第3話  2

 黄金町駅と地下鉄の阪東橋駅の間の片隅にその店はあった。営業時間は夜中の12時から翌朝10時まで。料理は焼き鳥から刺身からそれなりにメニューのレパートリーは広い、入って右に狭い小上がりの座敷がありそこにテーブルが二つ。左側に茶色い板目のカウンターが並んだ居酒屋だ。お客は、関内駅付近で水商売している人たちが主。水商売って言っても幅広く、ホストやボーイズバーがお客さんと来たりスナックのママがお客と来たりする。同じ居酒屋が1時や2時に店を閉めて飲みに来ることもあるし、ゲイバーやショーパブのオカマが集団で来たりもする。ヤクザの兄貴が若いのを連れて飲みに来ると兄貴がトイレに立つたびに若いのはトイレ前で立って待っている。詰めれば12人ぐらい座れそうなカウンターのこっち側でお皿やコップを洗っている時、正面に座った頬に傷のあるヤクザの兄貴分に「兄ちゃん。ここをクビになったらうちに来な」と言われて、ありがとうございます、と頭を下げながら、不器用な愛想笑いをしてみせた。

 「そこ洗い終わったら、ちょっと休憩しな」と店主の加山さんに言われる。加山さんはでっぷり太ってパンチパーマ。ヤクザじゃないけど、若い頃はけんかを売ってきたヤクザやチンピラを数々倒したという思い出を飲みに行くとよく話す。なぜパンチパーマなんですか?とは飲みに行ってどんなに酔っぱらっても聞けなかった。

 店の奥のイスに座ってラークマイルドに火を点けると「どうしたよ?何か疲れてるみたいだな」と言われ、ハア。だいじょうぶっすと答えた。

 今日も、稽古でかなりしぼられてきたのだ。次の公演に警察官の役で出演することに決まり、セリフは無くて戯曲の中でタンカを持ちあげるシーンを含めて3回しか出てこない。こりゃ楽だわラッキーなんて受かれていたが、

「背中を丸めて歩くな!」

「プラプラ歩くなよ!警察官に見えないんだって」

「敬礼をもっとシャキッと出来ないのか!」

 「だから背中を丸めるなっての!分かんないか?今度は背中伸ばすと右手と右足が同時に出ちゃってるぞ。セリフ無いんだからな。こんなんじゃセリフのある役やる時には先が思いやられるなぁ」

「やっと歩き方が良くなったと思ったら*#&¥+」

 最後の方は怒りすぎていて何言ってるかよく分からなかった。―という感じで、稽古で俺が出るシーンになると沈滞した空気が流れてくる。今日は稽古の時間の半分くらいが警察官のシーンに使われてしまい、主役の吉田さんや警部役の欣二さんと目が合うと冷たい視線がこちらに向けられていた。ああ神様演技するなんて楽勝じゃんなんでみんなこんなことができないんだろうなんて思いあがってしまってすみません。菊池さん太っていて演技も下手なんてわき役にも使えないななんて思ってごめんなさい。吉田さん今の演技に満足していて甘い人だなんて思ってごめんなさい。湯座さん美人なだけだってごめんなさい。

 「歩く」ことは誰だってできる。だが、前から人にじっと見られている状態で「歩く」それも自然に。しかも警察官に見えるように「歩く」のだ。こんな難しいことをオレは出来るのだろうか・・・とか考えていると、飲み屋のお姉ちゃんと肩を組んでもう既に酔っ払った目つきのボーイズバーの若い男が「マスター空いてるぅ?」とのれんをくぐってきた。活舌の悪い「いらっさいませー」を言ってオシボリ保温機のドアを開けて二本のおしぼりを取り出す。


 朝の10時近くになって、客もいないので店の表ののれんを片付けた。朝の9時を過ぎてやって来るお客は昼間に働く普通の感覚だと深夜2時3時。つまりベロンベロンの質の悪い客が来ることが多い。マアたまには優しいお客さんが来ることもあるけど。

 カウンターにイスを上げて、店の中を掃き掃除する。加山さんは残った洗い物をしている。

 「あの・・マスター、すみません」ちょっと勇気を出して声をかけた。店では加山さんを「マスター」と呼ぶように言われている。

 「オオ。どうした?」

 「実は、来月の16日から18日に休ませてもらいたいんですけど・・・」

 「三日間もか?ちょっと待ってよ」

 と、マスターは濡れた手を前掛けで拭いて、テレビの横にかかったカレンダーをめくった。

 「おー、金曜土曜日曜かぁ・・・・」

 週末は一番お客が来て売り上げが見込める。僕がいないだけで店を回せないで断るお客が出てくるので、売り上げの事が気になったんだろう。

 「まぁいいヤ。よぉへいちゃん、がんばってくれてるからな」

 「すみません。」

 「三日間もか・・・オマエ、女の子とどっか旅行でも行くのかヨ?」と、加山さんは泡のついたスポンジで鍋をこすりながら、にやけて聞いてきた。

 「イヤいや・・・」

 「じゃあ何だよ?エ? 言えよ?ゴニャゴニャ言って隠し事なんてすんなヨォ」

 「実は・・・この間芝居やる劇団に入りまして、そこで今度の公演にちょっと出る事になったんですヨ」

「しばいって・・舞台とかでやる、お芝居の?」

「ハァ」

「それに出るの?」

「なんか、そんな感じになりまして・・・・」

「・・・じゃあ、映画はどうすんの?やめんのか?」

「イエイエ、映画の世界には入りたいなって思ってるんです。ただちょっとでも勉強

 になればいいかなと思って・・・」

「・・・へーーーーーー」

 この「へー」は、その物事がよく分からないので、良いことだか悪いことだかよく分からない。まあ自分には関係ないから、無理にやめろだの逆に応援してるだの言わないけど、ああそうなのか、という感の「へー」だ。

「で、その芝居に出るってのは、結構セリフとか言うのか?どんくらいの役なの?」

 あー、セリフとかは無いんです。本当ちょっと出てすぐ引っ込むってのが3回ある

くらいの役で。ホントにちょい役です」

「あそうなの?ふーん・・・」

 セリフも無い役なのに何で休むんだ?だいたいそんなちょい役しかもらえないって、そっちの方に才能無いんじゃないか?と言いたいけど俺は大人だからガマンしているぞ。

といううなづきながらの薄笑い。

 本当は、公演の前の金曜日には劇場での大道具を建て込む「仕込み」があって、木金土日と四日間休みたいのだが、そんなちょい役で四日間休むなんて言えない。

 「まぁ分かった。じゃあ16、17、18とお休みな。」

 「すみません」

 「今のうちだけだからヨ。好きな事出来るのは。がんばんな」

 「ありがとうございまス」

 それっきり、マスターは洗い物に戻って、僕は掃除の続きで手を動かす。でも手を動かしながら、心臓の鼓動は止まらない。言った言ったお芝居しているって言っちゃった。かなり勇気だして言ったのに、こんな感じなのか?この共感の無さ。というか「演劇」というものが世間に浸透していない感。これでセリフあって主役です。とかならちょっと堂々と言えるけど、セリフも無いのに歩くだけが出来なくて困ってますなんて言えない・・・

 

 公演の日が近づいてきて、貸衣装屋で借りた衣装を試着する日が来た。今回はイギリスの戯曲なので、イギリスの警察官の衣装を借りないといけない。稽古場で、貸衣装屋から借りたズボンを履いてジャケットを羽織って鏡の前に立ってみると、アレなんだかそれっぽく見える?

 「奥村君、背が高いから似合うねぇ」

 衣装担当の美代子さんが微笑みながら言ってくれた。もう大きい子供たちの母親のおばちゃんだ。メガネの奥から柔和な目で眺めてくれる。

 「あとは、髪の毛を色が出る髪染めで金色に染めるからね。よろしくね」

 ハーイと言いながら、もう一度鏡に映った自分の姿を見てみる。警察官の服装を着てしまっただけで、なんだかうまく出来るんじゃないかと自分の中で根拠のない自信が出てきてしまっている。ヘー、衣装ってすごいんだなぁ。

 

 稽古は週五日の公演直前体制に入っていった。特にしぼられているのは、湯座さんだ。この妻役がちゃんと「妻」に見えないと芝居全部がガタガタになるからだ。「奥さんはそんな言い方しない」「もっと旦那に甘えられないかなぁ。どこか遠慮しちゃってるんだよ」「その言い回しだと旦那が次のセリフを言えないんだよ。どうしてもここ力が入っちゃうんだよな」とダメ出しの嵐を浴びる日もあった。

僕たち警察官の場面をやる時は「じゃあ警察官もやっとくかな。本番近いんだから、そろそろ警察に見えてこないとね」と田丸さんがぼやいてから始まり、いつものように背が丸まってるだの歩き方が汚いだのと言われ続けていた。こんなにダメなら俺を降ろして他の人にした方が良いんじゃないかと何度も心の中で叫びながら、半ばヤケクソのように歩き続けた。

 「歩く」とは、右足を前に出して、体重をかけてまた左足を前にだす。そしてその逆をやって繰り返す。こんな単純なことが出来ない。しかも僕の癖として猫背があるので、背中を伸ばすよう気にするとぎこちない歩きになり、じゃあ歩き方を自然にと注意するとすぐに背が丸まってしまう。しかももう一人の警察官はほとんどダメ出しされずに文句を言われるのは僕ばかりだった。その人と自分の歩き方にどう差があるのかさっぱり分からなかった。毎回稽古が終わると、一番搾られている僕と湯座さんはお互いでちょっとにが笑いを交わして、がんばろうねがんばりましょうねと言い合っていた。


 湯座さんは菊池さんと同じで僕の1コ上だ。目鼻立ちがくっきりしていて美人で色気もあるのだが、ハイライトをスパスパ吸ってビールを飲んで真っ赤になってギャハハと馬鹿笑いしたりとおっさんぽい所がある。背が小さくて「カワイイ」キャラのようにうにゃうにゃ言ったかと思った次の瞬間に「んだとテメエ!」とケンカしていたりする、なんだかよく分からん人だ。が、高校では演劇部にいたそうなので演技の基礎は出来ており、美人でもあるから、劇団の上の方の人たちは若手の有望女優と見ている感があった。

 「こんなんで本番うまくいくのかなぁ」とタバコの煙を吐いた後で湯座さんが呟く。

 「湯座さんまだセリフで怒られてるんだからいいじゃないスか。俺なんか歩くだで

ダメ出しですよ」

「エー?警官なんてオイシイよー。あんな制服ビシッと着ちゃってさ。カッコいいよ」

「でも「お前の歩きはチンピラだ」って言われてるんスよ」

「大丈夫だよ。本番来ちゃえば。それよりアタシだよ。吉田さんの奥さんに見えないとアイツはへたくそだってボロクソ言われるんだよね。あーやだやだ」

 と、火のついたハイライトを灰皿でトントンしながら湯座さんはぼやいた。なるほどセリフもらって大事な役柄をもらった人は人で悩んだり嫌になったりしているんだなぁ。


そうこうしているうちに、遂に本番一週間前に行われる最後の通し稽古が終わった。最初から最後までダメ出しで止めないでやりきる通し稽古。この一週間前の通し稽古は、実質的に稽古場で行う最後の稽古である。

これで本番を迎える・・・スイミングスクールで、クロール25m泳げたことないけどテスト当日を迎えた時の気持ちだわ。全く安心してないけど、いつものスクールと違ってテンションだけが上がっているような。劇団員のみんなも、これで後は劇場でやるだけだという思いのためか、ちょっといつもより熱気がある。

その中で自分も何とかがんばんなきゃと思い、舞台監督の松岡さんに「よろしくお願いします」と言いに行った。

 「オー奥村君。キャストもあって大変だけど頼むよ」

 「何どうした?」と横から声が出た。「あー増井さん。奥村君が頑張るそうですよ」とにこやかに松岡さんが答える。

 「そっか・・・ひとつ、ケガしないように頼みますヨ。俺らジジイだから、若い奴らに働いてもらわないと、装置が立たないからよ」

―「装置」とは「大道具」つまり建て込む張り物の事だ。役者などが使う「小道具」は「小道具」と呼ばれるが、「大道具」は「装置」と呼ばれている。今回の「装置」の設計は、増井さんと田丸さんが共同で作ったそうだ。

 「奥村は、公演の仕込みとか初めてだっけか?」と増井さんは上目遣いにこっちを見ながら聞いてくる。―公演のために前日に劇場に入って、装置の建て込みや音響や照明のセッティングをすることを「仕込み」と言う―「はい初めてです。分からないから何でも言ってください」と頭を下げた。

「そうか・・・本番ってのは、祭りみたいなもんだからな。みんなテンション上がるからワーワーなっちゃうし、いろんなトラブル起こるからよ。よろしく頼むわ」

 「オオ、期待されてるねぇ」と松岡さんに背中を叩かれた。

 祭り。という意味がいまいちよく分からないままで、ハア。と、とりあえずの返事を返す。

 稽古場の中は、いまだに人の熱気と喧騒でざわめいていた。




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