09・相談者現る
一方、北里は家でガインをしていた。
北里母ではない。息子である。
相手も勉強支援同好会の面々ではない。少なくとも北里は、あの集団とほとんど話したことがない。
【ナックン】お前んちの母さん、学校の生徒会に乗り込んでいったってマジ?
北里は返信する。
【NORTH】マジ。あのおふくろ、余計なことばかりして
【ナックン】まあそう言うなよ。お前の母さんはえらい美人だから、目撃した奴はある意味ラッキーだ。
【NORTH】からかうのはよせ
北里母は、北里が聞いた話によれば、若い頃は哲学者を目指していたらしい。
本郷国立大学という、日本最高の大学。その哲学科に所属していたという。
その頃の血が騒いで、勉強会にいちゃもんをつけたのだろう。
本人はいちゃもんなどとはつゆとも思っていないようだ。正義の主張、善なる声、正しき問いかけ。北里母は、ただ独り、その意見の完全性を信じている。
もちろん息子の北里はそう思ってはいない。
特別勉強が好きだったり、思い入れがあるわけではないが、勉強支援同好会は正直災難だと思う。
いや、逆だ、と北里は考えた。
彼は勉強に思い入れがないから、勉強の本質になど特段こだわらない。ひるがえって、その迷惑な母は、勉強を尊んでいるからこそ、崇高な理念を持つのだ。
【NORTH】全く困ったもんだ。止めないと勉強支援同好会に迷惑がかかるが、おふくろは止まるような人でもないしな
【ナックン】あぁーあの美人熟女にハグされたい。そして甘えたい
ナックンがしょうもない妄想に入ったところで、北里はスマホをスリープ状態にした。
ナックンは本当にしょうもないが、身内として北里母を放置するわけにはいかない。
北里は夕食の際、母に言った。
「おふくろ」
「何、ゆっちゃん」
ゆっちゃんとは、北里息子のことである。未だにこんな名前で呼ばれるのは恥ずかしい。
なお、北里の父は単身赴任中で家にいない。祖父母は別のところに住んでいる。
ゆっちゃんは言った。
「最近、勉強支援同好会を妨害しているんだって?」
聞くと、北里母はその形の良いまゆをひそめた。
「そうよ。あの部活はあってはならない」
なぜ、とは聞かない。北里はその意見の内容を把握しているからだ。
それに、聞いたところで論破するのは不可能だ。いくら息子とはいっても、大学で哲学を本気で学んだ人間に、その哲学の論戦で、ただの高校生が勝てるとは思えない。
――ここに比名さんか竹永くんがいれば、あるいは。
考えて、やめた。ここには比名も竹永もいない。全国ランカーの天才たちは同席していない。
「……俺は」
北里は口を開く。
「俺は、あの部活に所属していない」
「そうね」
「息子が所属もしていない部活に、文句をつけるのか」
「それはそうよ。善は善、悪は悪。あなたが関わっているかどうかは関係ないもの」
全く聞く耳を持たない。
「そうか。なら言い方を変える」
「うん」
「おふくろが普通の部活にけちをつけるせいで、俺の肩身が狭くなってもいいのか」
善も悪もない。自分は困っている。
しかし北里母は全く動じない。
「ゆっちゃん。わがままは言わないで」
「どっちが……!」
「ゆっちゃん」
北里母は続ける。
「正義のために払う犠牲を、惜しんではいけないの」
「正義だと?」
「そう。あの部活は、受験生の目をくらます邪悪。それを倒すためには、我慢するしかないの」
だから、と彼女は言う。
「ゆっちゃん。今は我慢してちょうだい。いずれ私の言うことが正しかったと思える日が、きっと来る」
あまりにも独善。吐き気を催す偽善。
しかし北里は、それを喝破するすべを持たなかった。それを打ち破るには、教養も知識も、全てが足りなかった。
「……くそっ!」
「ゆっちゃん!」
北里は乱暴にいすを蹴ると、ドカドカと自室に引き下がった。
ある日の勉強会。来客があった。
「こんにちは」
女子生徒。
「え、あ、こんにちは」
なんの来客かとうろたえる竹永に、その女子生徒は言う。
「ええと、勉強の個別相談をしているって聞いて」
「ああ、それか、うん、そうそう」
竹永はようやく、この部活の趣旨を思い出した。
「竹永くん、忘れていたのニャン。うちは個別相談もやってるって」
「いやあその」
なにせ初めての個別相談である。慣れていなくても仕方がないのではないか。竹永は思った。
「もう、うっかりさんニャ」
「いや、ハハ」
彼はあいまいな笑みでごまかす。
「で、こちらへどうぞ」
「は、はい」
比名は女子生徒を座席に案内した。
一言でいうと、その二年生、雨森の相談は、恋愛がらみだった。
いや、勉強もだいぶ絡んではいるが、その終着点は恋愛関係だった。
雨森いわく。好きだった同級生に告白したところ、その同級生は条件を出した。
「次の模試で自分を超えること、か」
「はい。そうです」
二人が通っている塾、その塾が主催する模試の総合偏差値で勝利する。
問題は彼我の成績にある。
「私の普段の偏差値は五十前後。彼……酒井くんは六十前後って聞きました」
「難しいな」
竹永が答える。
「一気に十上げるのか。次回の模試はあと十日だったね」
「はい。もっと早く相談できれば良かったんですけど、告白したのがつい二日前なので……」
「むむ、どうもお断りの口実に思えるな」
彼は遠慮会釈もなく言った。
「そもそも、テストの成績で付き合う、付き合わないを決めるのがおかしい。恋愛にそんなもんは関係ないはずだ」
「勉強支援同好会がそれを言うのかい」
前野が茶化す。
「事実だから仕方がない。彼はなんらかの理由で、普通に断ることができないんじゃないか」
「それがなんなのか、雨森さんは心当たりがあるかニャン?」
「ありません。ただ、酒井くんはずっと昔から『自分より成績のいい人としか恋愛しない』と言っていたようです」
「ふうん、昔、適当に言ったことで、引っ込みがつかなくなったのかニャン」
「元々、自分より成績のいい誰かに恋していたという線もありうる」
二人で残酷なことばかり好き勝手に言う。
「そんな……」
雨森は悲しげに肩を落とす。
「引っ込みがつかなくなっただけなら、成績を超えればとりあえず約束は果たせるニャン。でも他に好きな人がいる場合、成績を上げても無理は無理ニャン」
「そうでなくとも、たった十日で成績を十上げるのは、かなりの難題だ。とても確約はできない、どころか、失敗の公算のほうが高い。それでも俺たちの指導を受けるか?」
竹永が聞くと、雨森は決然たる表情で答える。
「受けます。必ずやります」
「分かった。じゃあさっそく、今の実力を――」
勉強支援同好会一同は、準備に入った。
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