さよなら風たちの日々 第7章ー4 (連載21)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第7章ー4 (連載21)


              【7】


 さわやかな初夏がやがて過ぎ、灼熱の夏もいつしか終わり、季節は再び秋となった。

 夏と秋の境目はいつも大雨が降るものらしい。その雨がやむと、風はとたんに姿を変えてしまう。昨日までのきらめきが嘘だったかのように、少し前までのめくるめく光が夢だったかのように、確かに風は、季節とともにその姿を変えてしまうのだった。

 ヒロミはあの日以来、毎週土曜日にやってきてはぼくとたわいもないおしゃべりに興じたり、彼女が持ってきたカセットテープを一緒に聴いたりして時間を過ごした。

 彼女が持ってくるカセットテープは、決まってジャズだった。あんなの、ピラララ、ピロロロってばっかりで、どこがいいの、といぶかるぼくに、ヒロミは笑ってカセットデッキのプレイボタンを押した。

 ジャズの話になるとヒロミは、急に饒舌になるから面白い。

 ヒロミは目をきらきら輝かせながら、こんなことを言う。

「たとえば演歌だったら、全部ってわけじゃないですけど、最初のメロディを聴くと、次のメロディが想像できちゃうことって、あるじゃないですか。ジャズはその場その場の感覚でフレーズをつないでいくから、次のフレーズが予測できなくてスリリングなんです。毎回同じことを違う言葉で、違う話し方、言い回しで話すのと同じなんですよね。だから同じ曲でも、もう一度演奏すると、別の演奏になっちゃうんです。逆に言えば、同じ演奏は二度とできないんです」

 意味がよく分からないと言うぼくにヒロミは、

「じゃあ、例をあげて説明しますね」と嬉しそうに解説する。

「これはあるジャズピアニストさんが話してくれたんですけどね、例えば昨日の自分の出来事、自分のしたこと、まわりに起きたことを3分くらいに要約してAさんに話すんです」

「朝、何時に起きた。朝食は何を食べた。昼ご飯はどうした。午後はどこそに出かけた。何時に帰ってきた」

「それが終わると今度はBさんに、昨日の出来事をやはり3分くらいで話すんです。朝は何時に起きた。何を食べた。昼はどこで食事した。午後に出かけた場所はどこそこ」

「するとどうなりますか。内容は同じでも違う言葉に言い換えたり、言い回しを変えたりしませんか」

「逆に言えば、一字一句同じことを話そうとしても、無理なんです。その場、その場で頭に浮かんだ言葉で話すからです」

「それがジャズなんです。同じ曲を何度演奏しても、同じ曲なんだけど、完全に同じ演奏にはならないんです」

「そこがほかの音楽、たとえばクラシックや歌謡曲とは異なるんですよね」

 解説してくれたヒロミに、なるほど、と思ったぼくは訊いてみた。

「少し分かってきたような気がする。つまりだな。同じ事件のニュースでも読売新聞と朝日新聞では、どことなく文章が違うってことだろ」

 するとヒロミは笑いながら首を振って、

「先輩殿。それは違いますってば。新聞記事の文章をジャズに例えるなら、同じ曲をいろんなジャズメンがいろんな形で演奏するって感じが近いですね」

「たとえばジャズのスタンダードナンバーに枯葉っていう曲があるんですが、いろんなジャズメンがレパートリーにしていて、全部アレンジが違いますよね。新聞記事の文章の違いはそれです。それ」

 そんな話を熱く語るヒロミが持ってきたカセットテープは、オスカーピーターソンに始まり、レイブライアント、ビルエヴァンス、ウイントンケリーのピアノリーダー作を経て、やがてマイルスデイビス、ジョンコルトレーンなどの王道ジャズに進み、やがてぼくもジャズが好きになった。

 ヒロミの父親が大のジャズファンで、そのLPコードは四千枚、あるいはそれ以上持っているという。なぜそんなにレコードを持っているかと訊くぼくに、ヒロミは笑って答えなかったけれど、その答えはやがてずいぶん経ってから、意外な形でぼくが知ることになるのだ。

 カセットテープに録音されたジャズを聴きながら、ヒロミはときどき、その楽曲の解説をすることがあった。

 たとえばマルウォルドロンのレフトアローン。

 ビリーホリディに捧げたこの楽曲は、1960年に録音され、その編成はピアノがマルウォルドロン、ベースがジュリアンユーウェル、ドラムはアルドリーレス、そしてアルトサックスがジャッキーマクリーンとなっている。

 聴きどころはジャッキーマクリーンの切ないサックスとマルウォルドロンの感情を押さえ込んだ、慰めるかのようなピアノソロだという。

 そのレクチャーはどうせジャズ系音楽雑誌やライナーノートの受け売りだとは思うんだけど、ヒロミがそれを自分なりに咀嚼して説明してくれるから、ぼくはそれをすぐ理解することができた。


 そしてコーヒーだ。ぼくは家ではインスタントコーヒー専門だったのだが、ある日ヒロミはコーヒーメーカーとミルと豆を持ってきて、ぼくに飲ませてくれたことがあった。

 おいしかった。これは何という種類のコーヒーだと訊くぼくに、ヒロミはこれまた黙って微笑みで応えるだけだった。

 だからぼくはそのコーヒーを勝手にスマイルコーヒーと名付けて、その味を堪能していた。

 それからヒロミは決まって、軽い昼食を持ってきていた。それはサンドウィッチだったり、おにぎりだったり、小さくて可愛らしいお弁当だったりしたんだけど、その小さなお弁当を二人で食べるのがまたぼくは楽しくて仕方なかった。その小さなお弁当ではちっともお腹いっぱいにはならなかったけれど、なぜか心はいつも満たされた気分になっていた。

 学校帰り。もう電車で一緒に帰ることはなかったけれど、だからヒロミが家に来ていた時間、そしてお弁当を二人で食べていた時間が、今思うとやはり幸せな時間だったのかもしれない。


               【8】


 あるときぼくは、ヒロミを堀切橋に近い荒川河川敷に誘ったことがある。

「たまには散歩しようか」

 その言葉にヒロミは読んでいた本を閉じ、明るい顔を見せてぼくに続いた。

 ぼくとヒロミは肩を並べて荒川の河川敷まで歩き、土手の一番高い場所に腰を下ろす。

 河川敷のグラウンドでは、少年たちが野球の練習をしていた。キャッチボール、バッティング練習、捕球練習、打撃練習、ランニング。

 おもいおもいの少年たちの動きを目で追いながら、ヒロミはぼくにこんな話をしてくれたことがあった。

「ジャズメンって、悲惨な最期を遂げることが多いんですよね。ジョンコルトレーンのように麻薬で死んだり、リーモーガンのように恋人に銃で撃たれて死んだり、アルバートアイラーなんか行方不明になったから四日後、ハドソン川で溺死体で発見されたそうですよ」

 ヒロミはぼくの顔を覗きこんで言う。

「ねえ、先輩殿。そんな死に方をしてしまったジャズメンって、そこで死ぬまでのあいだ、いったい何があったんでしょうね」

 ぼくが黙っていると、ヒロミは言葉を続けた。

「だからわたしはそれまでの物語を、勝手に想像しちゃうんです」

 そしてため息をつきながら、

「ほんとうの物語は永遠に、誰も知ることなんてできないんですけれどね」。

 ヒロミの話を訊きながら、そしてグラウンドで練習している少年たちを見ているうち、ぼくは大好きな寺下龍二の詩物語を思い出した。

「ヒロミ。ぼくが大好きな作家、寺下龍二の詩物語に『そしてもうひとつのピリオド』という話があるんだけど知ってるかな」

 ヒロミは静かに首を振る。

 ぼくは少年野球の練習を目で追いながら、その詩物語の梗概をヒロミに話し始めた。





                           《この物語 続きます》






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