15・戦いの予兆
今回のたよりは、おすすめの参考書紹介だった。
これに憤然として眼を険しくする人間が一人。
「これは、やはり……!」
北里母である。
参考書。受験のために作られた手引書。つまりテクニックの塊である。
幸か不幸か、いずれも彼女の息子が持っているものだった。そこでざっと目を通したところ、予期した通り、テクニック中心の指導が書かれていた。
いわく。何分以内に解けない問題はとりあえず飛ばせ。マークシート式の試験は途中の計算を書く必要がないから、何々という短縮方法を使うべし。暗記の語呂合わせはうんぬん。
やはり勉強会は、見せかけの知を勧める悪徳の部活。姑息な点数稼ぎに終始し、真理の道を見失った虚構の信奉者。
駆逐しなければならない。これは使命であり義務。あの虚飾にまみれた部活は、廃部されなければならない。
「母さん……?」
ふと見やると、息子が顔をのぞいていた。
「また勉強会のことか?」
「ええ」
彼女は素直にうなずいた。
「頼むから、大それたことはするなよ」
「ゆっちゃん」
彼女は目がしらに熱いものを感じた。
「違うの」
「何が?」
「これは――そう、正義の一撃なの」
息子はにわかに目を見開いたが、彼女は気にせず続ける。
「ゆっちゃんだって、まともな大人になれなかったら、困るでしょう。だから私はあの部活を廃止させる」
「つまり、あの部活はまともじゃないと?」
「その通り」
彼女は大きくうなずく。
「ゆっちゃんも、他の生徒も、正しい知――虚飾のない、姑息ならざる知力を身につけなければならない。それが教育の使命だから。そうしないとまっとうな大人になれないから」
彼女の瞳に、義憤の炎が灯る。
「でもこの部活は、正しい知を理解していない。どんな問題も、本質と背景を含めて正しく理解しないと、適切な答えにはたどり着けない。この部活がやっているのは、ただ目の前の問題について、テスト的な解答をひねり出すことだけ」
息子は黙って聞いている。その意識が、彼女の言葉をきちんと受け止めているかは、彼女には分からない。
「知は的当てゲームなんかじゃないの。的に答案の矢が命中しても、その矢と技術を善のために使わないと、無益、有害でしかない」
「で、じゃあどうするんだ」
息子が問うと、母は答える。
「聴聞会の申立てをします」
「……本気か?」
息子はさすがに顔色を変えた。
「あれは生徒会の職権で開くもので」
「そうね。でもその発動を促す申立てはできる」
「……母さんは沿岸高校の生徒じゃないだろ。過去にウチの生徒だったことすらない」
「校則を見たけど、資格については、なんの制限もない。それどころか、生徒以外の人間が論者となることを予期している条文がある」
いわく。本校の生徒でない者を論者に選出しようとするときは、本校とその者との関連性、校内秩序の混乱のおそれ、その他本校の運営の妨げとなる事情を考慮し、危険がないと認められるときにのみ選出する。
「つまり保護者でも良い、と読める」
「……むむ」
息子はそれでも承服しかねるようだ。きっと内心では「この校則を作ったやつは、余計なことをしたな」と思っているに違いない。
しかし、正義は遂行されなければならない。息子もきっと、大人になったときに分かるはず。
「とにかく、母さんは申立てをする。生徒会が拒否すれば、その時はその時ね」
息子は無言でしばらく立ち尽くした後、自室へ去っていった。
数日後、北里母は再び面談した。
北里母と生徒会役員。もちろん不良の七里はこのような場に呼ばれなどしない。
ただし、少なくとも北里母の知る限り、生徒会役員のうち半数は、反対派とは呼べない。形勢次第でこちらに与する可能性は無くもないが、どうも現状は中立というのが、もっぱらの噂である。
「私たちは真の知と向き合わなければなりません」
彼女は言った。
生徒会長の桑浜は、北里母の高尚な説教を、頭の中でひたすら横に流していた。
「彼らのやり方は、真の知を軽んじ、知に対するごまかしの……」
長い演説。ずいぶんと暇な人だ。
だが、これからどうするか、そのことは考えなければならない。
正直なところ、桑浜はあまり聴聞会の開催に乗り気でない。
前例が皆無。勉強支援同好会の活動が、世間でいう「不健全な活動」であるわけでもない。反対者たちはそのように言い募るが、一般人から見てもそうだとは思えない。
おまけに保護者が論者になるなど、イレギュラーにもほどがある。
この点、生徒以外の者が論者になることについては、校則も想定しているようだ。しかし逆に、わざわざ特殊な条文を設けているということは、原則的な形態ではないということでもある。
なんとか矛を収めてもらえないものか。
決して勉強会に思い入れがあるということではない。ただひたすら面倒で、拠るべき前例もなく、彼女自身も得をしない。勉強会から恨みを買うおそれすらある。
強いていえば、勉強会はかなり不運だ。どう見てもまっとうな部活動なのに、なぜか敵が続々と湧いてくる。
もしこれが、野球部やサッカー部、吹奏楽部などであれば、よほど特殊な経験をした人間でない限り、廃部にさせようなどとは思わないだろう。
もっとも、だからといって、存続に便宜を図るつもりはないが。
彼女は凝った目頭をもんだ。
桑浜は、ひとしきり語り終わった北里母を、とりあえず帰した。
「で、どうする?」
問いかける。少しでも責任を分散させるために。
千堂と稲富は、やはり無言だった。理由付けが違いすぎるからに違いない。結論が同じでも理由の違う主張は、一般論としても、またこの場のものとしても、相容れないのだろう。
しかし東郷が口を開いた。
「公開聴聞を開くべきだと思います」
意外な一言。
「……なぜ?」
「まず前提として、私たち生徒会には、直接廃部にする権限は属していません」
「そうだね」
「この聴聞というのは、あくまで選挙管理委員会がジャッジするものです。生徒会が行うのは、あくまでも開くか否かの決定だけです」
東郷は落ち着いて語る。
「部活を廃部にするというのは、重大なことです。部活の存在意義に疑義が出ている以上、とりあえず両者の言い分を聞くだけ聞いてみて、ジャッジを選挙管理委員会にお願いすることは、きっと不当ではないはずです」
「なるほど」
「今回の申立ては決してイタズラではありません。実際、この生徒会の中でさえ、疑義を持っている人はいます」
千堂、稲富が静かにうなずく。
「当事者たちに、互いの言い分を思う存分しゃべらせて、公正なジャッジのもとに処理を決定する。むしろそれが、今回においては正当なのではないでしょうか」
「その通りだね……」
桑浜の聞く限り、東郷の主張はまともに見える。
できればその聡明な頭脳を、聴聞会を回避する方向に使ってほしかった。しかし、かといって桑浜は反論のすべを持たない。
「分かった。なにせ前例がないから、ちょっと時間がかかるけど、聴聞会は開催の方向でいくよ」
悩める生徒会長は決断した。
ある日、勉強支援同好会に来客があった。
「こんにちは」
北里。母のほうではなく息子。
「おう、お疲れ」
若干の警戒をしつつ、竹永は答える。今日来た部員は、今のところ彼一人だ。
「いや、警戒しなくていい。俺の母の動向を伝えにきた」
竹永に緊張が走る。警戒しないなど、なおさら無理な話だ。
「母が聴聞の申立てをした。生徒会も、開催の方向で準備を進めるらしい」
竹永は目を見張った。
「それは、本当か」
「ああ。母が自分で言っていた。間違いない」
北里はうなずく。
「俺は母の言うことが正しいとは思えない。だから母の暴挙を止めようと、家の中で色々話をした。……けどダメだった」
彼は肩を落としながらつぶやく。
「俺は勉強会存続派、というより母の行動を無茶だと思っているけど、もう俺にできることはない。だからこの同好会に伝えようと思った」
明らかに気疲れの色をにじませている北里に、竹永は言った。
「ありがとう。勉強会存廃は、もともと当事者の俺たちが向き合う問題だ。おふくろさんの動向を知らせてくれただけでもありがたい。だからそう気落ちしなくてもいい」
「竹永……」
「張り切っているおふくろさんに、ものを言うのは大変だっただろう。本当にありがとう」
竹永はそう言って、お茶を出す。
「とはいえ、家に帰ればあのおふくろさんが待っているんだよな。しかし部室に泊まらせるわけにもいかないし……」
「いや、それには及ばない。それでは家出だ。家庭内の問題については、俺自身がどうにかするよ」
「そうか。すまんな」
「いや、こっちこそいきなり訪問してすまない」
北里は頭を下げた。
「俺のことは気にしないで活動してくれ。ただ、もう俺にできることはない。頑張ってくれ。じゃあな」
「おう。じゃあな」
突然の客人は去っていった。
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