第17話 16
パチンパチン。
蛍光灯のスイッチを入れると、劇場に変わった稽古場が明るく照らされた。
誰もいない。そりゃそうだ。今日は月曜日のまだ昼過ぎだから。
前日の日曜日の通し稽古でボロボロだったので、何をすると決めたわけでも無くここ
に来てしまった。もう本番まで稽古は無い。だからってこのままの精神状態で本番を迎える事は出来なかった。とにかく、なにかしないと。
さあどうしようか。やっぱり、セリフをやってみるか。
しんとした冷たい空気の稽古場に、僕が発したセリフがやけに響く。
うわ恥ずかしい。なんだか、休みの日に一人で努力してますよみたいな行動をしている自分がとてつもなく恥ずかしい。でも誰にも見られてないんだからいいか。
動きながら喋ってみる。頭の中で相手のセリフをリフレインさせて、また次のセリフを喋る。自分の声しか聞こえない。当たり前だけど。
恥ずかしさがだんだん薄れていって、次第に本番のように大きな声が出るように
なっていった。こうして自分の声だけ聴いていると、どれだけ早口になっているのかが分かってくる。相手と会話している時だと気付かなかったけど、なんであなたはそんなに急いで喋るの?別にみんな返事するのを待ってくれているよ。と言いたくなる。
そうして30分くらいやっていた頃だろうか、ガチャリとドアが開いた。
ちょうど後半のみんなで食べながらの団らんのシーンをやっていたので、イスに座ってにこやかな顔をした僕とドアを開けた田丸さんの目があった。
「おおオマエか。なんだか声がしたもんだからさ」
田丸さんは稽古場のすぐ前に家がある。ここに来ても当然だ。
僕は、どうしようかとにこやかな顔で固まったまま、どうもっス。ととりあえず
挨拶をした。
「一人でやってんのか?」
はぁ・・・はい。
「そうか。電気はちゃんと消しとけよ」
はあ。
ドアを閉める。かと思ったらガッとまた開いた。
「あなたはね、セリフを言いながら慌てちゃう癖があるんだよ。だからそれに気を
付けてやんなさいよ」
あ、はあい。
今度は、ドアは閉まった。
また稽古場は冷たく静かになった。
1ラウンドが終わって、ふうと息をつく。
僕の上に乗っていたお姉ちゃんが「イッた?」と聞くので、うん、と頷くと、顔を近づけてきて軽くキスをしてから、僕を跨った姿勢から降りた。
「気持ちよかった?」
また頷いた。
「良かった」と言ってコンドームを外して処理してくれる。大きな胸が揺れた。
ここは、「子猫サファイア」って名前だったか「子猫ファイア」って名前だったか、どっちかだ。本番無しで素股でイかせるエッチなお店。そんな店の名前なんていちいち覚えてるわけない。
昼過ぎに店が終わり、お疲れ様ですと店を出てから、足はまっすぐとそういうお店の固まるエリアに向かっていた。店でバタバタ忙しく働きながら胸の中にいろいろなモヤモヤが溜まっていたが、これは「ストレス」なんて簡単な名前じゃないようなものなんだと思う。
●自分の演技の才能の無さ。
●この仕事をやってて将来どうするっていう不安。
●みっちゃんへの気持ち。
●本番が近づいた事の昂ぶり。
●酔っぱらいの相手をするイライラ。
●そして、恋してるのにこんなお店に来てしまった自分の純潔度の無さ。
これら6個の●をミキサーに入れて三分くらいガーっと回して、ドロッとしたのをコップに入れて飲んだ。ような気持ちだ。
お姉ちゃんがピンクのキャミソールを被ってパンティを履いている。僕も脱いでいた服を着ながら、ちょっと硬いベッドに座ってお姉ちゃんと時間まで軽いお喋りをする。
おうちこのへんなの?うんまあそうだねお姉さんは?そぉんな地元でこういう仕事できないヨー電車乗ってきてる。じゃあ駅はどこ?エーないしょ。そっかぁ大変だね。そうでもないよ朝のラッシュとか無いし。じゃあちょっと遅くの時間から?うんそうだいたいお昼くらいからしか入ってないから。そうなんだ何時くらいまで?あ、このお店の名刺あげるからこれに出勤日と時間書いてあるからまたこの時間の中で来たら指名してね。うんわかった指名したら何かサービスある?うーんもし指名してくれたらチョットね。どういうサービス?それはしてからのお楽しみだよぉ。ぴぴぴぴぴぴぴ。あ、時間になっちゃったじゃあもう出ないと。お兄さんイイ男だよねまた遊びに来てね楽しみにしてるからねじゃあネエ。
ああ1万3千円消えたな。
でも気持ちはよかったな。
俺ってサイテイだ。
でもやっぱり気持ちよかった。
本番当日の朝。目が覚めて、部屋のカーテンをバッと開けると、白いものが降っていた。雪だ。三月なのに。しかも本番初日に。マジかよ。
朝から集合して、まず男性団員で外に役者が待機する用の簡易テントを建てた。
寒さで手がかじかむ。やっとこさ建ったけど、中に入ってもめちゃめちゃ寒い。増井さんが、急きょテントの中に温熱ヒーターを二台用意して、コンセントを引っ張って繋げたので、何とか寒さはしのげるようになった。
今回は、舞台装置の仕込みがほとんど無い。装置としては上手と下手に細長い張り物が袖として1枚ずつ建つだけで、それももう稽古期間中に立ててしまっているのだ。
照明担当が光のアタリ具合とかを調整して、音響は音量とかの最終チェックをするだけ。やっぱり稽古場が本番の劇場になるっていうのは、とても楽だ。唯一大変なのは小道具で、本番の為のごちそうの準備でバタバタしていた。
テントの設営が終わってからは照明や音響とのキッカケ稽古をやって、いつもの本番とはまるで違う余裕さで夜の本番に備えた。あまりにゆったりと迎える初日だったので「これから本公演もここでやっちゃおうか」なんて軽口を言う人までいた。
雪はうっすらと積もっただけで昼過ぎには止んだ。が、今度の心配は「お客さんが来るのにどれくらい影響があるか」である。
本番当日の天気は、お客さんの入りとかなり関係がある。
雨が降ると、その日の公演に行こうと考えていたお客さんも「傘さして出かけるのも面倒くさいからやめとこうか」となる可能性がある。それが当日券とかで行こうとしていたお客さんなら、まだお金も払ってないのだから尚更だ。だからって前売り券を事前に買っていたお客さんなら大丈夫かと言うとそんな事はなくて、うちの劇団は一般一枚千五百円だから、雨で濡れるくらいならそれぐらい損してもいいわって考える人もいる。
雨でそんな具合なのだから、雪ならどれだけ影響があるんだろうか。初日のまさかこんな時期に雪だなんて、この芝居は呪われてるんじゃないだろうかと役者のみんなでボソボソ言い合った。
お客さんの受付を開始する時間になって、役者6人でテントの中で待っていると、ザワザワとお客さんらしき人の気配がしてきた。それが思ったよりも多く感じる。テントの隙間から片目で覗いてみると、受付の団員が「あわてずゆっくりお入りください」と大声で呼びかけて、何人もの人が続いて客席に入っていく姿が見えた。
「結構来てますよ。」とテントの中に言うと「ホント?」「見せて」「どれどれ」とみっちゃんや菊池さんや欣二さんが隙間から順番に覗き見る。こんな駅から遠くて即席劇場みたいな所にこんなに来てくれたんだなぁと単純に感激した。
「じゃあ、いい芝居見せなきゃね」と、美代子さんが眼鏡ごしに目をクリクリさせながら言った。
「定刻通りに行きますんで」
舞台監督の増井さんがテントに顔を出して伝えた。あと3分。薄暗いテントの中に緊張感が広がる。特に意識したわけでもなく、両手を合わせて目を瞑り、祈った。
神様お願いします。いい舞台になりますように。
今回は劇場じゃないので、時間になると「ぶうぅぅぅ」となるブザーは無い。その代わりに団員がお客さんの前に出て「間もなく開演となりますのでよろしく「お願いします」と声で言うのだ。
何回も聞いている、いつものオープニングの音楽が流れた。
みっちゃんと美代子さんが出入りする場所の前でスタンバイした。
僕は、また手を合わせて祈った――。
一景は、スムーズなスタートで始まった。
舞台のすぐ隣にあるテントに響いてくるお客さんの反応はそれほど悪くはない。それどころか「エ?ここで?」と思う場面でもはははと笑い声が起こったりしている。
あれ?今日のお客さん、ひょっとしたらノリがいいのかも?
と思うと、なんだかこのお客さんのノリのいい感じで自分の演技を観てもらいたい。ちょっとでもお客さんが冷める前に早く舞台に出ていきたい。という気持ちが湧いてきていた。
トントントン。
肩を叩かれ振り向くと、菊池さんが汗用の霧吹きスプレーを持ってにやりとしている。目を瞑って顔を差し出したら冷たい水がシャーと顔全体にかかった。ひゃあ冷た。でも気合も入る。て言うか、入った入った。
よーし、一丁やってやる!
「でもそれじゃあ、私はこのままここを去るわけにはいきませんよ」
欣二さんのセリフで暗転となった後、スーッとまた明るくなる。さぁ行くか。
出ていって、まずお客さんとの距離の近さに驚く。最前列の人とは、1mくらいしかないんじゃないか。そして段々席に座る人人人の気の圧。たくさんの目がいきなり登場してきた僕に集中しているのが分かった。今までの広い劇場だとお客さんとの距離が遠くて客席は暗いしで顔すら分からなかったけど、この距離だと舞台への明かりが跳ね返ってお客さんの表情までよく分かる。客席から発しているのはすごいパワーだ。気を弱くしたら、そのパワーに負けてセリフなんかあっという間に飛んじゃいそうになる。負けるもんか。と心の中で自分に言い聞かせながら、セリフを喋った。
そうやってなんとかマラソンマンを演じていると、ふとした時にやっぱりお客の笑い声が聞こえる。そうか、最初は怖かったけど、笑ってくれているって事は、この人達は敵じゃなくて、むしろ味方なのかもしれない。だとしたらこんなにありがたい事は無いな。
て気分が良くなった時に、セリフが止まった。
次のセリフは欣二さんだけど・・・欣二さんが言わないとその次の美代子さんも反応出来ない。
「じゃあそれはいい事にしておきましょう」
もう仕方なく、と言う感でプロンプが小声で入った。小声って言っても劇場全体が狭いのだから、その小声は静かだった舞台上に響いた。
その言葉をそのまま欣二さんが繰り返した瞬間、お客さんの気が波が引いていくようにサーッと冷めていくのが分かった。
うわこりゃマズイ。でもどうしようもない。俺じゃなくて欣二さんがやったんだから。そうだ俺のミスじゃない。気にしない気にしない。
三景になり、菊池さん吉田さんの新婚夫婦が登場する。菊池さんが夫の吉田さんのセリフを注意しながら肩を叩くのだが、叩くたびにお客さんが笑うものだから、菊池さんがノッてきて吉田さんを叩く力がどんどん強くなっている。そうだよねこのお客さんの中でやるのは楽しいよね。これはお客さんが作ってくれた空気の流れだ。だったら僕達役者はこの流れに逆らわないで乗っていった方が、自分も楽しいしお客さんも楽しい。
四景の、みんなで雑談しながらごちそうを食べるシーンになった。僕がワインを見つけて、その栓を抜こうとするがなかなか抜けない。お客さんの「気」がワインの栓の所に集まってきているのが感じ取れた。お客さんの「気」が集束してきているこのワイン、まだ開けたくないなぁ。出来るだけ伸ばそうかと今までやらなかった動きまで入れてみる。そしてやっとスポン!と抜けた時、お客さん達から「おー」という声とパチパチパチと拍手が飛び交った。
ごちそうを食べながら雑談をするシーン。アドリブを入れても良かったので、隣の美代子さんが食べているものに「それなんですか?」と聞いてみた。
「パンプキン」
ふーん。でもこの男は英語に弱そうだな。近くのプチトマトに手を伸ばしながら
「どういう意味です?」
「かぼちゃ!」と美代子さんとその隣のみっちゃんまで声を揃えてツッコンできた。
ラストに、ナレーションが入って、衝撃の事実が分かる。
ごちそうを食べている僕らを残してゆっくりと暗くなった後、再び明るくなり、
カーテンコールで頭を下げた。その時に頭の上で響く拍手は、なんだか何千人もいる劇場でもらったみたいに、手を叩く音が大きく温かく聞こえた。
これって、この公演、うまくいったんじゃないのか?
公演二日目の土曜日。この日は昼の回と夜の回の二回公演がある。
昨日の夜の公演で気を良くした役者達は、朝から機嫌がよい。僕も、昨日は全部終わってから他の団員達と横浜駅前に飲みに行って「二景で奥村が出てくると客席がいい空気になった」とか言われて、とても気分が良かった。最初は不安だらけだったけど、この調子でいくと毎回大うけなんじゃないかとか考えていた。
朝のミーティングで駒込さんから「昨日は少し年上の女性のお客さんが客層として多かったからあれだけ笑ってくれた。あれはたまたまだから、また同じような事が起こると思わないでほしい」と言われた。
「プロンプが入ると、お客さんのテンションがガクっと落ちています。こういう狭い劇場では基本的にプロンプなんかは置きたくないんですけど、どうしようもないんで。役者さん、プロンプなんかもう絶対使わない。と思ってやってください」
とは野川さんだ。
これだけ「気を引き締めろ」と二人から言われても、役者の中に流れた楽観的な空気は消えなかった。僕も「早く本番の時間にならないかなぁ」とどこか浮ついた気持ちで時間を過ごしていた。
野球で、2対0で「勝った」と思って9回を迎えるチームは、たいてい負ける。
ましてや僕らはまだ1回の公演しかやってないのに。だ。これは3回裏が終わって4対0で「勝った」と思ってしまったようなものだ。
開演までの流れは昨日と変わりなかった。お客さんが入り出して、それをみんなでテントの隙間から覗いて見る。増井さんが「定刻通り」と声をかけてきて僕は手を合わせて祈る。暗くなり、みっちゃんと美代子さんがスタンバイする――。
何かが違うとしたら、なにか気持ちのどこかがフワフワしてるみたいな―「まあ平気だろう」ってお気楽に考えている部分が見え隠れしていた。
一景が始まる。静かにセリフのやり取りが聞こえる。昨日の夜に笑いが起こったセリフが出た――。が、笑いは起きなくてしんとしたまま。みっちゃん美代子さん欣二さんの発するセリフに焦りが感じられた。ちょっと早口になって、力が入った感でのセリフのぶつけ合いになってくる。そして、沈黙。あきらめたようなプロンプの声。気を取り直そうとしたようなセリフ。返答回答返答。そしてまた、沈黙。プロンプの声。精神的に苦しそうなセリフ。言われて言ってまた言って言われて。またもや、沈黙。ため息が聞こえてきそうなプロンプ――。朝、野川さんに言われたのに、三回も入ってしまった
舞台上がとても重たい空気になっている事は、よく分かった。「この空気を僕が出ていってなんとか変えないと!」と今度は変な意気込みが入ってきていた。菊池さんにスプレーで水を吹きかけられながら、気合い気合いと自分に言い聞かせていた。
暗くなり、また明るくなって、出ていくキッカケがきた。
いざ鎌倉!じゃなくて、いざ舞台へ!
ランニングして出て行って、テーブルの上のジュースを飲んでから第一声のセリフを喋ってみてびっくり。昨日とは全然違う、冷めたたくさんの目がこっちに向かっている。これなんだ?芝居楽しもうって空気じゃないよ。なんかのオーディションかなにか?合格不合格を見極めるための。
焦り。セリフのやり取りをしていても空気は沈んでいる。もうちょっともうちょっとしたら面白いセリフ言うから。て言うか早くあのセリフを言って少しでも誰かに笑ってほしい。早口になってきたけどしょうがない。ああやっとこのセリフ。これさえ言えばドカンと笑ってくれて、なんか変わるよね・・・・さあドッカ―ンと・・・・笑わない。マジ?じゃあ今度はこっちのセリフ・・・笑わない。なんか、お客さん
みんな怒ってる?
いやあ、舞台の上と客席の向こうが全然別の世界みたいになっている・・・・てこんな時にプロンプ入るか欣二さん!
何をどう修正すればいいのか分からないままに二景は終わった。
三景になって登場した菊池さん吉田さんも、明らかにいつもと違った。
ボコボコ打たれてピッチャー交代して、よーし抑えてやると出てきた中継ぎ
ピッチャーがさらにボコボコ打たれるような状態だ。二人とも言い合いをいつもより強めにやっていたり、不意に出るようなセリフの間が早かったりで、どんどん観客が冷めていくのが分かった。
4景。もはや、さらしものの食事会だ。こんな空気の中で雑談しながら楽しそうにパーティーしないといけない。楽しそうに笑顔を作ってセリフを言えば言うほど、虚しく静まり返っていく。これはもはや演劇なんだろうか。お客さんは放っておいて、僕達が勝手にやってるだけなんじゃないだろうか。
特に盛り上がりもせずにワインボトルをスポン、と抜いてグラスに注いでいく。
いつもはグラスにちょびっとずつ入れて乾杯するのだけど、僕のグラスだけトクトクとたくさん注いだ。そんなに。とか、まあたくさん。とかアドリブ言いながら、コイツ大丈夫かという目でみんなが見た。
かんぱーい。と声をそろえて言ってグラスの中を一気に飲み干す。もちろん本物。いつもはちょびっと口を付けるくらいで終わらせているけど、飲まずにやってられるか。
カーテンコールの時の拍手は「ああ終わったのね。まあ一応の義務だからこうやって手を叩きますけど」というお客さんの気持ちが伝わるかのような音だった。
テントの中に戻って来た僕らは、本番中に親しい人の訃報を突然聞いたかのような顔をしていた。お疲れ様とぼつぼつ言い合った後、誰も口を開こうとしなかった。
「なんかね、お客さんの中に演劇関係の人が多かったのよ。」
と受付をやっていた船井さんが教えてくれた。
劇団同士でお互いの芝居を観合うのはよくある話しだ。でもそれぞれの劇団の
個性とかカラーは劇団それぞれで、演出方法も役者の育成方法も違う。それに「自分も芝居を作っている」ていう意識で観るから、細かいミスにも気が付くし、ちょっと、と言うかだいぶ厳しくて冷たい目で観ている事が多い。
お客さんのいなくなった劇場で、呆然としている僕達役者に「もう終わった事なんだから、気持ち切り替えて次の公演に備えてください」との駒込さんの言葉も、何か耳には入ってこなかった。
「アタシ、もうさっきの昼の回はあきらめました」
いきなり高い声が響いた。急に何言い出すんだと思ったら、みっちゃんだった。
あきらめるって?と皆の目が集まって来た時
「だって、殺されるわけじゃないんだもん。終わっちゃったんだから。
他の劇団の人がいろいろ言いたければ言えばいいし、もういいよ。
さっきの昼の回捨てました。もうさっきのはどうでもいいです」
捨てる。そっか。グズグズうじうじ考えてるくらいなら、捨てちゃえばいいのか。
「私もみっちゃんみたいに捨てます」吉田さんが言い出した。
「私も捨てる!」美代子さんが続いた。
「僕もあれだけプロンプ入ったから捨てられるなら捨てます」欣二さんだ。
「アタシも。今回は三回しかやってないことにしまーす」菊池さんもちょっと嬉しそうだった。
「・・・じゃあ、僕も」最後になっちゃったなと思いつつ、恐る恐る手を挙げた。
「どうも奥村君だけはちゃんと捨てきれないみたいだけど――」という野川さんの言葉にハハと笑いが起こった。
「――じゃあ役者みんな、今の回は無かった事にするってので、いいですね?
あと二時間くらいで夜の回のお客さん来ちゃうから、写真撮影が終わった後は
役者それぞれで過ごしてください」
野川さんの号令を合図に、簡単ミーティングは終わった。
団員全員での集合写真を撮ってから、役者。舞台部。演出部。照明。音響。
小道具。衣装。受付。それぞれを記念撮影していく。
田丸さんはいつものようにカメラを構えて早くしろだのちゃんと並べだのとぷんぷん怒りながらパシャパシャやっていた。僕はさっき一気に飲んだワインが効いてきて、一人だけ真っ赤な顔をしながら写真におさまっていった。
その後は、空いた時間で気分転換にお茶でもしてきますとか早目の夕飯食べてきますとか言って、何個かのグループに別れて全員が出て行った。僕はなんだか出かける気分でも無いし顔は赤いしで、残る事にした。
誰もいない劇場で、フーと大きなため息をついていたら、外でなんだか誰かが動く気配がする。誰だろうと覗いたら、増井さんが役者用のテントのたるんだ所を張りなおしていた。
「なんだ?おまえ行かなかったのか?」
はあ。と言って稽古場の中に戻ると、作業を終えた増井さんも入って来た。
「あの・・・すみません」
「何がだよ?」増井さんはきょとんとした。
「さっきの回。あんなになっちゃって。裏方でせっかくいろいろやってもらって
いるのに」
「あああれかよ。」と増井さんはマイルドセブンに火を点けた。
「そんな気にすることねえよ。前にオレ言ったろ?全部うまく出来る役者なんて
いねえんだから。アンタ、プロの連中だって失敗してるんだぞ。欣二じゃない
けど、プロがセリフ飛んだなんてしょっちゅうだよ。なのにアマチュアの我々が
失敗しないわけないんだから。」
「でも、裏方みんなにいろいろやってもらってんのに、申し訳ないって
言うか・・・」
「いいんだよそんな事。みんな好きでやってるんだから」増井さんはポンポンと
タバコの灰を灰皿に落とすと言葉を続けた。
「われわれ裏やってる人間はな、稽古とか見ててあの役者はヘタだとかなんだとか
言うけどさ、でも結局は表に出てる役者さんがいてこそ。なんだよなぁ。
役者さんが際立って光っててもらわないと、俺らの仕事なんか成り立たない
んだよ」
「そうなんですか?」そこまで役者って凄いんだろうか?今の自分とか考えると、決して「凄い」なんて言えない。すごいヘタ、とは言えそうだけど。
「考えてみろよ。いい装置建てました。照明さんもきれいな明かり当てました。
音響もきれいな音楽用意して、小道具もびっくりするくらいいいもの
揃えました。それだけです。役者は誰も出ませんから二時間その装置と明かり
観て音楽聞いてくださいって芝居、アンタ金払って観に行くか?」
誰も出ない芝居・・・つまらなそうだ。
「行かないっスね」
「だろう? だからな、役者あってこそなんだよ。裏方を活かすも殺すも
役者なんだよ。だからそんな裏方に悪いとか申し訳ないなんて思わなくて
いいんだ」
「でも――」なんか聞きたくなった。ワインの勢いなのかもしれない。
「――役者あってこそって、全部役者にいいトコ持ってかれて、それで
増井さんは楽しいんですか?」
増井さんはへへへとちょっと笑ってから
「そりゃ楽しいよ。変な役者にたくさん会うからな。お前みたいなな」
誉め言葉?いやちがうな。アそうすか。とボソッと返す。
「あとな、役者の楽しさは明かり当たってみんなに観られてとか説明できるけど、
裏方の楽しさって、言葉じゃ伝わらないんだな。オレの言葉が足りないのかも
しれないけどな、説明しにくいんだよ。でもな――」
増井さんはどこか遠くを観ていた。
「裏方の楽しいは、かなり深い所にあるんだぞ。ちょっと浅瀬で遊ぶくらい
じゃ分かんないんだ。汗かいて深く潜ってみて、やっとここが楽しい所
なんだってのが分かるんだよ。そのかわりな、深い分、面白さも、濃いんだ」
そう言って増井さんは煙草をもみ消しながらニヤリと微笑んだ。
うーん。分かったような分からないような話しだ。ほとんど分からないけど。
夜の回、成功したのだろうか。またいつものように欣二さんにプロンプは入っていたし、セリフの掛け合いのリズムが崩れた事もあった。三景から四景への暗転中では僕がセロリの入ったコップを倒してしまい、テーブルの上が水浸しになりみっちゃんと美代子さんが演技しながら拭いたりしていた。
でも、ところどころでお客さんの笑い声を聞けたりもしていた。
なんか、久しぶりに聞いた気がした。笑い声。
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