第9話 8
秋だ。焼き鳥の焼き場で汗をダラダラ垂らすのからやっと解放されたが、半袖Tシャツでは涼しすぎ、長袖Tシャツでは暑くなり、結局長袖の袖をめくって過ごすような日々である。僕の働いている焼き鳥屋では、相も変わらず飲み屋のお姉ちゃんやカジノバーで働くディーラーや、ヤクザや居酒屋店長やホストまで、いろんな人が飲みに来ては酔っぱらっていた。
劇団いて座の次回公演である[きれいな口紅]のための稽古が始まっている。今回、キャスティングの発表が行われ、僕こと奥村陽平の名前が、キャスティング表にあった。
抜擢された役は、主人公の船井さんの家に出前を持ってくる寿司屋だ。少しだが、セリフもある。それよりも今回の芝居は、場面の転換が多く、現在と過去の戦争中の時代を行き来したりもするので、そこをどうやって場面の転換していくのか、どういう装置にしていくかが最大の問題だった。
その日、いつものようにいて座の稽古場に行くと、いつものようにムスッとした顔の田丸さんの隣に、もっとムスッとしたおじさんが座っている。誰だあの人は?田丸さんと話している所を見ると、見学者とかではなさそうだ。稽古が始まる前に田丸さんが、
「まあ、最近入ったヤツは知らないと思うが、今回の装置は笠野にやってもらうことになったから。」
「よろしく」
と、その人はびっくりするくらい謙虚さの無いよろしくを投げた。メガネをかけたガマガエルみたいな顔に後ろに流した長髪。やや猫背の姿勢。なんなんだこのおっさん?
稽古が終わると、増井さんや駒込さんや松岡さんが笠野さんの周りに集まって話している。そっちに聞こえないように菊池さんに、誰なんスかあれ?と聞いてみた。
「あれって笠野さん? バカあんたすげえ人なんだヨ。昔から装置とか照明とかやっていて、増井さんにも色々装置の事とか教えてきたんだから。バカだね」
そんなにポンポンとバカバカ言わなくてもいいじゃないかと思いながら「じゃあ、怖い人なんですか?」と気になる質問をしてみる。
「怖いに決まってるじゃん。何かあったらすぐ怒るよ。前に笠野さんが装置やった時にさ、アタシ女なのにボロっボロに言われたよ。」
「だったら、気を付けないといけないッスね。」
「何? アンタなんかあっという間に怒られるに決まってるじゃん。アタシでさえ怒られるんだから。大丈夫よぉ~、怒られたらお姉さんが慰めてあげるから。」
ハハハと乾いた笑いで返しながら、どこがお姉さんなんだよ水牛女が!と心の中でののしっておいた。
公演の稽古が開始された最初は、机を並べて脚本を見ながらの読み合わせ稽古からだ。ここで、セリフを声に出して読むということに集中しながら、自分の中のイメージを固めていく。もちろん、演出からのダメ出しも出る。ただ演出も出演者がどのくらいセリフを読めるのか?というのを探っていく段階なので、あまり厳しいダメは出ない。はずだったのだが・・・
「こんにちは。お待たせしましたー、花ずしでーす」と出前を持ってきた僕こと寿司屋が第一声を読むと、「だから力を抜いて言ってみろって」と田丸さんが反応する。
じゃあって力を抜いて読んでみると、「今度は元気が無くなっちゃってしょぼくれた寿司屋さんになっちゃってんだよな」と言われる。
エー? 元気があるって事は声に力があるって事だよな。その力を抜いたら元気なくなる。力を抜いて元気だけ出せってどうするの? と禅問答みたいな所に早くも入りだしてしまっていた。とは言うものの、もうサ、一度舞台で役者として立ったんだよオレ、という全く根拠のない自信のようなものが産まれてきてもいた。
「舞台に立つ」ってことは恐ろしい事なんじゃないかと思う。役者として演じてみて、大きな批判などを浴びなければ「アレ? 自分ってかなりイケてるの?」なんて勘違いしてしまう。本当の批判は自分には絶対に聞こえない所で囁かれているのに―。
そんなわけで、ああオレには座って本読みなんて性に合わないぜ、やっぱり立って動いて役を作っていくタイプなんだ。早くこいこい立ち稽古♪とお気楽に考えていた。
装置作りに決まっていた土曜日。天気はびっくりするくらいに真っ青な気持ちのいい空だった。笠野さんは朝一番に作業場となった稽古場に来ていて、ムスッとした顔で座っている。ブルーシートを全面に敷き終えると、図面を見ながら笠野さんが最初の指示を出してきた。
「じゃあ、この小割を1810で4本切ってください。」
アラ? 予想外な穏やかな声だった。こういう人は最初が肝心だと分かっている。店に来る気難しそうなおっさん達も、最初のコンタクトで「よろしくお願いします」と謙虚に出れば、可愛がってくれ・・・はしないけど、「マアいてもいいよ」くらいの許容は見せてくれるものだ。と僕は「ハーイ」と答えてメジャーで小割を計って鉛筆で印をつけ、のこぎりを握ってギコギコと切り落とした。
切り落とした小割を「出来ました」と笠野さんに提出する。笠野さんは切り口を見た後で、その四本をトントンと揃えて並べてみる。
「これ、どのくらいで切ったの?」
「はい?」
「これ、どのくらいの寸法で切ったんだっけ?」
「せ、1810ですけど・・・」
ひょっとしてこの人、自分が言った寸法忘れちゃったのか?
「これ見てみな」
と、揃えた小割を見てみると、4本の切り口が2ミリくらい段々になっている。
「奥村、オマエ鉛筆で線引いた所の上から切ったろ?」と横から増井さんが口を出してきた。線を引いて上から切る。当たり前じゃんか、と思いながら「そうっス」と言う。
「ノコの歯の厚みがあるだろ? その分考えてちょっと線の外から切らないと。
それにこれって切り口が曲がってるぞ。上に線一本引くんじゃなくて、横にも
線引いて切るんだよ。」
増井さんに注意されて「ハア」と言う僕を観ながら、
「小割切るのでこれじゃ先が思いやられるな。」と笠野さんがボソッと言った。
小割は2×3cmの四角の細い材料で、一番切りやすいものだ。それさえ満足に切れないのか、と言われてしまったのだ。ファーストコンタクト、失敗。である。
最初の「予想外の穏やかな声」はどこに行ったのか、この日、僕は怒られまくった。
釘を打てば「材と材がずれてるぞ」カッターでベニヤ板を切れば「曲がっているぞ」のこぎりなんかは何度切っても切り口が曲がりすぎて、終いには「お前はのこぎり持つな。材料がもったいねえ」と言われてしまった。人間こんなに怒られると、気を使うとか使わないとかなんだかよく分からなくなる。
昼の休憩に近所の中華屋にみんなで行ったが、全員で食べようと注文した餃子の大皿に最後の一つが残った。笠野さんが取ろうとした所をサッと僕の箸がかっさらったので「お前餃子取んな!常識ないぞお前!」と怒られた。
餃子と常識は関係、無い。
こんだけ文句言うのだからあんたはちゃんとやるんだろうな。と笠野さんがのこぎりやナグリを使う所をバレないようにチラチラ見ていたが、悔しいけど上手い。小割なんかは4本まとめて切ってきちんと揃っているし、釘の打ち込みも何でこんなスルスル入っていくのかと思うくらいだ。こんなおっさんで、力も体力も若い僕の方があるのに、その差を補う、と言うか逆に大差を付けるくらいの技術がある。
そして、今作っている所がどこのどのへんなのか、僕にはさっぱり分からなかった。
笠野さんも「これをこうしてくれ」「これを切ってくれ」と言うだけで、装置図面に関する事は増井さんとはボソボソ話しているけど、下っ端には話さない。「じゃあそう言う事でお願いします」ってなって、増井さんから切るとか打つとかの指示が出る。そんな流れが繰り返されていって、何がどこまで出来たのかも分からないまま最初の装置作成の土日が終わった。
「あらお兄さん。いい男じゃないの?」
いやー、そんなこと無いですぅ。と答えると、「このお兄さんアタシのタイプなのよ」と、隣にいる連れの男に言っている。言われたお客は面白くなさそうだ。そりゃそうだ。店が終わって飲みに来た居酒屋の兄ちゃんに、自分が目当てのコが色目使ってるんだから。
「ネエお兄さん。今度うちにも飲みに来てヨ」
「すいません。ここの店があるんで、飲みに行けないんスよ。」
「ここ何時からなの?」
「0時からです。」
「じゃあ早い時間で来て帰れば大丈夫じゃあん。ネエ~」
「はあ・・・すいません」
モテる男はつらい。相手は女性じゃないけど。カウンターに座っているのは、ゲイバーで働くお姉さんとお客さんのカップルである。僕は愛想が無いのでスナックやパブの水商売のお姉さん方には全然モテない。「いい男じゃないの」とは商売トークで言われるが、そこまで。その代わりなぜかゲイのお姉さん達にはモテまくり、こういうふうに言い寄られる事が日常茶飯事なのだ。あまりにもモテるので、ある日、親しくなったゲイの姉さんの美鈴さんに
「なんでこんなにそっち系の人にモテるんスかね?」と聞いたら、
「アンタおんなじ匂いがするもの」と、低い声で言われてしまった。
深夜の三時なのに、店は満席だ。二つある座敷席の一つをヤクザの二人が、もう一つを飲み屋の店長と女の子達が占めている。カウンターには、さっきのゲイバーのお姉さんと客。ボーイズバーの男と女性客。居酒屋の若い男達。なんかが座っている。
とりあえず、最初に注文受けた焼き鳥や刺身や炒め物なんかは出し切ったので、後は
飲み物か追加の食べ物の注文を待つしかない。ホッとラークマイルドに火を点ける。
「なんでかなぁ・・・」
と自然に声に出た。今回の寿司屋の出前持ち、「お待たせしました」とか「六千二百円です」とかってセリフは、この店でも自分が当たり前に使っている言葉に近い。と言うかほとんど職場用語だ。なのに、ダメ出しの嵐。キャスティング表を見た時は、「焼き鳥屋やってる俺だからこの配役をとれたんだ!」と、この仕事に就いてたことに感謝するくらいだったのに、今は「仕事に近い役すら出来ないなんて、何なら出来るんだ?」と自信をなくす要因になってきている。
「セリフを言おう言おうと考えすぎちゃうと、力が入って力んじゃうんだよ。だからねぇ、お前さんは早く、力は抜けてるけどお客さんには届くってやり方を出来るようにならないといけないんだよ。」
と、田丸さんに言われた。そう言えば、田丸さんが演出している時はいつも目を瞑っているのはなんでなんだろうと疑問に思っていたが、「動きを見ていなくても、セリフを聞いていれば大体動きは分かるんだ。それで、セリフを聞いていて言い方がおかしいと思ったら、動きもおかしいんだ。」と田丸さんが言っていた。と吉田さんが飲みの席で教えてくれた。
「それ聞いてさ、僕も、田丸さんみたいに、稽古の時に目を瞑って他の役者のセリフを聞いていたら、アレ?って思った所で目を開けると、やっぱりその人がおかしい動きしているんだよ。それで、ああやっぱりその通りなんだなって思ったよ。」
なるほど。でも、力を抜けとかイイ声を出すとか言われてもどうすればそうなるのか分からないんですよね。と聞いてみたら、
「うん。どうすれば力が抜けていい声が出るか・・・それを知ってる人がいたら僕だって聞いてみたいよねぇ。」と吉田さんはニコニコしてなんだか出来上がった顔になってきている。酔ったな。こうなるともうダメだ。
それにしても、ついこないだは歩きがダメだ出来ないだの言われて困ってたのに、今度はセリフだ。しかも、セリフの事ばかり考えてしまうと、「またあんたの癖の猫背が歩いてる時に出てきてるぞ」と注意されてしまう。
ああいつになったら俺の演技は絶賛される?とため息交じりに煙をフーと吐いたら、
それを見ていたさっきのゲイのお姉さんが
「お兄さん悩みあるの? なになに? 言いなさいよ~。アタシが聞いてあげ
るわヨ。アタシの部屋でゆっくり。」
と冗談交じりでいじってきたのを、だいじょぶです。といなしておいた。
主役の船井さんは気合いが入っている。いつも僕が稽古場に行くと、早目に来た船井さんが身体を動かしている。
今回の芝居のラストで、船井さん演じる主人公は、自分がほのかに思いを寄せている男性が戦地に行ってしまう。船井さんは親友の女性と一緒に、駅に彼を見送りに来た。が、人ごみで彼に近づけない。彼女は惹かれ合っている親友の女性と彼が、最後の挨拶が出来るように、涙をこらえて親友を肩車する――というシーンがあるのだ。
その相手役の女性は、小柄だと言っても、船井さんよりは少し背も体重もありそうだ。しかし、ここで肩車が出来ないとどうしても話が締まらない。今の時点では、肩車でやっとこさ乗っている女性の足が浮くがそこまでで、船井さんが膝を伸ばして腰を起こすところまでいってない。だから本番ではしっかりと肩車で持ち上げられるように、スクワットや腹筋運動をやって、鍛えているのだ。その姿を見ると、
「おお。なんかここに来てやっと役者っぽい事してる人を見たな。」
と僕は感じた。だいたい、この劇団は稽古終わりにも「こないだあの店に飲み行って」とか「職場の上司が・・・」とか「現場が納期ギリギリで」とかそんなサラリーマンみたいな話しばっかりだ。マア普通に働いてる人がやってるアマチュア劇団だから当たり前なのだが。そんなんじゃなくて、役者ってもっとストイックで、いつ身体を見られてもきれいなように身体を日々鍛えているとかテレビの役者を追ったドキュメンタリーで見たような気がする。
「奥村君おはよう。いつも早いねぇ。」
と、夕方の稽古場に早く来る僕に、スクワットしながら船井さんは挨拶してくる。マア僕は仕事が伸びて遅れるという事は無くて、昼に寝て夕方に起きて稽古に来てるから、寝坊しない限り遅刻しないのだけど。
僕も、とりあえず身体を軽く動かして「あ・い・う・え」と声を出してみる。すると、銅像みたいに自分の席に座っていた田丸さんが「まだ喉から声出してるんだよなぁ」とぼやくのが最近の稽古前のパターンだった。
「奥村。これ、自分のお店のかぁ?」と、僕が着た衣装の紺色白衣を触りながら、高いのんびりした声で水木さんが聞いてきた。
「ハイ。店で使ってなかった白衣です。マスターに芝居で使わせてくださいって
借りてきました。」
「ヘー・・・似合うねぇ。」
「そりゃあ、仕事着ですから」
「そうだよな、いつも仕事で着てるのと同じだものな。俺達の背広みたいなもん
か。」
「そうですか、ね・・・」
いまいち分からない例え。水木さん、メガネかけて痩せた感じで飄々としていて、なんだか摑み所のない人だ。今回、舞台監督は増井さんがやって、舞台監督第一助手として増井さんの下についている。もう劇団入って十年選手なのだが、「水木ぃ!お前なにやってんだ」と増井さんによく怒られている。でも別にそれがショックだとか悔しいとかそんな姿は全く見せずに、また同じような事で怒られる。
「水木は、よくわからん。」
とは増井さんの言葉だ。今も、僕との会話の何が満足したのか分からないが頷きながら離れていって、他の人の輪に入っていった。
僕は、スタッフ的には舞台監督の第四助手になっていた。今回の笠野さんが作成した装置は、舞台中央に張り物で囲んだ家の中が出来て、その両脇に、タワーのような四角い塔が建つ。その二つの塔の上手に立つ方が、一面は壁がなくて、くり抜かれた中が演技スペースとなる。「別の一室での会話」というシーンで使うのだ。だから、シーンによっては壁が前になって「抽象的な建物」だが、違うシーンでクルリと回すとくり抜かれた面が前に来て、「別の一部屋」に見える。
そのタワーを最初の転換で回すのが、僕と水木さんの役割となった。回すと言っても、一辺が2mくらいで高さが3mくらいあるタワーで、その中に役者さんが二人入っているのだから、当然重量的にはかなり重くなるだろう。だが、男手二人くらいかかれば回るんじゃないかと誰もが思っていた。
僕も、体力には自信があるし、パートナーはベテランの水木さんだから、なんとかなるさ、それよりも寿司屋の演技の方がヤバイよとたかをくくっていた。
この「くくったたか」が、後でいろいろと巻き起こしたのだが―。
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