ハグ
潮の香りとは全く違う、いい匂い。
イオの匂い。
今までとはまるで距離感が違う。
少し手を伸ばせば、強引にでもイオを抱ける。
この勢いで「好きだ」と言って抱き寄せたい気持ちで一杯。
けど俺にはあと1歩の勇気がなかった。
そんなことをしたら、嫌われてしまうかもしれない。
ボクシングだったらどんなにいいか。
クリンチし放題なのに……。
何となくイオに俺が女だって勘違いされている気がした。
男として見られていないなんて、ショック。
けど、それを訂正したところでどうなる。俺の頭を過ったのは、2つの結末。
ハッピーエンドとバッドエンド。
めっちゃ好かれるか、めっちゃ嫌われるかのどちらかしかない。
イヤリングが俺の耳元でちゃかちゃかと揺れている。
耳障りではあるが、同時に心地いいとも感じてしまう。
イオと一体となっているような、そんな気持ちになる。
それだけでも幸せなんだって思う。
「そっちは自分でやってみて!」
「こっ、こうかなぁ……」
見様見真似で金具をこじ開け、右の耳に付ける。
上手くいったようで、心地よさがステレオになった。
左の方が少しだけいい音のようにも感じる。
「素敵! とっても似合う」
「そうかなぁ……それはうれしいよ。ははははっ」
本当はちっともうれしくなんかない。
男の俺が女の格好をしたってしかたがない。
それに、イオがもう遠く離れてしまっている。
「間違いないわ。あなた、絶対にべっぴんさんになるわ!」
「はははっ。アノンの表紙とかになれるかなぁ……」
自暴自棄に言った。
アノンというのは、幅広い年齢の女性に愛読されているファッション誌。
我が家ではお母さんもお姉ちゃんも愛読している。
「そうねぇ。そのときは私も一緒がいいな」
「うん。それは最高だね!」
アノンの表紙は3人組との決まりがある。
もう1人が誰であれ、俺は構わない!
この冒険のラストシーンは、俺とイオの抱擁、ハグ!
それを迎える前に、別の冒険はしない。
イオが勘違いしているのなら、それを利用してでもハグがしたい!
女だって思われていたっていい。
太陽がだいぶ高くなってきた。影は黒くて小さくなってきた。
そろそろ帰らないと、妹の怒りがおさまらないだろう。
「明日の海開き、来てほしいな」
唐突に思えるイオのその言葉に、俺はあることを思い出した。
街の人たちが言っていたこと。
超が付くほどの有名人をゲストに迎えての海開き。
その余興で、ゲストと観客の代表が熱いキスをすることになっている。
「海開きのゲストって、イオなの?」
「そう。嫌な仕事だって思ってたわ」
見知らぬ人とキスをするだなんて、たしかに嫌なこと。
俺だったら、死んじゃうかもしれない。
「じゃあ、熱いキスをするっていううわさは本当なの?」
「それはない。ハグに値切ったから……」
言いながらうつむくイオ。
たこ焼きドラマでイオが演じた女の子は、誰彼構わず抱きつく設定だった。
その設定にあやかってのことなんだろう。
落ち込むイオを、励ましてあげたい。
「まだ小学生なんだし、ハグくらいどうってことないだろう!」
「私だって、さっきまではそう思ってたのよ。でも……」
でも? イオは何が言いたいんだろう。
「……でも、あなたと出会ってその考えが変わったのよ」
俺との出会いがイオを変えた? 俺には自覚がない。
「私、ハグするなら、あなたとがいい!」
はいっ、よろこんで!
「よしっ。今直ぐにハグしよう! リードするから」
ハグなら、お姉ちゃんや妹を相手に何度もしている。
イオが相手だって、うまくやってやるさ。
ところが、イオはそれを望んでいなかった。
「何で今なのよ。明日の海開きのときに決まってるでしょう」
「えーっ。もうその気になっちゃったよっ。イオのせいだから」
「ダメったらダメ! 誰も得しないでしょう!」
いやいや、俺得だってーの。
あまりがっつくのも良くない。男だってバレたら嫌われる。
最悪、一生目を合わせてくれなくなるかもしれない。
言葉を選び「練習だよ、練習」と、頭をかく。
「そんなのなしよ!」
「どうしてさ。リハーサルくらい、いいじゃん!」
「企画の意味が変わっちゃうでしょう!」
そこは大人の言うことに忠実なんだ。
イオはストイックだから、そうと決めたらそうなんだろう。
俺は練習は諦めて、明日のことを考えた。
「分かったよ。じゃあ、明日だね」
「そう。明日、私たちは1つになるの」
言葉の響きがたまらない。
「1つになったら、お昼ご飯も一緒だね」
「そうね。お風呂も寝るときも、NG出して叱られるのも一緒」
「それはどうかと思うよ……」
とばっちりで叱られるのは御免こうむりたい。
「えーっ。そこはノリでうんって言ってほしかった」
「いやいや。ノリで1つになるんじゃないだろう」
「そうね。そこはノリじゃないわ…………割と真剣よ」
もう「えっ」っと声を詰まらせるのも何度目だろう。
ちょっと、くやしい。くやしいけど、いい。
「お昼までは真剣だからねっ!」
「分かったよ。明日だね!」
俺はそう言ったあと、イオを見つめた。イオも、俺を見つめた。
ずっとそのまま見つめあっていたいって思った。
======== キ リ ト リ ========
小学生の分際でハグとか!
2人には、見つめ合うだけの幸せを噛み締めてほしい。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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