第九幕 死 闘




 風のない夜だった。辺りはしんと静まり返って葉の擦れる音すら聞こえず、蒼い月だけが対峙する二人の男の行方を照らしている。

 堀田は刀を真っ直ぐ正眼に構えたまま動かない。兵悟の出方を窺っているのであろう。

 「───上等!」

 口の中でそう呟くと、兵悟は相手の狙いが定まらないよう身体を左右に振りつつ、足早に間合いを詰めた。切っ先が届く寸前の間合いで身をひるがえし、左側面から堀田の頭部に向けて、刀を一気に振り下ろす。

 鋼と鋼が激しくぶつかり合う音がした。兵悟の攻撃を堀田が凌いだのだ。

 間髪を入れず、兵悟は胴を狙って刀を真一文字に薙ぐ。これは紙一重でかわされた。さらに踏み込んで袈裟懸けの一撃。それを堀田が正面から受け止め、鍔迫り合いになった。

 体格通りの剛力である。兵悟がいくら押しても堀田の身体はびくともしない。兵悟は舌打ちすると、追撃に注意しながら後ろに跳んで下がった。仕切り直しである。

 「・・・・・やっぱ強えぇな」

 白兵戦は体格の差が、そのまま優劣の差に影響する。技術の向上はもちろん大切だが、それを補って余りあるのが体格差という現実だ。

 堀田は上背も身体の厚みも、兵悟の一回り以上は大きい。まるでいわおのような男だ。身軽さを活かした攻撃で一気呵成いっきかせい決着ケリを着けたかったが、さすがに北辰一刀流の免許皆伝は甘くなかった。

 

 「・・・さて、どうするかな」

 刀をだらりと下げて様子を窺いつつ、兵悟は攻め手を迷った。正眼に構えた堀田はどこにも付け入る隙がない。生来の剣の天分に加え、昼夜を問わず鍛錬を欠かさない証だ。対峙しているだけで、その強さが否応なく伝わって来る。

 

 ───それに、あの刀。

 

 孤月蒼正比良こげつそうまさひら。その名の通り蒼い刀身からは、何やら禍々しい殺気が放たれ、それは夜気を伝わって兵悟の全身の毛を逆立てた。こうして剣先を向けられているだけで、まるで命が削り取られてゆくような思いがする。

 「・・・・・こりゃあ、本当に死ぬかも知れねぇな」

 心の中で、そう皮肉っぽく笑った。

 

 「どうした犬廻、先ほどの攻撃で終わりか?」

 堀田が口の端を僅かに吊り上げた。

 「では、次はこちらから参る」

 構えが上段に変化した。ジリ、ジリ、と間合いを詰めて来る。兵悟の首筋を嫌な汗が流れた。

 獣の咆哮かと見紛うような、野太い気合いの掛け声と共に襲い掛かって来たのは、津波の如き太刀筋だった。

 一瞬、斬られたと思った。切っ先は兵悟の鼻先を紙一重で真一文字に通り過ぎる。辛うじて躱すことが出来たのは奇跡に近い。だが安心する間もなく、二の太刀が下から逆袈裟に襲い掛かる。咄嗟に刀を盾にして防いだが、凄まじい衝撃に兵悟は二間近くも後ろに吹っ飛ばされた。

 兵悟は着地すると同時にしゃがみ込み、地面の土を掴んだ。迫り来る堀田の顔に目掛けて投げ付ける。目潰しを防ぐために堀田が片手で顔を庇い、その足が止まった。

 兵悟が跳躍した。刀を上段に振り上げ、一気に躍り掛かる。堀田の首筋を確実に捉えたと思った太刀筋は、しかし寸前で孤月蒼正比良によって防がれた。だが衝撃までは防ぎ切れなかったようで、さすがの堀田もたたらを踏んで後ろへ下がる。

 「ちっ、あれを防ぐか」

 次の攻撃を仕掛ける隙がないのは流石と言うべきか。堀田は顔に付いた土を払うと、愉快そうな表情を兵悟に向けた。

 「しゃらくさい真似をする。だが面白い。お上品な道場剣法では絶対に見られない技だ」

 「俺のは喧嘩剣法だからな。卑怯とは言ってくれるなよ」

 「卑怯? ふん、殺し合いに卑怯もへったくれもあるまい」

 堀田が余裕の笑みを浮かべた。この斬り合いを楽しむかのようだ。

 「堀田さん、まるで人が変わったな」

 「変わったのではない。これが本来の俺だ。妖刀など切っ掛けに過ぎぬ。大平の世で生き腐れるのを恐れながら、心のどこかで乱世が来るのを待ち望んでいたのだ」

 堀田の一人称がいつの間にか「拙者」から「俺」に変わっていた。

 「へぇ、じゃあ望み通りの世の中になって来たじゃねぇか」

 兵悟の皮肉に、堀田が声を上げて嗤う。

 「その通りだ。黒船来航以来の世情の乱れを見るがいい。どうせ人斬りの時代が来る。いや、すでに来ている」

 堀田が目の前に孤月蒼正比良を翳した。刀身が蒼い鬼火を纏うようにゆらりと揺れた。

 「この刀に出会って、俺はようやく己のまことを知った。一度で良いから己を枷から解き放ち、思う存分に剣を振るってみたかったのだ。───おぬしが敵手であることに礼を言うぞ、犬廻!」

 その表情はかつてないほどに晴れ晴れとしている。

 「いま、俺こそが一振りの剣だ。行く手を阻む者は誰であろうと斬り捨てる」

 「・・・・・ふん、まさに剣鬼けんきだな。厄介だぜ」


 僅かに風がそよいだ。流れる雲が月明かりを隠す。

 じっと対峙したまま、堀田が肩口に刀を真っ直ぐに立て、右八相みぎはっそうに構えた。兵悟は刀を下げると共に右足を大きく引き、右車みぎぐるまの構えを取る。

 雲が流れ、月が再び姿を現した。堀田の手にする弧月蒼正比良が、蒼く透明な光線を浴びて妖しく煌めく。

 それが合図であったかのように、互いが間合いに踏み込んだ。両者の太刀筋は空を斬ったが、同時に繰り出した二の太刀で正面からぶつかり合う。斬撃の跳ね返る音が響いて、鍔迫り合いになる。

 堀田が咆哮し、兵悟が叫んだ。突き、斬り下ろし、斬り上げ、薙ぎ払う。刀が振るわれるたび鋭い音が空を斬り、刃が交叉するたび火花が散った。殺意を込めて斬り合うたびに、己が人であることを忘れた。ここにいるのは二匹の獣であった。どちらかの喉を喰い破らない限り、この死闘は終わらないのだ。

 死力を尽くした斬撃の応酬の果てに、三度みたび、間合いを挟んで二人は対峙した。どちらも全身が汗にまみれ、肩で大きく息をしていた。

 勝負は互角に思えたが、兵悟がじわじわと後退させられている。堀田の気力と体力が先に尽きることはあり得ない。いずれ追い詰められるのは時間の問題だろう。

 一か八か。勝負に出るしかないと思った。

 

 兵悟は大きく息を吐いて呼吸を整えると、静かに刀を鞘に納めた。体勢を低くして左足を後ろに引き、鯉口を切る。右手は柄の上に添えるように置いた。

 「・・・・・ほう、抜刀術か」

 堀田が感心したように呟く。

 兵悟が昔から最も得意とするのが抜刀術であった。剣速の速さなら誰にも引けを取らない自信がある。恐るべき強敵を前にして、もはやこれに賭けるしか道はなかった。

 「良いだろう。来い!」

 堀田が刀を再び上段に構えた。胴はがら空きである。兵悟の攻撃を誘っているのは明らかだった。

 兵悟は鼻から息を吸うと、口から細く長く吐いて気を静めた。やがて身体の内側がしんと静まり返った。聴覚が異様に研ぎ澄まされる。今なら針が落ちる音すら聞こえるだろう。

 意識は堀田の正中線を捉えようと集中している。間合いをたがわず、拍子をあやまたず、ただほんの刹那に全てを賭けて刀を抜かねばならない。

 水戸にいた頃、剣の師に「剣の速さとは何か」と訊ねたことがある。

 「月の夜に襖を開けると、月明かりがすっと射し込む。その速さだ」と師は答えた。

 そのような早業が人間に可能なのか。だがその高みを目指して、今まで鍛錬を積み重ねて来たのだ。

 「───やってみせるさ」

 兵悟は間合いをジリジリと少しずつ刻むように詰めた。堀田はほんの僅かも動かない。こちらも全身全霊を賭けて、兵悟の剣を打ち破ろうと待ち構えている。

 

 どこかで鳥の羽ばたく音がした。

 勝機は一瞬。捉えたと思った。踏み込みつつ刀を鞘走らせる。その刹那、堀田が稲妻の如き太刀筋を振り下ろした。

 何事が起きたのか分からなかった。確実に斬ったはずだった。しかし堀田は目の前に平然と立ち尽くしている。首筋にヒヤリと殺気を感じた。その凶刃をどうやって逃れたか。咄嗟に地面を転がって、兵悟は堀田から距離を取った。

 自分の右手に握った刀を見て、兵悟は愕然とする。水戸にいた頃からの愛刀、勝村徳勝かつむらのりかつが、鍔元から僅か三寸ほどを残して切断されていた。

 「・・・・・莫迦ばかな」

 目の前の現実が信じられず、兵悟は呻いた。

 勝村徳勝は“水戸の実戦刀”とも呼ばれ、様々な荒試しを経て水戸藩に正式採用された剛刀である。桜田門外の襲撃に使われたのもこの刀だ。それがこんなにも容易く折られようとは。

 しかも堀田は兵悟が抜き放つ瞬間を狙って斬り下ろし、その刀を両断したのだ。凄まじい剣技であった。あるいは孤月蒼正比良という妖刀なればこそ、そんな技が可能だったのか。

 兵悟は悔しさに歯噛みしつつ、堀田を睨んだ。堀田は勝ち誇った様子もなく、静かに兵悟を見据えている。その片手に閃く孤月蒼正比良が、蒼白い燐光を放って己の死を告げているかのようであった。

 「・・・・・勝負あったな、犬廻」


 兵悟は大きく息を吐いた。刀を折られてはもはや勝ち目はない。せめて脇差わきざしがあればと思ったが、今さら言っても詮無いことだった。

 心臓が早鐘のように鳴っている。ここで死ぬのか。そう思うと目の前の風景がぐにゃりと揺れた。“己の死”という現実が、例えようもない程の実感を伴って、全身に重くのし掛かって来る。

 頭の隅で微かに「命乞いをしようか」という考えが閃いた。堀田は友人である。真剣に頼めば見逃してくれるかも知れない。だがその一方で、そんな恥知らずな真似が出来るかという声がする。生死の境で揺れる感情に、兵悟はまるで身動きが取れなかった。

 用心棒稼業に身を置いて十年、今まで数え切れないほどの修羅場を潜り抜けて来た。死などとっくに覚悟しているつもりだった。それが現実の死を前にして、こうも無様に揺れ動くのか。

 何が「いつ野垂れ死んでも文句はない」だと、土壇場での己の不甲斐なさが腹立だしく、情けなかった。

 

 ───人にはそれぞれ天に与えられた寿命がある。いつ生まれ、いつ死ぬか、己一人では決めることの出来ない因縁さだめというやつよ。

 

 ふと、あの竹光浪人、坂下盛右衛門の言葉を思い出した。

 「・・・・・俺の天命も此処までか」

 絶望と共にそう思ったとき、小刻みに震える右手に掴んだ刀が目に入った。

 鍔元から刀身を僅かに残して寸断された愛刀。もはや何の役にも立たないそれを、なぜ俺はこんなにも必死で握り締めているのか。

 そう思ったとき、ふいに己の生に対するみじめなほどの執着心が可笑しくなった。腹の底から少しずつ、自然に笑いが込み上げて来る。

 堪えきれずに天を仰ぎ、兵悟はそのまま大声を上げて笑った。死を恐れ、こんなものに縋り付いている己の卑小さが滑稽でならなかった。


 ───天命とは人間が心配すべきことではない。生きる因縁があるならば、飛んでも跳ねても生きられるように事が運んでゆく。反対に生きる因縁が尽きれば、どんなに健康であっても頓死する。どんなに用心深くても死が追い付く。


 ───死を恐れないのではない。天命を受け入れるのだ。


 ───天命は決まっている。だがそれでも人は自由なのだ。


 盛右衛門の言葉が次々と脳裏に甦った。兵悟は天を仰いで笑いながら、「そうか。そういうことだったか」と独りごちた。


 ───死すべきときは死す定め。生きるならそれも定め。しょせん人の身で天の意思など謀れぬのだ。それは全て天に任せて大きく息をして、つまらぬ憂愁から己を解き放て。さすれば剣もまた闊達自在。それすなわち自由の道というものよ。


 ひとしきり笑って、ふうと息を吐いた。天上の月が、地上を蒼く照らしている。ただ静かであった。天地はこんなにも果てがなく、己はこれほどまでに小さい。そう思うと己一人の力量だけで、何事かを成し遂げようとするのが酷く傲慢に思えた。

 

 ───我々は等しく何か大きなもののなかに抱かれておるのだ。そう考えれば己の生き死を越えて、安心してそのとき成すべきことが出来るようには思えぬかの?

 

 いつの間にか肩の力が抜け、全身の緊張が解けていた。生死の狭間の迷いも惑いも、とうに霧散している。

 視線を前方に向けると、堀田が毒気を抜かれたような表情で立ち尽くしていた。いきなり笑い出した兵悟を見て、呆気に取られたのであろう。

 「・・・・・気でも狂ったか、犬廻。いったい何がそんなに可笑しい?」

 堀田が僅かに苛立った表情を見せた。兵悟は微笑したまま首を振る。

 「いや、己の莫迦さ加減につい呆れちまったのさ。士道不覚悟は俺の方だったぜ」

 堀田がいぶかしげに首を傾げる。無理もあるまい。己自身ですら正気の沙汰とは思えぬ。

 視界がやけに広かった。何かとても窮屈な檻から一気に解き放たれた気がする。

 月明かりの微細な煌めきも、雲の流れる気配も、風が通り過ぎて草の揺れる僅かな音も、全てが手に取るように感じられた。

 「───それ疑いは人間にあり、天は偽りなきものを」

 『羽衣』の一説が、ふいに口を衝いて出た。

 「・・・・・何のことだ?」

 「知らねぇのかい、堀田さん。世阿弥ぜあみだよ」

 兵悟は刀身の折れた刀を投げ捨てた。堀田が地面に転がったそれに視線を向け、改めて兵悟を見据える。目に悲哀の色が僅かに宿った。兵悟が敗北を受け入れたと思ったのだろう。

 「武士の情けだ。せめて苦しまぬよう、一太刀で終わらせてやる」

 堀田の頭上で、音もなく星が流れた。それを見届けると、兵悟は堀田に向かって無造作に歩き出した。

 堀田が一瞬、驚愕した表情を浮かべた。兵悟の行動の意図が、まるで理解出来なかったのであろう。真剣を向ける者に対して、丸腰のまま自ら歩を進めるなどあり得ない事だった。

 堀田が慌てて刀を大上段に振りかぶる。

 

 ───身体が勝手に動いた。


 兵悟は地面を滑るように駆けると、刀が振り下ろされるより一瞬速く、堀田の懐に跳び込んだ。と同時に両の前腕を十字形に重ね合わせ、勢い良く頭上に迫る柄にぶつけるように受け止める。堀田が顔をしかめた。兵悟の鍛えられた硬い前腕によって、柄を握る指が何本か砕ける感触があった。

 しかし堀田は怯まない。雄叫びを上げ、兵悟をそのまま押し潰そうとする。凄まじい圧力がのし掛かって、地面に身体がめり込むかと思えたが、兵悟は渾身の力でそれに耐えた。

 一瞬の膠着の後、兵悟は右の逆手で堀田の腰にある脇差を掴み、鞘から抜き放った。そして手首を返し、その左脇腹を横一文字に斬り付ける。

 刃が堀田の腹の半ばまで食い込んで止まった。兵悟はさらに左の掌を脇差の峰に当てると、裂帛れっぱくの気合いと共にそのまま一気に押し斬った。

 「───エイッ!」

 肉を断つ確かな手応えがあった。

 

 脇差しを逆手に掴んだまま反転して構えると、堀田の体勢がゆっくりと崩折れて、その片膝が地面に着いた。信じられないとでも言うように、肩越しに兵悟を振り返る。ふと、その口元に苦い微笑が浮かんだ。

 「・・・・・不覚なり。最後の最後で油断したか」

 兵悟は肩で息をしていた。自分の繰り出した技が信じられない。きっと、もう二度とこんな真似は出来ないだろうと思った。

 堀田が苦しそうに息を吐く。脇腹に当てた掌の隙間からみるみる鮮血がほとばしり出て、地面に赤黒い血溜まりを作った。

 「・・・・・まだ、だ」

 堀田が呻いた。

 「まだ、終わった訳ではない」

 震える足に渾身の力を込めて立ち上がる。そして振り向くと、斬り裂かれた脇腹から臓物が零れ落ちて臭気を放った。

 兵悟が驚きのあまり目を剥いた。

 「・・・・・嘘だろ。その傷でなんで立ち上がれるんだい」

 獣のような咆哮を上げて、堀田が再び斬り掛かる。しかし傷はあまりに深く、その太刀筋に先刻までのような勢いはない。

 兵悟はその斬撃を脇差で難なく受け止めた。目の前で孤月蒼正比良が、堀田の命を喰らうが如く妖しげな蒼白い光を放った。

 「───この刀か!」

 兵悟は堀田の刀を弾き返すと、その鳩尾みぞおちに脇差の刃を突き立てた。さらに体当たりの要領で突き通し、鍔元まで押し込む。堀田の口から鮮血が零れた。

 兵悟は脇差から手を離すと、堀田の手首を両手で掴んだ。体勢を低くして堀田の懐に素早く潜り込み、足を刈りつつ勢いよく腰で跳ね上げて投げを打つ。

 堀田の巨体が宙を舞って、背中から地面に落ちた。その手にすでに得物はなく、孤月蒼正比良は兵悟の手の内にある。太刀捕りの技であった。

 兵悟はその鋭い切っ先を、堀田の喉元に突き付けた。

 「───今度こそ勝負ありだぜ、堀田さん!」


 

 仰向けで大の字になった堀田の周囲に、赤黒い染みが広がってゆく。色を失ったその顔には、すでに死相が表れていた。

 焦点の定まらない虚ろな目が、静かに兵悟に向けられる。

 「・・・・・見事だ、犬廻。おぬしの勝ちだ」

 その声は酷く弱々しかった。

 「・・・・・堀田さん」

 堀田が口元に微笑を浮かべる。

 「そんな顔をするな。武士らしく真剣勝負の末に負けたのだ。悔いはない」

 堀田の表情は憑き物が落ちたように穏やかであった。

 「犬廻、とどめを刺・・・・・」

 そこまで言い掛けて「いや」と首を振った。

 「お美代は念仏を唱える暇さえなく、この俺に殺されたのだ。己は楽に死のうなど、虫の良すぎる話だな」

 そして、心から悔いるように呟いた。

 「お美代と親父には済まないことをした。喜助にも・・・・・」

 兵悟は着物が血で汚れるのも厭わず、堀田の傍らに膝を着いて静かに訊ねた。

 「堀田さん、何か言い遺すことはあるかい?」

 堀田の顔が徐々に精気を失ってゆくのが、蒼い月明かりの下でも分かった。

 「犬廻、最期におぬしと真剣で立ち会えたことを誇りに思う」

 「俺もだ、堀田さん。あんたほどの敵手はいなかったぜ」

 堀田が満足そうに笑う。その目から次第に光が喪われつつあった。

 「一つ頼みがある」

 虫の息で堀田が呟く。

 「なんでぇ? 俺に出来ることなら何でもするぜ」

 兵悟が堀田の口元に耳を寄せた。

 「───俺の代わりに、京へ行ってくれまいか」

 兵悟は驚いた表情で堀田を見つめ、それから「分かった。京へ行くよ」と力強く頷いた。

 堀田が安心したように微笑を浮かべる。

 「・・・・・ただ一度で良い。徳川侍とくせんざむらいとして、上様のために働きたかった」

 その言葉を最期に、堀田は何も話さなくなった。目から光は喪われ、呼吸は静かに止まった。

 兵悟は掌でそっと堀田の目蓋を閉じ、亡骸に手を合わせると、静かに立ち上がった。この手で友を斬ったのだ、という苦い思いが今さらのように胸の奥に広がった。 

 兵悟は右手に掴んだ刀を、己の目の前に翳した。

 

 ───孤月蒼正比良。

 

 手にした者を人斬りの外道に堕とす妖刀。深みのある蒼い刀身が、静かに月明かりを映している。あれほどの斬り合いの後でありながら、刃零れ一つ見当たらない。

 そのときふと耳鳴りがした。刃で神経を斬り付けるような鋭利な響きが、頭の奥にこだまする。兵悟は思わず片耳を抑えた。

 堀田が言っていた耳鳴りとはこれか、と思った。我ながら正気とは思えぬが、刀に呼ばれたと感じたのは初めてのことだ。

 

 ───兵悟は堀田の腰から大刀の鞘を抜き取ると、孤月蒼正比良をその中に静かに納めた。



                (続く)



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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