終幕  孤 剣




 十六夜いざよいの月が天上に掛かっていた。

 深川は冬木町にある、お登勢の家の二階である。肘掛窓ひじかけまどに腰掛け、障子戸のへりに背をもたれながら、兵悟は僅かに開いた雨戸の隙間から、夜空の月を眺めていた。

 その肩に抱くのは妖刀、孤月蒼正比良こげつそうまさひら

 そのまま置き去りにする訳にもいかず、結局は持ち帰って来てしまった。僅か四日前の凄惨な斬り合いが、まるで嘘のように静かな夜であった。

 

 堀田を斬った翌日の昼頃、岡っ引きの源七が兵悟の長屋を訪ねて来た。

 「堀田さまが斬られました。場所は、お美代が殺されたのと同じ稲荷の境内です」

 落ち着き払った態度の兵悟を、源七の目が何か物言いたげに見据えた。

 「下手人は?」

 「何者か分かりません」

 源七が兵悟から視線を外す。その目は傍らに置いた孤月蒼正比良に注がれていた。

 「定廻りの同心の皆さまは、おそらく堀田さまが辻斬りに及ぼうとして、返り討ちに遭ったのではないかと見ています」

 「そうかい」

 兵悟は静かに頷いた。

 「それから堀田さまのお刀がなくなっておりました。おそらくは下手人に持ち去られたものかと」

 黙って端座している兵悟に、源七が再び目を向けた。

 「───妖刀は、再び何処かへ消えてしまいました」

 長屋の前の路地を、花売りが「花はいらんかね」と、のんびりした声を上げながら通り過ぎてゆく。暫しの沈黙の後、源七は「では、これで失礼します」と言って腰を上げた。

 「わざわざ知らせに来てくれて、ありがとうよ。源七の親分」

 「いえ。・・・・・ところで犬廻さま、腰の差し物を変えられましたか?」

 兵悟は刀を引き寄せ、自分の膝の上に置いた。

 「ああ。友人から預かった大事な刀さ」

 「・・・・・そうですか」

 源七はそれ以上何も言わず、黙って頭を下げて帰って行った。堀田を斬った下手人が捕まることはないだろう。

 

 兵悟はそれから長屋を出ると、お美代と親父の墓を参って手を合わせ、仇を討ったことを報告した。寄り添うような小さな二つの墓石を、穏やかな陽光が照らしている。二人があの世でどんな顔をしてくれるか分からないが、せめてもの手向けになればと願った。

 その後、お美代が死んでから寝込んだままだった喜助の長屋を訪ね、同じく仇を討ったことを伝えた。

 喜助は畳に手を付いて兵悟に礼を述べると、涙を流しながらこう言った。

 「俺もいつまでもこうしちゃいられねぇ。お美代と親父さんの分も頑張って生きて、きっと腕の良い大工になってみせます」

 「それが良い。きっと二人も喜ぶぜ」

 喜助は元々気骨のある若者である。遠からず立ち直ってくれるだろうと、兵悟は思った。

 

 

 ───耳鳴りがした。

 刃のように鋭利な響きが、頭蓋の奥でこだまする。斬れ、斬れ、と唆すように。兵悟は耳を抑えて暫く耐えた後、おもむろに刀の鞘を掴んで目の前に翳した。

 「・・・・・誰を斬るかは俺が決める。刀が指図をするんじゃねぇ」

 耳鳴りの苦痛に耐えながら、鞘を握る手に力を込めた。暫く睨んでいると、やがてあれほどうるさかった耳鳴りが、まるで引き潮の如く静かに去ってゆく。この孤月蒼正比良を手にしてから、こんな事がたびたび起きていた。耳鳴りに呼応するかのように湧き上がる衝動を抑えるたびに、尋常ではない疲労感が全身を包んだ。

 ほっと息を吐くと、部屋の真ん中に敷いた布団の中で、もぞもぞと動く気配がした。

 長襦袢ながじゅばん姿のお登勢が、はだけた胸の前を掻き袷せながら上体を起こす。

 「なんだい、こんな夜更けに窓なんか開けて。寒いじゃないか」

 「すまねぇ、起こしちまったか」

 お登勢が寝ぼけまなこで小さく欠伸あくびをした。

 「何してるんだい、お前さん」

 「いや、月が綺麗なもんでな。暫く眺めてたのさ」

 兵悟の返答に、お登勢が小さく吹き出した。

 「あんたにそんな風流な趣味があったとはね。明日は大雪になるよ」

 「ちげえねぇ」

 兵悟もつられて笑う。と、お登勢が枕元に置いてあった、小さな白い包みに気付いた。

 「何だい、これ?」

 「開けてみな」

 包みを開けたお登勢が、いっぺんに眠気の覚めた顔を兵悟に向けた。

 「───お前さん。どうしたんだい、このお金?」

 「十両ある。支度金したくきんとして貰ったのよ」

 「支度金? どういうことだい?」

 兵悟は再び、月を見上げた。

 「浪士組っていってな。京へ行って、将軍ダンナの用心棒をやるのさ」

 文久三年二月四日のこの日、小石川の伝通院内にある処静院大信寮しょじょういんだいしんりょうにて、浪士組の選考と決起集会が行われた。

 幕府の当初の目論見では、参加者はせいぜい五十人程度と予想していたが、給金五十両を目当てにその数倍の三百人以上が集まった。ほとんどが貧しい浪人者で、その中身は玉石混淆ぎょくせきこんこうである。博識の者もいれば己の姓名すら書けぬ者があり、手練れの剣客もいれば竹刀の持ちようも知らぬ者もいる。なかには子分を二十人以上も引き連れた博徒の親分までいて、そんな面子であるから、当然ながら兇状持きょうじょうもちも多く混ざっていた。浪士組参加者には過去の罪を不問とする旨が、その特典として示されていたからである。

 「ところが、あんまり人が多く集まり過ぎたもんだから幕府も驚いたんだろう。金が足りねぇってんで、五十両を十両に値切りやがった。それで約束が違うって、怒って帰っちまった奴も多かったよ」

 結局、兵悟も含め、残った二三四名が正式に浪士組として採用された。

 日野で知り合った土方ひじかたという薬屋とも、そこで再会した。大将の近藤勇こんどういさみと名乗る男を始め、土方の仲間である試衛館の面々は、一癖も二癖もありそうな連中ばかりであった。

 「そんなこと、今まで一言も話さなかったじゃないか」

 「決めたのはついこの前だからな。黙ってたのは悪かったよ」

 兵悟が気まずそうに頭を掻く。お登勢が手元の十両をじっと見つめた。

 「・・・・・で、この金は手切れ金って訳かい?」

 「・・・・・すまねぇな」

 お登勢がいきなり、金を畳の上に放り投げた。

 「莫迦ばかにするんじゃないよ。こんな金貰って誰が喜ぶってんだい。だいたいこれはお上から頂いた支度金だろ!」

 「支度っても、せいぜい草鞋わらじや下帯の代えぐらいだし、別に持ってくもんなんか何もねぇよ。途中の宿や飯代は全部向こう持ちだ。京に行きゃあ、それとは別に給金も出るだろうぜ」

 「へぇ、要らない金だからあたしにくれるってかい? ありがたくて涙が出て来るね。舐めるんじゃないよ。こんな端金はしたがね、誰がいるもんかい!」

 ひとしきり兵悟をなじった後、お登勢は肩を落とし大きな溜め息を付いた。

 「・・・・・だいたい何で京なんだい? 今あそこじゃあ不逞浪士が大勢いて、天誅とか言って人を斬りまくってるって話じゃないか。そんなとこ行ったら命が幾つあっても足りゃしないよ」

 「死んだ友達に頼まれたからな。俺は用心棒だ。一度引き受けた以上、後戻りは出来ねぇ」

 「・・・・・莫迦だねぇ。本当に莫迦な男だよ」

 それきりお登勢は押し黙った。兵悟も何も言えず、再び夜空の月を見上げる。悄然と項垂れるお登勢を見るのは忍びなかった。

 暫しの沈黙の後、目元をそっと袖で拭って、お登勢がようやく口を開いた。

 「最初から分かってたさ。どうせいつか居なくなるってね。しょせんは根無し草の風来坊だもの。堅気の男みたいに一処ひとところに繋ぎ留めるなんて、土台無理な相談だったのさ」

 「・・・・・すまねぇ」

 なんと声を掛けるべきか分からず、兵悟はもう一度、お登勢に謝った。

 「で、京にはいつ出立するんだい?」

 「二月八日だ」

 「───八日? あと四日しかないじゃないか!」

 お登勢はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて何かを決心したように背筋を伸ばした。

 「よし、決めた。出立までの間に、あたしがその金で立派に支度してやるよ」

 「は? 別にいらねぇよ。物見遊山に行く訳じゃねぇんだぜ」

 「まったく、あんたは本当に莫迦だねぇ。まさかいつもの着流しで行くつもりかい?」

 普段の調子を取り戻したお登勢は、戸惑う兵悟の抗弁を突っぱねた。

 「上様の用心棒をやるんだろ? 立派な仕事じゃないか。そんな大事なお役目に行くのに、自分の情夫おとこがみすぼらしい格好してるなんざ、あたしゃ御免だね。その金使って、あたしがあんたを誰にも負けない立派な武士もののふに仕立ててやるよ」

 お登勢は一度言い出したら聞かない女だ。勢いに押され、兵悟は軽く頭を振って苦笑した。

 「やっぱり、おめぇにゃ敵わねぇな」

 お登勢はさっぱりした様子で笑うと、布団の中に潜り込んだ。

 「さぁ、そうと決まったらあたしは寝るよ。明日も稽古があるんだ。いつまでもそんな寒い処にいないで、あんたもさっさと寝ちまいな。風邪引いても看病なんかしてやらないからね!」

 

 それから暫くして、微かな寝息が布団から聞こえて来た。兵悟は微笑すると、肘掛窓に腰掛けたまま、再び外に顔を向ける。何故かまだ眠りたくはなかった。

 支度はお登勢に任せるとして、出立する前に方々挨拶に回らねばなるまい。こんな根無し草でも、江戸で世話になった者は大勢いる。そう思うと、柄にもなくふと江戸を離れるのが寂しくなった。

 

 竹光浪人の坂下盛右衛門には、伝通院での浪士組決起集会が終わってから会いに行った。富岡八幡宮で別れた際の言葉通り、彼は熊井町にある正源寺のお堂を借りて、子供たちを相手に寺子屋をしていた。

 さぞ生意気な悪童わるがきどもに苦労しているかと思いきや、子供らは皆おとなしく盛右衛門の講釈に耳を傾けていた。盛右衛門の寺子屋の師匠ぶりもなかなか堂に入ったもので、これが人徳というやつかと、兵悟は妙に感心した。

 兵悟が浪士組に入って京に上ることを伝えると、盛右衛門はたいそう喜んでくれた。

 「そうか。それは立派なお役目じゃの。しっかり勤めを果たしてくれ。だがせっかく会いに来てくれたのに、もうお別れとは寂しい限りじゃ」

 「役目が終わったらまた帰って来るさ。俺には江戸の水が一番合ってる気がするしな」

 二人はお堂の上がり口に並んで腰掛けた。寺の境内で遊ぶ子供らの耳に入らぬよう、兵悟は辺りを窺いつつ声を潜める。

 「───ところで辻斬りの件だが」

 「うむ」

 「つい先日の夜、俺が下手人を斬った」

 盛右衛門は小さく頷いた。

 「知り合いの娘とやらの仇討ちを果たしたか」

 「だがそれと同時に、俺は友達を亡くしちまった」

 「そうか。残念じゃったの」

 「うん」

 暫し沈黙が降りた。二月四日の空は晴れて明るかった。寒さもずいぶん和らいで、春の気配が日一日と濃くなってゆく。

 「あんたの教えがなかったら、死んでたのは俺の方だった。礼を言うぜ」

 「なに、儂のお陰ではない。それもまた、因縁さだめというやつよ」

 盛右衛門が、兵悟の肩に抱いた刀に目を向けた。

 「で、それが例の妖刀というやつかの」

 「やっぱり分かるかい?」

 「うむ、えらく禍々しい気配を纏っておるのう」

 盛右衛門の兵悟にむける目が、いつになく鋭かった。

 「それがおぬしの手元に来たのも、また何がしかの因縁かも知れん。しかし老婆心ながら言うておくが、決して人斬りの外道にだけは堕ちてくれるなよ」

 「分かってるよ。自分だけは大丈夫なんて言うつもりはねぇが、せいぜい気を付けるさ」

 兵悟は刀の鞘を、ぽんと叩いてみせた。

 「それで坂下の旦那、一つ頼みがあるんだが・・・・・」

 「なんじゃ、言うてみい」

 「もしも江戸に帰って来て、俺が人斬りの外道に堕ちていたら、そのときはあんたが俺を斬ってくれ」

 少し間があった後、盛右衛門が静かに頷いた。

 「───よかろう。承知した」


 

 どこかで鳥の鳴く声が鋭く響いて、兵悟はふと我に返った。仕舞屋造しもたやつくりのお登勢の家の二階である。蒼い月が煌々と辺りを照らしている。

 兵悟は、刀を静かに抜き放った。孤月蒼正比良。月明かりを写し取ったようだと謂われた蒼い刀身が、絶えざる月光を浴びて妖しく輝いている。

 

 ───お前は俺だ、と声に出さず呟いた。


 あまねく天下に棲処すみかなく、己以外に頼るものとてなく、この先の行方も分からない。一振りの剣として、それ以外の何ものにも成れず、それ以外の何ものをも望まず、血と暴力の匂いと共に此処まで生きて来た。そしてこれからもそうだろう。

 

 ───斬るために生まれた。斬らずして何が刀か。

 

 堀田の声が耳奥で甦る。

 何のために何を斬るか。その正誤だけは外すまい。決して人斬りの外道にはだけは堕ちないと誓った。

 それでもいつか剣は折れ、命は尽きるだろう。だがそれで良いのだ。

 この先、時代はきっと大きく変わる。徳川の世も決して長くは続くまい。万物は流転する。永劫のものなど何もない。

 

 ───我は孤剣なり。どんな時代が訪れようとも、ただ一振りの剣として行く手を斬り拓き、剣として滅びる。それだけが、己が己でいられる唯一の道だった。

 

 微かな耳鳴りがする。それは先刻までの、刃で斬り付けるような不快な響きではなく、池の水面に広がる月光の波紋にも似た、静かで透明な音色のようであった。

 孤月蒼正比良が、やっと相応しい遣い手に巡り会えたと言っているようにも思える。

 

 「まぁ、行ける処まで行ってみるさ」


 ───刀に向かってそう呟くと、月明かりに翳した蒼い刀身がぬらりと光った。



                 (完)



 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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