第1幕第2場 理不尽な要望

「おはよーございまーっす! みさき先輩、早いっすね~」


 始業時刻30分前に能天気な声を出して機械知能係に入ってきたのは、みさきと同期で菱井SSに入社した同僚の陽川大輝ひかわだいきだ。みさきと同期で菱井SSに入社した21世紀生まれのこの男は、キラキラした名前通りの輝くような陽気な人物であり、機械知能係の関原せきはら係長だけでなく開発七課の外海そとうみ課長にも呑み会の盛り上げ役として重宝されている。


「陽川くん、同期なんだから、先輩と呼ぶのをやめてください」


 みさきは、いつものように苦情を述べる。みさきは、この2歳年下の小柄で明るい男に「先輩」と呼ばれるたびに、自分の20代が終わりに近づいていることを実感させられて嫌なのだ。


「いやいや、俺より人工知能の勉強を始めてから長いんすから、先輩すよ。みさき先輩には、いつも色々教えてもらってますしね。お茶、濃いめでいいですか?」


 立ち上がって給湯室に向かおうとするみさきを制して、大輝は、給湯室に向かう。みさきは、陽気を絵に描いたようなこの男が淹れるお茶に不安を感じて大輝を止めようとした。しかし、何事にもそつがないこの男は、有無を言わせない勢いで給湯室に続く扉の前に陣取り、みさきを通さなかった。みさきは、給湯室を大輝に譲ることにした。


「熱くて濃いのをちょうだい。昨日の今日だから眠くって」

「りょーかいです。アツアツにしますから、びっくりして抱き着いたりしないでくださいよ」

「誰がするか!」


 みさきは、思わず声を荒げてしまった。こういうことを平気で言うから、大輝は、セクハラ魔人の係長と気が合うのだろうか。大学時代の大輝は、大阪人、福岡人、北海道人、フィリピン人の彼女をとっかえひっかえして遊んでいたプレイボーイだったという噂もある。みさきは、大輝が昨夜も係長と夜の新橋に繰り出していたことを思い出した。

 いつ見てもこの調子なのに、大輝は、菱井SSの女性陣から人気がある。ウエストがモデルのように細い受付の真口さんに言わせると、大輝は、「やんちゃ坊主みたいでかわいい」のだそうだ。みさきは、ヒールを履いた自分と同じくらいの背丈の大輝がやんちゃ坊主みたいに見えることには納得できるものの、かわいいという意見には、承服しかねた。年上のみさきをいつもからかってくる大輝は、どちらかというと悪ガキだ。


「お茶、どうぞ。濃い目にしときましたよ」

「ありがとう、陽川くん」


 大輝が淹れたお茶は、みさきの予想に反してみさきが求めていた通りの味と温度だった。機械知能係で使っている安めの茶葉に合わせた90℃の熱湯で素早く抽出されたお茶は、みさきが淹れたものより確実に美味しかった。みさきは、この陽気なやんちゃ坊主を少し見直した。


「おはよう、陽川くん、鏡山主任」


 威厳を持たせようとして失敗している甲高い声で大輝とみさきに挨拶したのは、二人の上司である機械知能係の関原せきはら係長だ。菱井本社から出向してきた彼は、菱井SSにおいて「セ・セクハラリーグの本格派」あるいは名前をもじった「セクハラ係長」の名前でも知られている。

 彼は、菱井本社の係長時代に酔って女子社員の胸を揉んだことで出世コースを外れ、子会社である菱井SSの係長に任じられた。いわば彼は、親会社のお墨付きがあるセクハラ魔人である。彼は、菱井SSに来てからも、「女性は産む機械」だの「女は子宮と一緒に入社して退社する」だのとの放言・暴言に事欠かない。そのため、今の彼は、本格派の旧時代人として菱井SS中にその悪名を轟かせている。

 そんな彼であるから、平社員の大輝の名前を主任のみさきの名前より先に呼ぶのも、いつものことである。みさきは、いつも通り怒りをこらえて大輝とともに挨拶を返した。


「おはようございます。関原係長」

「係長、おはよっす」


 関原係長は、コンプライアンスを欠く人物ではあるが、菱井本社の常務や与党の防衛族議員らと個人的な親交がある菱井SSの重要人物である。みさきと大輝とが取り組んでいる〈アメノカコユミ〉プロジェクトも、その議員の口利きで受注した大きな仕事の1つだ。そのため、関原係長は、粗暴な振る舞いが目立つ人物であるにも関わらず菱井SSにおいて一目おかれている。だから、みさきは、腹が立ったことを顔に出すわけにいかなかった。


「鏡山主任、ちょっといいかね」


 関原係長は、わざとらしく咳払いして係長席にみさきを呼びつけた。みさきは、最終テストの手順についての指示を予想して、係長席に向かった。そして、みさきは、バインダーを胸元で構えて関原係長に一礼した。


「係長、なんでしょうか」

「ワトソンのニュースは、知っているかね」


 大手のHALが人工知能を搭載した医療エージェントのワトソンをクラウドから完全に独立させる研究を諦めたことなら、今朝、シリクサに聞いたばかりだ。みさきは、シリクサに感謝しながら知っていると答えた。


「私も、昨日シリクサに教えられたばかりなんだがね。あのニュースを聞いたクライアントがアメノカコユミに搭載する独立型の人工知能に不安を感じられたんだ。電波妨害があっても端末が司令部との通信を維持できるようにする改修を指示されたので、急いで進めてくれたまえ」


 関原係長の指示は、発電所に落ちた雷のようなものだった。プロジェクトを実質的に取り仕切っているみさきには、納品予定日まで残り4カ月となったこの段階で電波妨害を防ぐ新機能を搭載することによって生じるリスクがはっきりと見えていた。いや、みさきではなくほかの社員たちであっても、この話を聞けばプロジェクト全体のブレーカーが吹き飛んで大混乱になるとわかっただろう。そもそも、みさきたちは、電波妨害があっても大丈夫であるように、サーバと端末である無人航空機とが通信できない場合でも学習をおこなえる独立型の人工知能を開発していたのだ。とんでもない話だった。


「係長、待ってください。開発した人工知能を端末に載せる連結試験の直前なんですよ。新機能の搭載なんて間にあいません!」

「ちょっとした機能を1つ追加するだけだろう。先方にはそのままの納期でできると言ってしまったから、適宜進めてくれ。必要なものがあったらなんでも用意する」

「係長、電波妨害への対応は、初期の企画会議で難しいと否決された案で、ちょっとした機能ではないです。開発七課のどこにもそんな技術は、ありませんよ!」


 みさきは、思わず声を荒げた。みさきは、関原係長のことを技術にうとい上司だと思っていたが、こんな大きな路線変更を納期の変更もなく受け入れるほどまでに愚かだとは思っていなかった。ただでさえ、交通事故で1人減っているときにこれ以上トラブルを抱えることは、不運では済まされなかった。みさきの大声を聞きつけた同僚たちも、不安そうにこちらを見ている。内部インタフェースを担当する辻は、まだ落ち着いているが、通信系を担当する岩井は、到来が約束された修羅場を予想して白目を剥きかけている。


「みさきくん、これは、高度に政治的な判断なんだよ。いいからやってくれないか。菱井SSのメンツがかかっているんだ」

「ではせめて、納品予定日まで仕事に集中させてください。お茶くみに煩わせられながら対処できるような話では、ありません!」

「いや、それは別の話だろう。うちの係で唯一の女子社員がお茶をくまなかったら、誰がやるんだね」


 状況もコンプライアンスも全く理解していない関原係長を見て、みさきは、思わず手にしたバインダーを関原係長の頭にお見舞いしそうになった。しかし、みさきがバインダーを振り上げる前に、思わぬ助け舟が入った。


「係長、お茶なら俺が淹れますよ。俺、こう見えても高校では茶道部にいたんです。係長は、濃い目と薄め、どっちが好みですか?」


 大輝の喋り方は、いつも通りの軽い調子だった。しかし、このときのみさきには、それがなんだか頼もしく思えた。結局、大輝は、みさきのお茶くみ免除と飲み会参加免除とを係長から取り付けて、給湯室に消えていった。


(ちょっと、かっこよかったかな)


 みさきがお茶くみから解放されたその日、機械知能係は、設立以来最大の修羅場に突入した。この修羅場を乗り切って〈アメノカコユミ〉をクライアントに納品できるかどうかは、機械知能係を実質的に率いるみさきの双肩にかかっていた。

 そのみさきは、この日の顛末をシリクサに話すときに、「今日は、大輝を大いに見直した」と締めくくった。しばらく後に、茶道部の部室が高校時代の大輝と彼のガールフレンドとの校内デートに使われていた密室だったことをみさきが知るまで、みさきから大輝への評価は、高止まりしていた。

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