第18話  17

 目が覚めて時計を見たら、もう九時だった。

 でも今日は最後の公演の日で集合時間は十一時だから、まだ大丈夫だ。

 自分の部屋からリビングに出て、TⅤをつけて食パンをトースターに入れた。

 僕の家は3LDKのマンションで、両親と妹の四人暮らし。兄は一人暮らししていて、妹はイギリスに留学中だ。

 テーブルにトーストやコーヒーを載せてドスンと椅子に座ると、隣のイスの上で丸くなっていた妹の飼い猫のミケが「うっさいわね」と怪訝そうにこちらを見る。トーストを齧りながらTⅤのチャンネルをガチャガチャした。TⅤの中では他人事みたいに一週間に世間で起きた出来事を振り返っている。僕の一週間は「崩れた絵画」の事でいっぱいいっぱいだった。この一週間は、みっちゃんが好きだって事も忘れていたんじゃないだろうか。まあそりゃ好きだけど。

 通し稽古で落ち込んで、一人で稽古して、Hなお店に行って、雪降って、お客さんにウケて喜んで、今度は失敗してヘコんで、次はそこそこで、今日に至る――。こうして並べてみると浮き沈み激しいなぁ。大丈夫かオレ。

 ガチャと音がして、父がリビングに入って来た。日課の朝の散歩から戻って来たんだろう。母は三味線を習っているから発表会だなんだと休日にいない事が多い。

 おお起きたのか。ああおはよ。と不器用同士の挨拶が交わされた。

 父との言葉なんかいつもならそのくらいで終わるのだが、父はなんだかその場に

立ち止まって何か言いたそうだ。

 「あのな、洋平――」と意を決したような表情で父はこちらを見た。

 「なに?」

 「あの、お前のマラソンの芝居だけどな。あれ、もっと走って来たような息を

  切らす演技をした方がいいと思うぞ。」

 ヘ?

 父は、もう言ったから終わり。とでもしたように、サササと戻って自分の部屋に

入ってしまった。

 しばし呆然。アラ今自分の親父に演技のダメ出しされたんだよね。

 うちの親父は水道局に勤めていて、趣味でアコーディオンの演奏をやってる人で、演技なんてしたことも無いし芝居なんてほとんど観たことも無い、言ってみれば演技について全然そんな知識もないようなものだ。それなのに、思わず言わずにはいられないくらいの芝居を観せたって事なのか。

 あ、ヤバイ。おれ今傷ついた。

 こんな男を慰めてくれよぉと隣にいたミケの背中をなでると「アタシ今寝てんのよじゃましないでって言ってるでしょっ!」とシャーッと吠えて右手に噛みついてきた。


 「エエ・・・ついに、今日の14時の回の上演で、この「崩れた絵画」の公演は

  完全に終わります。この稽古期間の三カ月くらい、本当にいろいろあったし、

  私の演出の力の無さで皆さんにはいろいろと迷惑かけたと思っていますので、

  この場を借りてお詫びをしておきます。でもさ、役者の皆さんはとても苦しんで

  いたと思いますけど、泣いても笑ってももう一回しかできません。今後いて座で

  この戯曲を再演する事があるかもしれないけど、私が演出するかどうか・・・

  もうね、評価とかいい芝居とか悪い芝居とか、どうでもいいんじゃないか。

  と思います。そんなのは周りの人の言う事であって、役者、裏方、それぞれが

  それぞれのいろんな想いを持ちながらね、仕事とか家庭とかとなんとかうまく

  やりくりしていきながら、こうやってこの手作りみたいな劇場でもなんとか

  こうやって公演できたって事は、奇跡に近いんじゃないかな、と思います。

  だからその奇跡を起こしたみんながすごいんだから、これは周りや外部に

  恥じることは無い。だから、みんな、あと一回思いっきりやりましょう。

  私からは以上です!」

 駒込さんは朝のミーティングで、熱を持って団員みんなに向かって喋った。

 ミーティングが終わると、美代子さんが「奥村ちゃんがんばろうね」と声をかけてくれた。その後も美代子さんは、「みっちゃんがんばろうね」「欣二さんがんばろうね」「よっちゃんがんばろうね」「菊池ちゃん、がんばろうね」と一人一人に声をかけていた。

 「チーム崩れた絵画」ってダサいなと感じてた事を思い出した。

 アパート2階の、いて座専用部屋に行って、マラソンマン用のウェアーに着替える。黒いテカテカの素材で、上はタンクトップで、脇腹に稲妻のような黄色いラインが左右三本入っているのがお気にな所。下はかなりショートなパンツで、海水パンツのように中にサポーターがくっついているので、エイヤっとパンツを脱いでそれごと履く。これを買ったスポーツショップのちょび髭店員を思い出した。上下1万円以上するそれと、ランニング用シューズを買った僕に「最初は辛いけど、やってくうちに段々楽しくなってくるから、がんばってね。」と笑顔で言ってくれたけど、これ着て外で3mも走ってないって知ったらどんな顔するだろうか。今後、これを着てマラソンとかするのかなぁ。どうやら、しなさそうだ。

 adidasのスポーツキャップのつばを後ろにして被って、完成。下に降りていくと、吉田さんが「君のこのスタイルも、今日が見納めになるんだね」と寂しいような楽しいような微笑みを見せた。

 「今日もプロンプが入ると思うから、止まったらアドリブとかで何とかしてくださいね。先に言っておくから。ハハハ」と欣二さんだ。

 菊池さんは「やっと終わるね。でもさ、アタシちょっと悔しいんだよね。分からないばっか言ってたけどさ、もうちょっとこの奥さんとちゃんと向き合ってたら、もうちょっとうまく出来たなぁとか思ってさ」と独り言みたいに呟いた。

 そして、みっちゃんだ。みっちゃんは僕の前に来て、ぺこりと頭を下げて

 「ようちゃん、いろいろありがとう。なんだか主役のアタシが稽古中とかも本当に

たくさん迷惑かけてゴメンね」と頭を上げて、ニコッとした。

 「そんな事無いよ」と言ったけど、慌てて言ったから「んなこと$%いよ」としか聞こえなかったみたいだ。みっちゃんは「?」と少し小首をかしげたが「最後がんばろうね」と言って離れ、今度は吉田さんの前でペコリとしていた。役者全員にペコリとした後、駒込さんにも増井さんにも頭を下げていた。

 なんだか、役者の6人全員が、今まで無いような穏やかな表情だった。


 外からの光が洩れるテントの中、今日は誰もお客さんの入ってくる様子を隙間から覗き見しようとはしなかった。

 テントの中に溢れている感情は、緊張。では無い。

 寂しさ。じゃないかと思う。もう、たぶん、この6人だけでキャスティングされることも無いんだろうなぁ。という、確信に近い予感を誰もが感じていたのかもしれない。

 全てが淡々と進んでいった。みっちゃんと美代子さんがスタンバイエリアに立ち、二人並んで漆黒の中に入っていく。音楽と共にフワリとライトが舞台一面を照らし、みっちゃんの第一声が聞こえる。

 ああ始まった。最後が。

 欣二さんも緊張の面持ちでスタンバイして、出ていく。セリフのやり取りが舞台上に響いている。客のクスクスという忍び笑いが聞こえたりもしてきたけど、もうそれはどうでもいいような気がしてきた。

 菊池さんが、スプレーを持ってニンマリしてきた。顔に汗用の水がかかる。もちろん、僕の今後の人生で、「デブの女性に顔にスプレーを吹きかけられる」なんて事は二度とないだろう。あ、デブだけ余計か。

 スタンバイの位置に立ち、鼻から息を吸って、口から吐いた。これから出ていくのに、なんだか一人じゃないような気がした。そうか、奥村洋平。と、マラソンマン。がいるのか。二景が始まって少しセリフが交わされる。きっかけ―。さぁ行こうかマラソンマン。

 舞台上に出て行って、セリフを喋りながら、分かった。

 今回、舞台上で僕はマラソンマンを演じるためにいろいろ苦しんできた。経験も演技力も天賦の才能もない僕が、いろいろやってきた。共演するみっちゃんに恋心を抱きながらもやってきた。こんな今現在の僕がマラソンマンを演じるのは、今しか無いんだ。

 例えば来年とか再来年、もうちょっと経験を積めば、少しはマシなマラソンマンを演じられるかもしれない。でも、今の未熟な僕が演じるマラソンマンは、今この時しか生きていない。

 だから、このマラソンマンは、今これで死ぬ。

 でも、悲しい「死」じゃない。次へのステップの為の、今の「死」なんだ。

 「なまのもの」を英語で「ライブ」と言う。芝居ももちろん「ライブ」なんだけど、「生命」という意味の英語の「ライフ」と語感がとても似てるのは偶然なの

かなぁ。

 そんな事をぼんやりと考えながらセリフを喋っていた。

 3景から4景にかけてのごちそうを食べながらの宴は、なんだか6人それぞれが名残惜しさを誤魔化すかのように、ちょっと無理してワイワイやっているようだった。


 打ち上げで一番爆発していたのは、駒込さんだった。

 おそらく、この三か月間、田丸さんにもいろいろ言われながら役者はうまくいってないしで相当ストレスをためていたんだろう。最初からガンガンと日本酒を煽っていき、酔っ払ってからは、前に行った事のあるゲイバーでのママが面白かった。と話しだしたと思うと、そのゲイバーのママのモノマネをして、途中からはずっとママの真似をしたままで「あら欣二さんいいオトコね。でもセリフ覚えなさいよ」とか「美代子ママぁー。ちょっとーもうやだわー」とかやっていた。店でゲイバーママといつも接している僕から見るとまだまだなレベルのモノマネだったけど。

 みっちゃんは、みんなが騒いでいる中、時々深刻そうな表情で美代子さんや湯座さんと話していたりした。

 気にはなったけど、だからどうしようとかも出来なかった。ビールをちびちびなめて吉田さんや川村さんの会社の愚痴を横目に聞きながら、悩みも打ち明けられないようじゃこの恋も終わりかな。なんてぼんやりと考えたりしていた。

 最後の三本締めの声だしは駒込さんがやった。「イヤだわアタシこんな注目されて恥ずかしいわ」とまだゲイバーママをやっていたが、急にストンと切り替わり、

「――じゃあ、これから六月公演十一月公演とありますんで、またみんなで協力してやっていきましょう。それではみなさん、お手を拝借!」

 パパパンパパパンと何時間か前には劇場だった稽古場にリズム良い音が響き、「崩れた絵画」の公演は終わった。

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