第八幕 月下の冥途道
黒々とした
大川に掛かる新大橋のすぐ近く。この辺り一帯は武家屋敷が多く建ち並んでいる。
その一角にある旗本屋敷の小さな潜り戸がそっと開いたのは、そろそろ夜も更けようという五つ刻であった。
闇に紛れるような紺の覆面に同じく紺の袷羽織で、腰には大小の二本差。提灯も持たず、供も付けず、辺りを窺うように後ろ手でそっと木戸を閉める。
「───こんな夜更けに、どこへ行くつもりだい」
背後からふいに声を掛けられ、覆面の男は慌てて振り向いた。驚きが声になって零れ落ちる。
「・・・・・犬廻」
暗闇から姿を現したのは、見知った顔の用心棒であった。
「・・・・・どうして此処へ 」
「お月見がてら夜の散歩・・・って感じじゃあねぇよなぁ。何か人目を忍ばなくちゃならねぇ用事でもあるのかい? ───なぁ堀田さん」
覆面姿の堀田善次郎は暫し沈黙した後、搾り出すように言葉を発した。喉が渇いて声が掠れた。
「おぬしには関わり合いのないことだ」
「果たしてそうかな?」
兵悟は堀田を挑発するように、口元に皮肉な微笑を浮かべる。
「誰にも見咎められずに人を斬るには、良い刻限だろうぜ」
「・・・・・何のことだ」
「誤魔化すつもりなら別に構わねぇさ。夜はまだこれからだしな。・・・・・ところでその手は何だい?」
兵悟が堀田の手元に視線を落とす。自分がいつの間にか刀に手を掛け、鯉口を切ろうとしていたのに気付き、堀田は刀から手を離した。
「あんたに、ちっとばかり話がある。そこまで
「・・・・・良いだろう」
堀田は覆面を自ら剥ぎ取ると、兵悟の後ろをたっぷり
「良い月明かりだ。これなら提灯はいらねぇな」
兵悟が夜空の月を見上げてそう呟く。明後日の二月三日は満月である。風はなく、心なしかいつもの夜に比べると少し暖かい。
「そういやあの日、お美代が何で大工町のあの稲荷を訪ねたか分かるかい?」
「・・・・・いや」
背中越しに話し掛けて来る兵悟に、堀田は短く一言だけ答えた。
「この前、線香を上げに親父さんの長屋を訪ねてな。そこで聞いたのよ。なんでもあのお稲荷さんは、想い人との縁結びに霊験あらかたなんだと。深川辺りの娘っ子連中には評判らしいぜ。喜助と所帯持つのが決まったんで、お美代の奴、そのお礼参りに行ったんじゃねぇかって。何ともいじらしい話じゃねぇか。それがまさか辻斬りに遭うたぁ、巡り合わせが悪いにも程があるぜ」
「親父はどうしている?」
「死んだよ」
堀田の息を呑む気配が伝わって来た。
「昨日の朝だ。長屋の梁に縄引っ掛けてなぁ。首吊ってやがった」
兵悟は僅かに堀田を振り返った。
「女房亡くしてから必死で働いて娘を育てて来たのに、その娘にあんな死に方されて、張り詰めてたもんがプッツリ切れちまったんだろう。弔いは今日の昼、長屋の連中が総手で済ませたよ」
「・・・・・そうか」
「辻斬り野郎はお美代だけじゃなく、その親父も殺したのも同然だ。そうは思わねぇかい、堀田さん」
堀田は無言である。兵悟もまた無言で歩いた。どこかで犬の遠吠えが聞こえる。武家屋敷の高い白壁に挟まれた道を、蒼い月明かりが
まるで
小名木川に掛かる万年橋を渡って右手に折れ、やがて辿り着いのはお美代が殺された稲荷の境内であった。周りを鬱蒼とした杜が囲んでいる。
「お美代が死んでたのは此処だ。どうだい、何か思うところはあるかい?」
兵悟が振り向いて、堀田を見据える。
「何の話だ」
「この期に及んでまだシラ切ろうってのかい。あんた、お美代の葬式で一体どんな顔して手を合わせたんだ?」
堀田が押し黙った。兵悟はさらに言葉を重ねる。
「田島屋の一家皆殺し、あれをやったのもあんただろ」
堀田が、
「
「ねぇよ、そんなもん」
兵悟が平然と言い放つ。
「いつだったか、あんたに訊いたことあったろ。最近、人を斬ったか? とな。あんたは否とも応とも答えなかった。どうして俺がそんなこと訊いたか分かるかい?」
兵悟の目付きが鋭さを帯びた。
「この稼業長くやってるとなぁ、本当にヤバい奴ってのは見ただけで分かるのよ。そういう奴は、黒い霧が身体に纏わり付いたような独特の気配がある。あるいは匂いと言ってもいい。人斬りの外道に堕ちた者だけが放つ、獣じみた死の匂いさ」
無言で佇む堀田を、兵悟は
「───あんた、人斬りの匂いがするぜ。それも尋常じゃねぇ匂いだ。あのときより一層濃くなってやがる」
堀田は一言も答えない。闇のなかに佇む巨魁が、なにやら得体の知れない魔物のようであった。
「強いて証を挙げるなら、あんたがいま腰に差しているその刀だ。
堀田の肩が僅かにぴくりと動いた。
「仲間がいたろ。そいつは金で雇ったか。いってぇ幾ら積んだ? そもそも、そいつは今も生きてるのかい?」
「・・・・・仲間などいない」
堀田がようやく口を開いた。夜空を仰ぎ、それから諦めたように大きく息を吐く。
「田島屋の一家を皆殺しにしたのは拙者ではない。田島屋の主、忠平衛自身だ」
その言葉に、兵悟は耳を疑った。
「 言い逃れは見苦しいぜ 、堀田さん!」
「言い逃れではない!」
堀田は強く言い切ると、少し間を置いてから淡々と語り出した。
「あの夜、拙者は一人で田島屋を訪ねた。この刀・・・・・孤月蒼正比良を譲ってくれと頼むためだ。それ以前にも幾度となく頼むたび、売り物ではないと田島屋には断られたが、どうしても諦め切れなかった。武士の体面など捨てて、土下座でも何でもするつもりだった」
夜四つ、そろそろ町木戸も閉まる刻限だった。そんな夜更けに訪ねるなど非常識なのは分かっていたが、もはや頭がおかしくなっていたのかも知れない。我ながら自分の行動が理解出来なかった。田島屋の前に来ると当然お
潜り戸を開けて、目の前に人が倒れているのに驚いた。全身血まみれで、既に事切れている。田島屋の奉公人の一人であった。ここまで逃げて来て、潜り戸を開けようとした処を背中から斬られたのであろう。
辺りに血の匂いが漂っている。堀田が急いで屋敷に上がると、行灯の灯る居間に忠平衛が一人で立ち尽くしていた。茫然自失の様子で天井を仰ぎ、手には孤月蒼正比良をぶら下げている。着物は血で真っ赤に染まっていたが、それが全て返り血であることは察しが付いた。
「・・・・・田島屋、何があった?」と訊ねたが、忠平衛は茫然とするばかりで何も答えない。業を煮やした堀田は、廊下へ出て屋敷の奥へと進んだ。寝室には忠平衛の女房と子供たち、その奥の仏間には忠平の母親、奉公人部屋には若い男の奉公人が五人、それぞれ血まみれの無残な遺体が転がっていた。まさに地獄絵図の有り様だった。
吐きそうになるのを堪えながら居間に戻ると、忠平衛はまだ虚ろな様子で宙を見上げていた。
「田島屋、貴様何をした!」
堀田が一喝すると、それで忠平衛はハッと我に返ったようだった。
「これは堀田さま・・・・・お出迎えもしませんで失礼を致しました」
まるで正気の返答ではない。それから忠平衛は己が血刀を握り締めているのに気付き、着物も血まみれであることに愕然とした。
「堀田さま、これはいったい何事でございましょう・・・・・」
「それはこちらの
忠平衛は暫し押し黙った後、
「・・・・・耳鳴りがするのです」
「耳鳴りだと?」
刀を持つ手が小刻みに震えている。
「どうしても耳鳴りが止まず、私を責め
そこまで言って忠平衛が押し黙り、堀田を見据えた。虚ろな目の奥に、仄暗い光が宿った。
「斬るために生まれた。斬らずして何が刀か。・・・・・そうは思いませぬか、堀田さま」
忠平衛は陶然とした表情で嗤うと、堀田に向かって刀を振り上げた。
「───忠平衛、貴様!」
堀田は即座に踏み込むと、抜き打ちで忠平衛の胴を薙ぎ払った。忠平衛が
振り返ると、忠平衛の手に握られた血染めの孤月蒼正比良が目に映った。
「後はどうなったのか、自分でもよく覚えておらぬ。気が付けばこの刀を握り締め、船着き場の近くを歩いていた。その夜は岡場所に泊まって、朝が来るのを待った」
と、堀田が何やら苦悶の表情を浮かべ、片耳を抑えた。それからややあって、頭を振りつつ兵悟に向き直る。
「───耳鳴りだ」
「・・・耳鳴り?」
怪訝な表情で訊き返す兵悟に、堀田が僅かに頷く。
「忠平衛が言ったことは
「・・・・・お美代はなんで斬った?」
兵悟の問いに、堀田は記憶を辿るように宙を仰いだ。
「あの日は・・・・・確か何かの用事を済ませ、佐賀町の辺りを歩いておったのだ。とある商家から浪人者が出て来た。奴はその店から金銭を脅し取った様子だった。おそらく攘夷の軍資金とでも理由を付けたのだろう。激しい侮蔑の感情が湧き上がり、それはすぐ殺意に変わった。こんな下賤な輩が上様のお膝元でのさばっているのが我慢ならなかった。斬らねばならぬと思った。気付いたときには、奴の背後を尾けていた」
そしてこの稲荷に入ったところで辺りに人がいないのを確かめ、浪人者に声を掛けた。浪人者は抜刀したが、堀田の敵ではなかった。あえなく一太刀で斬り伏せると、背後で女の悲鳴がした。振り返ると、そこにお美代が立っていた。なぜお美代がここにいるのか、堀田には理解出来なかった。
「拙者はお美代に声を掛けようとした。最初は斬るつもりなどなかったのだ。話をして、何とか落ち着かせようと思った。しかし、お美代は拙者を見るなり、悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。このまま人通りのあるところに出られては不味い。お美代に後ろから追い縋り、気が付くと背中から袈裟懸けに斬っていた」
兵悟は瞑目した。お美代にすれば信じられない光景であったろう。堀田は旗本だが威張ったところなど微塵もなく、温厚な人柄でお美代にも優しかった。それが目の前で人斬りの鬼になったのだ。恐怖しない訳がない。
「・・・・・そんなもんが言い訳になると思ってんのか」
やっと搾り出した声は怒りで震えていた。
「だが見逃せば、お美代は番屋に駆け込んでいたはずだ」
「んなもん当たり前だよ。目の前で人が斬られて届けねぇ奴がいるかい。それこそあんたは観念して、自ら奉行所に出頭するべきだったのさ。辻斬りで人を殺しました、とな。そうすりゃ侍として切腹も出来たし、お美代も死なずに済んだ」
「莫迦を言うな。拙者は浪士取締役の手伝いとして、もうじき京に上るのだ。大事の前に足を取られる訳にはいかぬ」
堀田が大仰に手を広げて訴えた。この男がこんなに
「士道不覚悟だぜ、堀田さん」
失望したように、兵悟は溜め息を吐いた。
「俺は例え辻斬りでも、侍が斬られるのは仕方ねぇと思ってる。てめぇだって何かあったら、ぶった斬る気で腰に人斬り包丁ぶら下げてんだ。それぐらいの覚悟はあって然るべきだろうよ。だがお美代は違う。あの娘は町人だ。絶対に斬っちゃいけねぇ相手だった」
兵悟は吐き捨てた。
「大事の前だぁ? 笑わせるな。てめぇはただ己の保身のためにお美代を斬ったんだよ。この期に及んで言い訳がましいにも程があるぜ」
「・・・・・おぬしには分からぬ。しょせん浪人風情のおぬしには。無役の部屋住みだった拙者が、
「守るべき町人を踏み付けにして何が徳川侍だ。それで
堀田は忌々しげに顔を強ばらせた。
「どうあっても拙者を許せぬか?」
「ああ、許せねぇな。お美代はもうじき喜助と祝言を挙げるはずだった。親父だって何年かすりゃ孫の顔が見れたはずだ。その幸せを、あんたは手前勝手な理由で奪いやがった。あの二人の無念を晴らすためにも、絶対に許す訳にはいかねぇ」
沈黙が降りた。夜気が殺気を孕んで肌を刺す。月明かりはいよいよ冴え渡って、刃のような鋭さを増した。
「・・・・・許せぬならどうする?」
堀田が静かに問うた。
「奉行所に出頭しろよ。そしてお上の裁きを受けろ。武士として潔く腹を斬れ」
兵悟の言葉に、堀田は意外そうな表情を向けた。
「・・・・・お美代の仇を討つのではなかったのか?」
「初めはそのつもりだったさ。だけどな・・・俺だって友達を斬りたくはねぇんだよ」
堀田が口の端に苦い微笑を浮かべる。
「甘いな、犬廻。それでもこの期に及んでなお、拙者を友と呼んでくれるか。・・・・・だが、それは出来ぬ相談だ」
堀田の返答に、兵悟が無言で歯噛みする。暫しの沈黙の後、堀田がふと哀しげな眼差しを兵悟に向けた。
「拙者は、もはや真っ当な人の道には戻れぬさ。ぎりぎりの命の遣り取りのなかにこそ、己の生の意味があると知ってしまったからな」
その表情は心なしか穏やかですらあった。
「斬るために生まれた。斬らずして何が刀か。・・・・・今なら田島屋の言ったことも分かる気がする。己の本性を押し殺して、おとなしく鞘に納まっていなければならぬ理由が何処にあろう」
堀田がふいに傲然と胸を反らした。仄暗い光を宿した二つの目が、真っ直ぐに兵悟を見据える。
そしてその手が柄に掛かり、ゆっくりと孤月蒼正比良を抜いた。月明かりを浴びて、刀身が蒼い
「・・・・・そいつが妖刀、孤月蒼正比良か。確かに尋常な代物じゃねぇな」
全身の毛が逆立つ気がした。殺気とも冷気ともつかぬ気配が、闇夜に溶けて辺りに広がってゆく。
「刀を抜け、犬廻。丁度、もっと骨のある男を斬りたいと思っていたところだ」
その言葉に、兵悟は寂しげに肩を落として嘆息した。
「・・・・・是非もなしか」
やがて意を決したように鯉口を切り、音もなく刀を抜く。
「救えねぇよ、堀田さん。人斬りの外道に堕ちた奴は救えねぇ。だから、せめてもの情けだ。───俺が引導を渡してやる」
(続く)
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