第2話 1
「あなたが、おくむらようへいさんか。家はどこ?」
「京急の黄金町駅が最寄りです」
「じゃあ、近くて良いね」
と、隣に座った劇団の主宰の田丸さんは、にこっと笑った。
ここは、横浜駅にある、劇団いて座の稽古場だ。電話をして問いかけたら「じゃあ、とにかく稽古を見に来なさい」とびっくりするくらい簡単に言われた。
横浜駅前の喧騒を抜けて、少し静かな住宅街の中にある、アパートの1階が稽古場だった。
「劇団いて座」と書かれたガラス戸を「すいません」と開けると、立ちんぼになった十人ほどの男女が、声を合わせて「あ・え・い・う・え・お・ア・オ」と、発声練習をやっていた。
細長いテーブルの奥に座ると、隣に座っていた初老の男性が話しかけてきた。
それに答えながら、周りを見渡してみる―広さは二十畳ほどだろうか。天井に近い壁には、舞台の照明器具が並んで吊られている。正面の壁には棚があって戯曲本が並んでいる。自分と田丸さんが座っている後ろには大きなホワイトボードがあって「公演が近づいています」「4/12 駒込 仕事欠席」などが書かれていた。
「じゃあ、今日はアタマからやるか。菊池がもうちょっと力が抜けてセリフを喋ってくれるといいんだけどなあ・・・」
と言った田丸さんが、タバコをふかす。つるんと禿げ上がったおでこにメガネ、でも初老にしてはガタイが少しがっしりしている感じの人だ。その田丸さんの一声が合図のようになって、女性が4人、ワラワラと左側の壁付近に待機した。役者さんなのだろう。その4人の中の、菊池と呼ばれた太った女の人が、「じゃあ、スタート」という声で、突然スイッチの入った表情になり、喋り始めた。
「えー、ここってどこなんだろう? 誰か―、返事してくださーい! お父さーん、お母さーん、おねえちゃーん―――――」
「だから力を抜けって言ってるだろう! 言おう言おうとばかり思ってるから、肩に力が入って良い声が出ないんだよ。言おうという気持ちはいいから、力を抜くことだけ考えてやってみろよ。ハイ、もう一回アタマから」
「・・・えー、ここってどこなんだろう? 誰か―、返事してくだしゃーい! お父さーん、お母さーん、おばさーん、おばあちゃーん、小学校の佐藤せんせーい! 近所のおばちゃーん、宮澤そうりだいじーん! あれ?ちがったっけ?」
「だからこの前も言ったけど、そこはちょっと調子を変えるんだよ。それまで、お父さーん、お母さーんって叫んでいた調子と違って、ちょっと力を抜いてリズムを変えるの。分からないかなあ?じゃあ、ちょっと前から、続けるよ。」
「・・・おばあちゃーん、近所のおばちゃーん、宮澤そうりだいじーん! あれ、ちがったっけ? みんなー、どこに行ったのー? 誰か返事してよー!」
「騒々しいねえ、何を騒いでいるんだい?」
「そんなに騒いだって、ここには私たち以外にだれもいませんのよ」
「行けども行けども砂地よねー。コンビニくらい無いのかしら?」
「じゃあやっぱり、この四人以外に誰もいないのネー」
「いないのネーって、語尾にそんなに力入れないで。そこはちょっとのんびりと、いないのねーって独り言みたいに言うんだよ。菊池、分かるかな?じゃあ、そこもう一回言ってみよう」
「じゃあやっぱり、この四人以外に誰もいないのネー」
「だから力を抜けっていうの、分からないかな?何度も同じこと言わせるなよ。ハイもう一回」
「じゃあやっぱり、この四人以外に――――」
「今度は、この四人イガイにって早口になっちゃってるよ!力を抜こう抜こうって考えすぎちゃってるからそうなるんだよ。さあいつになったら良くなるのかな?もう一回行こう」
なんだ? なにが始まっているんだ? この菊池って人の演技が上手くはないのは分かる。でも、この田丸さんの言っていることが全く分からない。よく見てみると、田丸さんは「ハイもう一度」と言うと同時に目を瞑って、右手を頬に当てるとタバコを吹かして苦い表情をしている。なんだ?この人、演技している人を全然見ていないぞ?これが演出ってやつなのか?こんなやり方で良いのか?
結局、4人の女性たちは、何度も何度もセリフの言い方でダメ出しを受けて、砂漠からほとんど進まずに稽古の時間が終わった。周囲で座って見ていた劇団員がワラワラと立ち上がり、ホウキを手に取り掃除している中、田丸さんは隣に座った僕の方を向いてニコッと微笑みながら「まあまた時間があったら観に来なさいよ」と言ってきた。お世辞にも、素敵な微笑みとは言えず、「不器用な人が作りました」と書かれたような作り笑顔だった。
何度か「体験入団」という形で稽古場に通って、この「劇団いて座」というものの姿が、おぼろげながら見えてきた――――劇団員は、20代から50代まで幅広くいて、人数は二〇人くらい。稽古は、火金曜日の夜六時三〇分から九時三〇分が基本で、公演が近くなると、水曜日の同じ時間と、土日曜日の朝から夜までが稽古となる。みんな、日常では職を持ち働いていて、家庭を持つ人も何人かいる。照明や音響などの裏方作業も、劇団員が行うみたいで、誰が役者で誰が裏方なのかは、公演ごとに決めていく。そして舞台装置も劇団が手作業で作っていくみたいだ。
今日、僕は「装置製作日」と書かれた日の日曜日の午後に稽古場に行ってみた。いつもの稽古場とは違い、テーブルを全部どかして床にブルーシートが敷かれている。床にはたくさんの木材とトンカチやのこぎりが置かれていて、しゃがんで作業していた男の劇団員たちが、僕を見ると「おー」と言い、よく来た。みたいな空気になってくれた。
「ありがとうね。みんな朝からやっているから、来てくれると助かるよ」
若手で、大学生だという月川さんが近寄ってきてくれた。シュッととやせていて、背が高く、フレンドリーな人だ。
「おくむら君、仕事は大丈夫なの?」
ベテラン団員の駒込さんが声をかけてくれる。ゴリラみたいなでかい体格だが、演技についての指摘は適格で、田丸さんも一目置いている、劇団のナンバー2みたいな人だ。前回に稽古に来た時に、僕が夜中の居酒屋で働いていると話したので、それを心配してくれたのだ。
「大丈夫です」と答える。本当は、仕事が終わったのが昼過ぎだったから、ものすごく眠いけど、そんなことを言ってられない。
メガネで、背が低くて、タヌキみたいな体型のペンキ屋のまっちゃんこと松岡さんが、
「じゃあさ、奥村君、この木枠をつなげてよ。こことここを釘で打てばいいから」
と、優しい口調で言ってくれた。
うん。歓迎されているなオレ。よーし、これとこれを合わせて、釘打ちすればいいのね。トンカチなんて触るのは中学校の技術の授業以来だけど、がんばろう・・・・あれ?あれ?ちょっと曲がったかな? でもまあ、ちょっとぐらい曲がったって大丈夫だろう・・・
「おまえ、なにやっているんだ?」
しゃがんで作業している頭の上から、声が降って来た。見上げると、ぎょろっとした目つきの、がっしりとした感じのおっさんがこちらを見下ろしている。
「そんなやり方じゃダメだろ?こことここも曲がってるじゃねえか。いいか?ナグリもそんな持ち方じゃダメなんだ。だから釘も曲がって入っちゃうんだ。こう持つんだよ。それから、ここもちゃんと押さえて打たないと、どんどんずれてくんだよ。ちゃんとやんないと、舞台立たないんだぞ?」
次から次へと注意を受けて、ハイ、ハイ、と答えながら、この人は何者なんだろうかと考える。初対面で、自分の名前を名乗らず、こちらの名前も聞かず、釘とトンカチと木材について、とうとうと語っているこのおっさんは何者だ? こういうのを、失礼って言うんじゃないのか?「失礼じゃないですか?」と言ってやろうかと思ったが、やめた。このおっさんは、その背中に「怒らせたらおっかないオーラ」をぷんぷんと漂わせている。
結局、そのおっさんは、最後まで名乗らず、僕の作業にじっと張り付いて、アレコレと文句や注文をつけていた。その日の作業が終わると、当然のような感じで田丸さんの隣に座り、
田丸さんが「なんとか増井も今日は久しぶりに来れたみたいだから・・・」と皆に話し始める。あー、この人が増井さんか。よく稽古終わりに「装置のことは増井に任せてあるけどよ、どこまで考えているんだか・・・」と田丸さんが言っていた。
帰る前に、増井さんの所に行き、「体験入団のおくむらです。よろしくお願いします」と挨拶をすると、ピーナッツをつまみながら、「きみが奥村君かい。」とニヤッと微笑んだ。
うーん、悪そうな微笑みだ。
劇団員には、もちろん、女性の劇団員だって何人もいた。太った菊池さんは、年齢を聞いてみると僕の一つ上だったのでビックリ。もっと上かと思った。と、つい口に出してしまうと、「奥村君、あんた、結構言うわね」とジロリと睨まれてしまった。
女性の劇団員のトップは、船井さん。四〇代くらいで、背は小さいが、背筋が伸びている。病院の看護をやっているみたいだけど、田丸さんも船井さんの演技力は認めているみたいだ。稽古は、最初は団員全員で発声練習を行うが、その発声練習を取り仕切っているのが、船井さんだ。その次が、冨多さん。養護学校の教員をしている。スマートで、髪が長くて、周りの劇団員にいろいろと気遣いの出来る人だ。若手だと、美月さんはみんなからみっちゃんと呼ばれている。銀行に勤めていて、笑顔がかわいくて、みんなのムードメーカー的存在。湯座さんは、背が低いけど、目鼻立ちのしっかりした美人だ。そんな美人が「うち、どこなの?」と笑顔で問いかけてくる。それだけでなんだか嬉しいもんだ。
そんなこんなで、いろんな人と知り合い仲良くなっていって1か月、僕は、体験入団という名目でせっせと稽古場に通っていた。
「それで、奥村君はどうするんだ? 入団するのか?」
ある日の稽古の始まる前に隣に座っていた田丸さんからなげかけられて「ああ、はい、じゃあ、入団します」と、答えた。その日の終了後、田丸さんが役者へのダメ出しを言った後、「今さらだけど、奥村君が入団することになったから、伝えておく。」とボソっと言うと、みんながワーっと拍手してくれた。拍手してくれたということは、みんなは僕が入団したことを喜んでくれたということなのだ。うれしいけど、こんなにとんとん拍子で進んじゃって大丈夫なのか?
今は4月。6月の本公演の「トラップワイフ」という外国の戯曲の稽古の真っ最中である。
ある男の妻が全く別人と入れ替わってしまった。刑事や神父を呼ぶが全く男の言う事は信じてもらえずに、さらにまたもう一人妻だと名乗る女が出てきて・・・というミステリーだ。主役の男は若手で一番演技力のある吉田さん。まだ26歳なのにがっしりした体形で柔和な笑顔な人だ。みんなからは「よっちゃん」と呼ばれている。相手の妻役は湯座さんだ。相変わらず田丸さんの演出は「その言い方じゃないんだよな~」「それじゃあオセンチになっちゃう」と意味不明なダメ出しが続いていた。僕は「舞台監督助手」という、まあ舞台のことは何にも分からないんだろうからお勉強しなさいね、という感じの役割になっていた。舞台監督は松ちゃんだから優しく教えてくれる。
「舞台は客席から見て右側が(かみて)って言って、左側が(しもて)って言うんだよ」
「1尺が30センチとちょっとで、6尺ってのがだいたい180cmくらいなんだ。それで、横が3尺で縦が6尺の張り物をサブロクって言ってだいたい畳一枚分くらい。これが基準なんだよ」
「釘を打つのはさ、力じゃないんですよ。遠心力を使って振るの。だからみんなトンカチの柄のはじっこを持つんですよ」
いろんな事を教えてもらいながら、勉強にはなるけど僕はやっぱり映画を撮りたいなあと思っていた。でも今「実は僕映画の方に行きたいんです」なんて言えない。ここはじっとガマンして、教えてもらう事さえ教えてもらったらさっさと辞めちゃおう。と気楽に考えていた。
そうやって、いつものように田丸さんの分からないダメ出しの稽古を見ていたり舞台監督助手として教えてもらったりしているうちに、ムクムクと思いもしなかった感情が湧き出てきた。それは出始めると自分の都合の良い風にしか考えない誠に厄介なものだった。そしてそれは日に日に大きくなっていった。その感情とは
「自分が役者として演技をすればどうなのか?」
稽古を見ていると、田丸さんのダメ出しはよく分からないけど「ここ失敗したな」というのは分かる。だからそんな自分がこうやって表に立って演技すれば、みんなその天性の演技力に感動して、みんなから称賛の嵐がくるんじゃないか・・・マア、そんな入ったばっかの男をすぐに舞台に立たせるなんて甘くはないんだろうけどねエ。と脳内の片隅でぼんやりと考えていた。
それは稽古も残り1か月を切った頃だった。死んだ酒飲みじいさん役の駒込さんをタンカで運ぶ警察官が二人必要だ。ということで、若い男性劇団員と、入って6カ月の川村さんがその警察官と決まっていた。しかし駒込さんはゴリラ体型で体重がおよそ90キロはあるので床に置いたタンカが持ち上がらない。特に川村さんは優男的な人なので、どうしてもある程度までタンカが上がるとふらついてしまう。困った田丸さんと松岡さんと増井さんがタンカを囲んで唸っている。
不意に「奥村!」と増井さんの声がした。なんだなんだと思って寄っていくと「ちょっと川村と代わってコレ持ってくれるか?」あー、なんかタンカの持ち方のモデルでもやるのかな。こんなもの持ちますよ何度でも。よいしょっと。エ?「オー」ってみんな言ってるけどなんだ?あ、次は前になって持ち上げるんですか?はいはい、じゃあ前に回って、よいしょっと。お?また「オー」だ。なんだなんだ?
田丸さんがこう切り出した。「じゃあ、川村には悪いけど、川村に代わって奥村に警察官役をやってもらうことにするから」増井さんと松岡さんも「おめでとうね」「しっかりやれよ」と声をかけてくれる。
エ・・・・じゃあオレが舞台に立つの?しかも先輩の川村さんの役を取っちゃって・・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます