第六幕 孤月蒼正比良




 その三日後、夜の暮六つ半を過ぎた頃である。犬廻兵悟は、深川の永代寺門前山本町の一角にある小さな居酒屋の暖簾を潜った。

 俗に「深川七場所」と謂われるほど、深川は岡場所の多い土地柄であり、ここもその一つである。近くに火の見櫓があることから、「櫓下やぐらした」と呼ばれていた。

 それほど広くない店の中を見渡すと、座敷の隅で湯豆腐をさかなに、ちびちびと酒を呑んでいる男の姿が目に入った。薄い裏柳に黒の縦縞を入れた着流しで、「たばね」と言って油を付けず水髪だけで侠客風に頭を結った、あまり人相の良くない二十四、五の男だ。

 「よう、文吉ぶんきち

 兵悟は腰の大刀を外しながら、座敷に上がって男の前に胡座をかいて座った。

 「やっぱり此処にいやがったか」

 「こりゃあ、犬廻の旦那・・・」

 文吉と呼ばれた男が、まるで悪戯を見つかった悪童わるがきのような表情をした。

 「見廻りもせず呑気に酒なんか呑みやがって。どうせこの後、岡場所にでも繰り出そうって寸法だろ」

 「勘弁してくださいよぉ。こちとら昼間はさんざん探索に駆けずり回ってんだ。息抜きぐらいさせてください」

 文吉が情けない声を上げる。この辺りを縄張りにする源七げんしちという岡っ引きの手下で、元は博徒である。兵悟とは以前からの顔馴染みだ。

 「ところで何かご用ですかい?」

 「なに、最近巷を騒がせてやがる辻斬りについて知りたくってな。つい先日は、北川町の万徳寺の近くで出たって聞いたぜ。またもや、たった一太刀で相手を斬り殺したってんだろ」

 三日前の夜、兵悟が捜していた辺りとは反対のそれほど離れていない西の方で、辻斬りは人をあやめていたのだった。

 「へぇ、殺されたのは薩摩の不逞浪士でした。やっぱり同じ奴が下手人ですかね?」

 「だろうな。たった一太刀で命を奪える手練れなんざ、そう滅多にいるもんじゃねぇ。おそらく、お美代を殺した奴と同じだ」

 注文を取りに来た娘に、兵悟は燗酒かんざけを一つ頼んだ。

 「それで、何か分かったことはねぇのかい?」

 その問いに、文吉は頭を横に振った。

 「特に何も。不逞浪士が殺されたところで、奉行所は捨ておけって態度ですから」

 「だろうなぁ・・・」

 「ところで聞きましたぜ、犬廻の旦那。お美代を殺めた下手人を、自分が囮になって捜してるんですって?」

 「おうよ、悪いか」

 「悪いも何も、そんな真似してたら八丁堀に目ぇ付けられますぜ。源七の親分が心配してました」

 岡っ引きの源七はこの辺りの顔役で、何かと面倒見の良い男であった。以前、用心棒稼業の行き掛かりで、とある事件の解決を手助けした事があり、たかが浪人風情と侮らずに接してくれている。

 「その肝心の八丁堀がまるで頼りにならねぇんじゃねぇか。しっかりしろって同心どもに伝えとけ」

 「また、そういうことを。でもまぁ、気持ちは分かりますよ。おいらもあの店にはよく行ってたし。可愛い娘だったのに勿体ねぇ」

 そこへ銚子が運ばれて来た。文吉が酌をしようとするのを断って、兵悟は手酌で猪口に酒を注ぎ、一息にあおった。

 「お美代の親父はどうしてる?」

 「娘が死んで以来、家に引き籠もって塞ぎ込んでますよ。お美代と所帯を持つはずだった大工の喜助も、ずっと寝込んだままだって話です」

 「そうか。無理もねぇや・・・」

 あの日のお美代の顔が目に浮かぶ。辻斬りに気をつけろと言われたその二日後に、当のお美代自身が辻斬りに遭って殺されてしまった。これはいったい何の因縁かと天を仰いで嘆きたくなる。

 

 「ところで旦那、冬木町の常磐津ときわずの女師匠と良い仲なんですって?」

 「なんでぇ、藪から棒に」

 いきなり話が変わって見返すと、文吉が口元にニヤニヤと下世話な笑みを浮かべていた。

 「お登勢とせっていいましたっけ? 歳は二十五、六の、滅法な美人って話じゃねぇですか。いったいどうやって口説き落としたんですかい?」

 「口説き落としたんじゃねぇ。成り行きでそうなっただけよ」

 タチの悪い破落戸ごろつきから身を守るための用心棒として雇われ、気が付いたら深い仲になっていた。その破落戸は兵悟が木剣で叩きのめした後、過去の人殺しがバレてお縄になり死罪になった。

 ふと気付いて、兵悟は文吉に訊ねた。

 「ちょっと待て。その話、誰から聞いた?」

 「誰からって、けっこうな噂ですよ。あのお登勢って女は身持ちが固いことで有名なのに、そのお登勢をモノにした男がいるってんで、この辺りの旦那連中が悔しがってまさぁ」

 文吉の言葉に、兵悟は閉口した。深川の連中の耳聡いことには呆れるばかりだ。

 常磐津の師匠の元に通うのは芸者見習いや町娘ばかりではない。商家の旦那や隠居連中も大勢いる。その中には美人の師匠を口説き落とそうと企む者もいて、常磐津の女師匠とはそういう男の下心をも織り込み済みで成り立っている商売だ。

 出来るだけ目立たぬようにしていたつもりだが、情夫おとこが出来たと分かれば、波が引くようにさっといなくなる弟子もいるだろう。しかも相手は素姓の知れない用心棒である。いかにも外聞が悪いし、お登勢の信用にも関わる話だ。お登勢の商売の邪魔になるのは心外であった。

 「良いなぁ。常磐津の美人師匠とか、おいらもあやかりてぇや」

 兵悟は身を乗り出すと、文吉の広いおでこを平手で強めに叩いた。

 「莫迦ばか野郎。余計なこと言ってる暇があったら、辻斬りの下手人ぐらいさっさと捕まえねぇかい」

 おでこを掌で抑えた文吉が涙目で応じる。

 「いてて・・・無茶言わんでくださいよ、旦那ぁ。それでなくても何かと物騒な世の中なのに、まるで人の手が足りちゃいねぇんだ。田島屋の一家皆殺しだって、いまだに皆目見当が付かねぇんですぜ」

 そういえば田島屋の忠平衛もたった一太刀で斬り殺されていたのだったな、と兵悟はふと思い至る。

 「田島屋の件は、その後も何も分からねぇのかい?」

 「いや・・・・・何も分からねぇというか、 ちったぁ分かったこともあるにはあるんですが」

 文吉が妙に言葉を濁す。

 「なんでぇ、言ってみねぇ」

 「いや、でもあんまり部外者に教える訳には・・・・・」

 兵悟は自分の銚子を手にすると、文吉の猪口に酒を接いだ。

 「いまさら勿体付けんなよ、文吉。俺とお前の仲じゃねぇか。ここは俺の奢りだ。なんならそこの岡場所で良いおんなを紹介してやるぜ」

 兵悟とてまったくの朴念仁ぼくねんじんではない。お登勢と知り合ってからは控えているが、岡場所に馴染みの女郎ぐらいはいる。

 「今度は搦め手で来やがった。まったく参ったなぁ」

 そうボヤきながらも、文吉は満更でもない様子である。

 「いや、最初は田島屋から盗られた物は何もねぇって話でしたが、一つだけなくなってる物があったんです」

 文吉が声を潜めて話出した。

 「へぇ。で、何がなくなってたんだい?」

 「刀ですよ」

 「───刀?」

 文吉が頷いた。

 「田島屋の主の忠平衛ってのは、いわゆる刀剣の蒐集家だったって話で、金に任せてあちこちから名刀やら業物やらを買い漁っていたそうです」

 「田島屋は金貸しだろ。侍でもねぇのに刀なんか買ってどうするんでぇ?」

 「一応、苗字帯刀は許されてたようですよ。まぁ、今どき町人でもヤットウの道場ぐらい通うじゃねぇですか。忠平衛もそのクチで、若い頃は剣術に夢中だったらしく、北辰一刀流の玄武館に通ってたそうです」

 「・・・・・玄武館か」

 ということは堀田と同門になるわけか、と兵悟はふと思った。

 「やっこさん、死んだ親父の跡目を継いで商売に本腰入れなきゃならねぇってんで、ヤットウは辞めちまったんですが、それでも刀の蒐集だけは続けてたんです。それで買った刀は目録帳もくろくちょう作って、いちいちそれに記してた。刀の銘と共に、何年何月何日、何処そこの誰々から幾ら幾らでこれこれの刀を譲り受けた、てな感じで。それで事件の後、その目録帳に記した刀と田島屋に置いてあった刀とを見比べたら、一振りだけなくなってる刀があったんです」

 「売ったとかじゃねぇのかい?」

 「それなら帳面にそう書いてあるはずですよ。ところがそんな痕跡はどこにもねぇ」

 兵悟は腕を組んで考えた。

 「しかしその刀が盗まれたとして、それが田島屋一家皆殺しの下手人と同じとは限らねぇだろ」

 「まぁ、そりゃそうなんですが。しかし他に手掛かりがねぇのも事実でして」

 文吉が頭を掻いて頷く。

 「その刀の銘は?」

 「孤月蒼正比良こげつそうまさひらっていうそうです」

 兵悟の問いに、文吉が畳の上に文字を書きながら答えた。

 「聞いたこたねぇな」

 「虎徹こてつとか同田貫どうたぬきとかなら有名なんですがね。なんでも駿河の方の無名の刀工が打った刀だとか」

 文吉の話す口振りが、僅かに熱を帯びて来た。

 「他にも有名な業物が置いてあるのに、何故かその刀だけがなくなってやがる。下手人の目的はその刀だったんじゃねぇかと、源七の親分も話してまさぁ」

 「しかし、たかが刀一本のために、わざわざ一家皆殺しまでするかね?」

 そう疑問を呈する兵悟に、文吉はさらに声を潜めた。

 「それがですね。色々調べてるうちに分かったんですが・・・・・その刀、妖刀だってんです」

 「───妖刀だぁ?」

 兵悟が思わず呆れた声を上げ、周りの客が幾人か振り向いた。

 「徳川に仇なす妖刀村正なら、その辺にいくらでも転がってるじゃねぇか」

 村正といえば主に三河武士が愛用した刀だが、徳川家康の祖父、松平清康を始めとして、その子、広忠、家康の正室の築山殿、家康の息子、松平信康、それら一族の命を奪ったのが全て村正だったという嘘か真か分からない話がある。

 さらにはあの真田幸村が所持していたという逸話が講談や歌舞伎を通じて広まり、「徳川に仇なす妖刀」として、村正は庶民の間でもすっかり有名になった。

 そのため倒幕を目指す志士にも村正は大人気となり、今や無銘の刀を村正と偽った贋作がそこら中に出回っている始末だ。

 「混ぜっ返さないでくださいよ、旦那ぁ。その刀について古物商や刀工から聞いたマジな話なんですぜ」

 「そりゃすまねぇな。で、その妖刀がどうしたって?」

 文吉は僅かに居住まいを正した。一つ二つ咳払いをする仕草は、講談でも始めるかのようだ。

 

 「さっきも言ったように、その孤月蒼って刀を打ったのは、駿河の刀工だそうで。もう五十年も前の話です。刀工の名前は刀の銘でもある正比良。しかし出自はよく分からねぇ。あるとき、その辺りじゃ有名な刀鍛冶かたなとじの工房にふらりと現れ、そのまま居着いて弟子になっちまった。才はあったらしく、なかなか良い刀を打つ職人になったんですが、ところが運悪く病気になって若くして死んじまいやがった。だがその正比良が病気を押して、己の命削りながら最後に打った一振りの刀があった。それがあまりに見事な出来映えで、刀身の色もまるで月明かりを写し取ったみてぇだってんで、孤月蒼って号を付けられたそうです」

 酒が入ったせいもあるのか、文吉の語りはなかなか滑らかである。兵悟は黙って話を聞き続けた。

 「正比良の死後、その孤月蒼正比良は、とある殿様に献上されたそうです。見事な刀に殿様たいそう喜んだとか。ところがそれから十日もしねぇある晩、とんでもねぇ事件が起きた。なんとその殿様、孤月蒼正比良を振り回して自分の奥方や子供だけじゃなく、家来を何人も斬り殺して、それから自分の喉かっ斬って死んじまったってんです。まぁお家大事だってんで、その事件は内々で処理されたんだが、それでも人の口に戸は立てられねぇ。どっかから話は漏れるもんだ。結局、その家はお取り潰しになった。孤月蒼正比良はその後、藩を越えて色々な武家や商人、豪農らの手を渡り歩いたらしいんですが、その行く先々で必ず人死にが出る。手にした者はどうしてか人が斬りたくて仕方なくなるんだとか。そして実際、血の雨が降る。その刀のために今まで何十人と斬り殺された。いつしか孤月蒼正比良は妖刀と呼ばれるようになり、やがてその行方はぷっつりと途絶えちまった」

 

 文吉の話が一区切り付いて、兵悟はふうんと指先で顎を撫でた。

 「で、その妖刀が今度の田島屋の事件でいきなり出て来やがったと、そういう訳か。ところで田島屋は、その行方知れずだった刀を何処でどうやって手に入れたんだ?」

 「それが分からねぇんです」

 「分からねぇ?」

 「へぇ、他の刀は全て何処から手に入れたか目録帳に書いてあるんだが、その孤月蒼正比良だけは銘以外に何も書いてねぇんです。まぁ曰く付きの刀なんで、手に入れるのに何かしら後ろ暗い理由でもあったのかも知れませんが」

 兵悟がまた酒を接いでやると、文吉はそれをグイッと一気に呑み干し、それから少し押し黙って大きな溜め息を付いた。

 「・・・・・こんなこと言うと笑われるかも知れませんが」

 「笑わねぇよ。 言ってみな」

 文吉は普段はおちゃらけた男だが、元は博徒だったためか妙に勘働きの良いところがあり、頭も切れる。源七親分も一の子分として頼りにしているほどだ。

 「確たる証は何もねぇんですが、田島屋の事件と一連の辻斬り、ひょっとしたら同じ下手人なんじゃねぇかって思うんです。田島屋を殺して妖刀を手に入れた下手人が、その輝きに心を狂わされて、血を見たくて次々と人を殺めて歩いてるんじゃねぇか。そしてお美代もその凶刃の犠牲になっちまった。そんな気がしてならねぇんです」

 一瞬の間があって、兵悟は口の端を歪めた。薄ら寒さが背筋を這い上がって来るような気がした。

 「まだ正月が明けて間もねぇってのに、怪談を語るには早すぎるぜ」

 軽口を叩いてみたが、先刻からあることが心に重くのしかかっていた。行灯のあかりがジリ・・・・・と、油を燃やす音を立てる。

 

 僅かに逡巡したのち、兵悟は口を開いた。

 「話してくれた礼だ。一つ良いことを教えてやる。・・・・・堀田善次郎ほったぜんじろうという男を調べてみな。新大橋の近くに住む三百石の旗本で、田島屋の忠平衛とは同門の北辰一刀流だ。最近、腰の刀を変えた。そして、これは俺の勘だが・・・・・たぶん人を斬ってる」

 「お藤」で一緒に酒を呑んだとき、兵悟が「最近、人を斬ったか?」と訊ねたが、堀田はそれを否定しなかった。

 文吉が目の色を輝かせる。

 「ありがてぇ。もしそいつが下手人なら、とんだ大手柄だ」

 「まだ決まった訳じゃねぇ。まずは田島屋との繋がりを調べるのが先だ。相手は旗本だから慎重にな」

 「分かりやした。源七親分にそう伝えます」

 さっそく知らせて来やす、と言って懐から金を出そうとするのを、兵悟は「ここは俺の奢りだ」と制する。文吉は嬉しそうに頭を下げて店を飛び出して行った。野郎、さっき俺が良いおんなを紹介するって言ったのを忘れてやがるな、と少し笑った。

 七年ほど前、兵悟が賭場で用心棒をしていた頃からの知り合いだが、最近はすっかり岡っ引きの手下が板に付いて来た。人は変わってゆくものだと思った。良い方にも、悪い方にも。

 

 ───堀田さん、俺はあんたに変わって欲しくなんかないんだぜ、と兵悟は声に出さず呟いた。



                (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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