井の様子の変化に気づいたのは、辻だった。袋の底に残った最後のせんべい2枚を口の中に放り込んだ辻が見た岩井は、胸を押さえながら懸命に息を吸い込もうとしていた。岩井の手にも顔にも、真っ赤な発疹が浮き上がっていた。岩井は、椅子から床に崩れ落ちた。

 辻と大輝は、二人がかりで岩井の筋肉質で重たい身体を椅子から下ろし、みさきが呼んだ救急車が到着するまで介抱を続けた。15分後、機械知能係の通信系担当は、ひゅーひゅーというか弱い音を立てて呼吸しながら、救急車に運ばれていった。

 自動車事故、土壇場での仕様変更に続いて起きたアレルギーの発作に、みさきは、何かの陰謀を感じずにいられなかった。一度目は偶然で二度目は奇跡と言われるが、三度目の不運ともなれば、一連の出来事が誰かに仕組まれた必然の一部ではないかと疑われるのは、当然だった。

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