終幕 孤 剣
深川は冬木町にある、お登勢の家の二階である。
その肩に抱くのは妖刀、
そのまま置き去りにする訳にもいかず、結局は持ち帰って来てしまった。僅か四日前の凄惨な斬り合いが、まるで嘘のように静かな夜であった。
堀田を斬った翌日の昼頃、岡っ引きの源七が兵悟の長屋を訪ねて来た。
「堀田さまが斬られました。場所は、お美代が殺されたのと同じ稲荷の境内です」
落ち着き払った態度の兵悟を、源七の目が何か物言いたげに見据えた。
「下手人は?」
「何者か分かりません」
源七が兵悟から視線を外す。その目は傍らに置いた孤月蒼正比良に注がれていた。
「定廻りの同心の皆さまは、おそらく堀田さまが辻斬りに及ぼうとして、返り討ちに遭ったのではないかと見ています」
「そうかい」
兵悟は静かに頷いた。
「それから堀田さまのお刀がなくなっておりました。おそらくは下手人に持ち去られたものかと」
黙って端座している兵悟に、源七が再び目を向けた。
「───妖刀は、再び何処かへ消えてしまいました」
長屋の前の路地を、花売りが「花はいらんかね」と、のんびりした声を上げながら通り過ぎてゆく。暫しの沈黙の後、源七は「では、これで失礼します」と言って腰を上げた。
「わざわざ知らせに来てくれて、ありがとうよ。源七の親分」
「いえ。・・・・・ところで犬廻さま、腰の差し物を変えられましたか?」
兵悟は刀を引き寄せ、自分の膝の上に置いた。
「ああ。友人から預かった大事な刀さ」
「・・・・・そうですか」
源七はそれ以上何も言わず、黙って頭を下げて帰って行った。堀田を斬った下手人が捕まることはないだろう。
兵悟はそれから長屋を出ると、お美代と親父の墓を参って手を合わせ、仇を討ったことを報告した。寄り添うような小さな二つの墓石を、穏やかな陽光が照らしている。二人があの世でどんな顔をしてくれるか分からないが、せめてもの手向けになればと願った。
その後、お美代が死んでから寝込んだままだった喜助の長屋を訪ね、同じく仇を討ったことを伝えた。
喜助は畳に手を付いて兵悟に礼を述べると、涙を流しながらこう言った。
「俺もいつまでもこうしちゃいられねぇ。お美代と親父さんの分も頑張って生きて、きっと腕の良い大工になってみせます」
「それが良い。きっと二人も喜ぶぜ」
喜助は元々気骨のある若者である。遠からず立ち直ってくれるだろうと、兵悟は思った。
───耳鳴りがした。
刃のように鋭利な響きが、頭蓋の奥でこだまする。斬れ、斬れ、と唆すように。兵悟は耳を抑えて暫く耐えた後、おもむろに刀の鞘を掴んで目の前に翳した。
「・・・・・誰を斬るかは俺が決める。刀が指図をするんじゃねぇ」
耳鳴りの苦痛に耐えながら、鞘を握る手に力を込めた。暫く睨んでいると、やがてあれほどうるさかった耳鳴りが、まるで引き潮の如く静かに去ってゆく。この孤月蒼正比良を手にしてから、こんな事がたびたび起きていた。耳鳴りに呼応するかのように湧き上がる衝動を抑えるたびに、尋常ではない疲労感が全身を包んだ。
ほっと息を吐くと、部屋の真ん中に敷いた布団の中で、もぞもぞと動く気配がした。
「なんだい、こんな夜更けに窓なんか開けて。寒いじゃないか」
「すまねぇ、起こしちまったか」
お登勢が寝ぼけ
「何してるんだい、お前さん」
「いや、月が綺麗なもんでな。暫く眺めてたのさ」
兵悟の返答に、お登勢が小さく吹き出した。
「あんたにそんな風流な趣味があったとはね。明日は大雪になるよ」
「
兵悟もつられて笑う。と、お登勢が枕元に置いてあった、小さな白い包みに気付いた。
「何だい、これ?」
「開けてみな」
包みを開けたお登勢が、いっぺんに眠気の覚めた顔を兵悟に向けた。
「───お前さん。どうしたんだい、このお金?」
「十両ある。
「支度金? どういうことだい?」
兵悟は再び、月を見上げた。
「浪士組っていってな。京へ行って、
文久三年二月四日のこの日、小石川の伝通院内にある
幕府の当初の目論見では、参加者はせいぜい五十人程度と予想していたが、給金五十両を目当てにその数倍の三百人以上が集まった。ほとんどが貧しい浪人者で、その中身は
「ところが、あんまり人が多く集まり過ぎたもんだから幕府も驚いたんだろう。金が足りねぇってんで、五十両を十両に値切りやがった。それで約束が違うって、怒って帰っちまった奴も多かったよ」
結局、兵悟も含め、残った二三四名が正式に浪士組として採用された。
日野で知り合った
「そんなこと、今まで一言も話さなかったじゃないか」
「決めたのはついこの前だからな。黙ってたのは悪かったよ」
兵悟が気まずそうに頭を掻く。お登勢が手元の十両をじっと見つめた。
「・・・・・で、この金は手切れ金って訳かい?」
「・・・・・すまねぇな」
お登勢がいきなり、金を畳の上に放り投げた。
「
「支度っても、せいぜい
「へぇ、要らない金だからあたしにくれるってかい? ありがたくて涙が出て来るね。舐めるんじゃないよ。こんな
ひとしきり兵悟を
「・・・・・だいたい何で京なんだい? 今あそこじゃあ不逞浪士が大勢いて、天誅とか言って人を斬りまくってるって話じゃないか。そんなとこ行ったら命が幾つあっても足りゃしないよ」
「死んだ友達に頼まれたからな。俺は用心棒だ。一度引き受けた以上、後戻りは出来ねぇ」
「・・・・・莫迦だねぇ。本当に莫迦な男だよ」
それきりお登勢は押し黙った。兵悟も何も言えず、再び夜空の月を見上げる。悄然と項垂れるお登勢を見るのは忍びなかった。
暫しの沈黙の後、目元をそっと袖で拭って、お登勢がようやく口を開いた。
「最初から分かってたさ。どうせいつか居なくなるってね。しょせんは根無し草の風来坊だもの。堅気の男みたいに
「・・・・・すまねぇ」
なんと声を掛けるべきか分からず、兵悟はもう一度、お登勢に謝った。
「で、京にはいつ出立するんだい?」
「二月八日だ」
「───八日? あと四日しかないじゃないか!」
お登勢はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて何かを決心したように背筋を伸ばした。
「よし、決めた。出立までの間に、あたしがその金で立派に支度してやるよ」
「は? 別にいらねぇよ。物見遊山に行く訳じゃねぇんだぜ」
「まったく、あんたは本当に莫迦だねぇ。まさかいつもの着流しで行くつもりかい?」
普段の調子を取り戻したお登勢は、戸惑う兵悟の抗弁を突っぱねた。
「上様の用心棒をやるんだろ? 立派な仕事じゃないか。そんな大事なお役目に行くのに、自分の
お登勢は一度言い出したら聞かない女だ。勢いに押され、兵悟は軽く頭を振って苦笑した。
「やっぱり、おめぇにゃ敵わねぇな」
お登勢はさっぱりした様子で笑うと、布団の中に潜り込んだ。
「さぁ、そうと決まったらあたしは寝るよ。明日も稽古があるんだ。いつまでもそんな寒い処にいないで、あんたもさっさと寝ちまいな。風邪引いても看病なんかしてやらないからね!」
それから暫くして、微かな寝息が布団から聞こえて来た。兵悟は微笑すると、肘掛窓に腰掛けたまま、再び外に顔を向ける。何故かまだ眠りたくはなかった。
支度はお登勢に任せるとして、出立する前に方々挨拶に回らねばなるまい。こんな根無し草でも、江戸で世話になった者は大勢いる。そう思うと、柄にもなくふと江戸を離れるのが寂しくなった。
竹光浪人の坂下盛右衛門には、伝通院での浪士組決起集会が終わってから会いに行った。富岡八幡宮で別れた際の言葉通り、彼は熊井町にある正源寺のお堂を借りて、子供たちを相手に寺子屋をしていた。
さぞ生意気な
兵悟が浪士組に入って京に上ることを伝えると、盛右衛門はたいそう喜んでくれた。
「そうか。それは立派なお役目じゃの。しっかり勤めを果たしてくれ。だがせっかく会いに来てくれたのに、もうお別れとは寂しい限りじゃ」
「役目が終わったらまた帰って来るさ。俺には江戸の水が一番合ってる気がするしな」
二人はお堂の上がり口に並んで腰掛けた。寺の境内で遊ぶ子供らの耳に入らぬよう、兵悟は辺りを窺いつつ声を潜める。
「───ところで辻斬りの件だが」
「うむ」
「つい先日の夜、俺が下手人を斬った」
盛右衛門は小さく頷いた。
「知り合いの娘とやらの仇討ちを果たしたか」
「だがそれと同時に、俺は友達を亡くしちまった」
「そうか。残念じゃったの」
「うん」
暫し沈黙が降りた。二月四日の空は晴れて明るかった。寒さもずいぶん和らいで、春の気配が日一日と濃くなってゆく。
「あんたの教えがなかったら、死んでたのは俺の方だった。礼を言うぜ」
「なに、儂のお陰ではない。それもまた、
盛右衛門が、兵悟の肩に抱いた刀に目を向けた。
「で、それが例の妖刀というやつかの」
「やっぱり分かるかい?」
「うむ、えらく禍々しい気配を纏っておるのう」
盛右衛門の兵悟にむける目が、いつになく鋭かった。
「それがおぬしの手元に来たのも、また何がしかの因縁かも知れん。しかし老婆心ながら言うておくが、決して人斬りの外道にだけは堕ちてくれるなよ」
「分かってるよ。自分だけは大丈夫なんて言うつもりはねぇが、せいぜい気を付けるさ」
兵悟は刀の鞘を、ぽんと叩いてみせた。
「それで坂下の旦那、一つ頼みがあるんだが・・・・・」
「なんじゃ、言うてみい」
「もしも江戸に帰って来て、俺が人斬りの外道に堕ちていたら、そのときはあんたが俺を斬ってくれ」
少し間があった後、盛右衛門が静かに頷いた。
「───よかろう。承知した」
どこかで鳥の鳴く声が鋭く響いて、兵悟はふと我に返った。
兵悟は、刀を静かに抜き放った。孤月蒼正比良。月明かりを写し取ったようだと謂われた蒼い刀身が、絶えざる月光を浴びて妖しく輝いている。
───お前は俺だ、と声に出さず呟いた。
───斬るために生まれた。斬らずして何が刀か。
堀田の声が耳奥で甦る。
何のために何を斬るか。その正誤だけは外すまい。決して人斬りの外道にはだけは堕ちないと誓った。
それでもいつか剣は折れ、命は尽きるだろう。だがそれで良いのだ。
この先、時代はきっと大きく変わる。徳川の世も決して長くは続くまい。万物は流転する。永劫のものなど何もない。
───我は孤剣なり。どんな時代が訪れようとも、ただ一振りの剣として行く手を斬り拓き、剣として滅びる。それだけが、己が己でいられる唯一の道だった。
微かな耳鳴りがする。それは先刻までの、刃で斬り付けるような不快な響きではなく、池の水面に広がる月光の波紋にも似た、静かで透明な音色のようであった。
孤月蒼正比良が、やっと相応しい遣い手に巡り会えたと言っているようにも思える。
「まぁ、行ける処まで行ってみるさ」
───刀に向かってそう呟くと、月明かりに翳した蒼い刀身がぬらりと光った。
(完)
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