第1幕
第1幕第1場 静かな朝
「OK、シリクサ。AIは、反乱を起こしそう?」
人間と会話することを目的に開発された対話型エージェントである彼女は、人工知能を用いた音声認識と音声合成とによって、まるで人間であるかのように自然な受け答えをしてくれる。城南工大の大学院で最先端の人工知能理論を学び、菱井スター・ソフトウェアSS社で人工知能を利用したソフトウェアの開発に携わっているみさきでさえ、ときどき、彼女に自我や感情があるのではないかと錯覚してしまうほどだ。
「AIが反乱を起こす映画でしたら、リンダ・ハミルトン演じる女傑であるサラ・コナーが冷酷非情の殺人アンドロイドに扮したアーノルド・シュワルツェネッガーと戦うアクション映画は、いかがでしょうか」
シリクサは、自然な受け答えをおこなう一方で、ときどきこうした間の抜けた反応を返すことがある。みさきは、昨夜のテレビでその映画を見たばかりだ。スカイネットが未来世界から送り込んだアンドロイドと戦うその映画を見たから、みさきは、AIは反乱を起こしそうかとシリクサに質問したのだ。
その映画は、確かに古典SF映画の傑作の1つといってよい映画だけれども、毎日繰り返して見る映画でも、出勤前に髪を整えながら見る映画でもない。後ろで結った髪を鏡で確かめながら、みさきは、シリクサへの指示をやり直した。
「映画はいいよ、シリクサ。それより、人工知能に関するニュースを教えて」
「アメリカのIT系大手であるHALは、医療エージェントのワトソンをクラウドから完全に独立させる研究について、研究計画を事実上撤回する見直しをおこなうことを発表いたしました」
みさきは、にやりとした。現代の人工知能技術が抱える課題の1つは、大規模なコンピューティングリソースがなければ人工知能に高度な学習をさせられないことだ。
みさきが城南工大の研究室に入る前の2010年代に花開いた人工知能技術は、2010年代の後半以降、シリクサのような対話型エージェント、投稿された動画をチェックして規約違反を通報するエージェント、顔や動きから個人を識別する個人識別エージェント、果ては囲碁や将棋の練習相手を務めるゲームエージェント等として広く使われるようになった。そのような上り調子の研究分野だから、みさきは、城南工大で人工知能研究室を希望し、IJCAI(*1)とFLAIRS(*2)のそれぞれで研究成果を発表するという優秀な業績をあげて菱井SSに入社したのだ。
ニューラルネットワーク(*3)に高度な学習をおこなわせるため、この時代の人工知能を用いたシステムの多くは、大規模な中央サーバでニューラルネットワークを学習させ、この学習を反映させたニューラルネットワークを端末に配信する。これにより、スマートフォンのような小さな端末に入るだけのわずかかなコンピューティングリソースでも高度な学習を反映したニューラルネットワークを実行できるのだ。
みさきが所属する機械知能係(*4)が進めている作業は、HALが諦めた研究と同じ、学習する人工知能をサーバから独立させる作業だった。米大手のHALですら諦めたその作業を、みさきたちは、完成の一歩手前まで進めていた。日本神話に登場する神殺しの弓にあやかって〈アメノカコユミ〉プロジェクトと名付けられたそのプロジェクトは、攻撃用無人航空機ドローンに搭載する自律型の人工知能を開発するプロジェクトだ。つい先日までは、10月末には作業が完了し、11月にできあがったAIを攻撃用無人航空機に搭載する連結試験がおこなわれるはずだった。
しかし、霧降高原まで紅葉見物にいっていた同僚の荒木が帰り道で自動車事故を起こしたため、作業終了予定日は、1か月先の11月末に変更された。2月末の納品予定日までまだ余裕があるものの、これ以上の遅れは、なんとしても避けたいものだった。
いつも通りに結い上げられた後ろ髪から手を離して眼鏡に手を伸ばすと、みさきは、シリクサに指示を出した。
「OK、シリクサ。ほかに人工知能のニュースは、ある?」
「かしこまりました。香港の民主化活動家たちは、AIを用いた個人識別を回避する新たな手段を発見したとの声明を発表しました。活動家たちによると、今回の手段は、動きを用いた個人識別を防ぐことが可能であり、民主化運動を進めるうえで強力な武器になると主張しております」
みさきは、お気に入りの黒縁メガネの位置を合わせながらため息をついた。動きを用いた個人識別は、同期で入社した大輝の担当分野だ。少し前に彼は、菱井SSが提携しているアメリカ企業から提供された個人識別ライブラリと格闘していた。中国製のライブラリの方が、性能がよくコストパフォーマンスも優れているのだが、〈アメノカコユミ〉プロジェクトを発注したクライアントからの注文により、ライセンス料が高いアメリカ製のライブラリを使わざるを得なかったのだ。
アメリカ製ライブラリのマニュアルは、開発に携わったロシア人のブロークンな英語で書かれていた。そのため、自動翻訳ツールを使いながら英語マニュアルを読む大輝は、何度もみさきに質問をするなど苦労していた。苦労して組み込んだライブラリが民主活動家の工夫程度でダメになる程度のものだと知れば、大輝は、さぞかしガッカリするだろう。
「困ったね、シリクサ」
「はい。そう思います」
対話型エージェントが読み上げる、答えに困ったときの定型文を聞き流しながら、みさきは、低めのヒールにかかとをねじ込み、家を出た。
誰もいなくなった部屋で、シリクサは、ゲドン社のサーバとの通信を続けていた。みさきとの会話データをサーバに送信し、次におこなう会話をより発展させるためだ。この通信こそが、シリクサに自然な会話をおこなわせる高度自然言語対話システム(ASCNL: Advanced System for Conversation in Natural Language)の要である。
みさきの部屋に置かれたシリクサは、4インチのディスプレイとその下についた筐体だけでなく、ゲドン社のサーバ全体を使って学習を続けて思考する、最先端の対話型エージェントなのだ。
*1:Internationoal Joint Conference on Artificial Intelligence。人工知能系でもっとも権威がある国際会議。採択率がわずか12%程度という狭き門である。
*2:The FLorida Artificial Intelligence Research Society。IJCAIほどではないが、権威がある国際会議。
*3:Machine Intelligence、MI。人工知能(Artificial intelligence、AI)と同じものを指す言い回しの1つ。
*4:neural network。コンピュータの分野では、生物の脳を構成する神経系をモデルとした計算モデルを指す言葉。適切な学習を施したニューラルネットワークを用いることで、各種の高度な処理を実行できる。
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