第五幕 天のさだむるところ
「あんた、死ぬのが怖くねぇのかい?」
屋台で二人並んで蕎麦を啜りながら、兵悟が
「そりゃあ怖いさ。死ぬのが怖くない奴などおるまい」
盛右衛門は何でもないことのように答える。
「だが、さっきのあんたは、とても死を恐れているようには見えなかったぜ。そうじゃなかったら、真剣の間合いにあんな平然と踏み込めるはずがねぇ」
「しかし、おぬしは儂を斬る気はなかったろ」
その一言に、兵悟は言葉に詰まった。どうやら完全に見透かされていたらしい。
「確かに斬る気はなかったよ。それでも、俺の手元が狂って万が一ってことだって考えられただろ」
「・・・・・そうよのう」
盛右衛門は箸を止め、ふと宙を仰ぐ。
「死を恐れないのではない。天命を受け入れるだけだ」
「・・・・・天命?」
「人にはそれぞれ天に与えられた寿命がある。いつ生まれ、いつ死ぬか、己一人で決めることの出来ない
「いきなり坊主みてぇなこと言い出したな」
「まぁ聞け」
盛右衛門は笑った。
「
「どういうことだい? 若死により長生きの方が良いに決まってるじゃねぇか」
兵悟はお美代のことを思い出した。お美代が長生きしていたら、きっと喜助と仲の良い
「一つ例え話をしよう。これは儂が越前の
盛右衛門はそう言うと、
「蝮という奴は呑気なもんで、いつも草むらにジッと隠れてとぐろを巻いている。そして蠅や蚊が来ると鎌首もたげてパクッとやる訳だ。自分からは決して動き回らない。ところが青大将の方はいつも這いずり回って獲物を探している。むろん、餌にありつく頻度は青大将の方が多いだろう。ならば当然、青大将が長生きしそうなものだ。しかし寿命となると蝮が五年、青大将が三年ぐらいだという。同じ蛇でもこれだけ違う。では問うが、蝮と青大将どちらが長生きだと思う?」
唐突に訊かれ、兵悟は慌てて答えた。
「そりゃあ蝮だろ」
盛右衛門は頷く。
「普通に考えればそうだ。しかしそれが間違いの元でもある。蝮の寿命は五年、青大将は三年。しかしそれは実は寿命じゃない。単なる数だ。寿命を仮に数に変えて比較したに過ぎない。だが寿命とはそんなものではない」
「よく分からねぇ。どういうことだ?」
「例えを変えよう。松は千年の
「・・・・・うーん、なんだか屁理屈を捏ねられてるような気もするな」
兵悟は釈然としない。それを見て盛右衛門は
「かの
いかんいかん冷めてしまうのう、と盛右衛門は残りの蕎麦を美味そうに平らげた。それから丼を載せた台の上に指で文字を書く。
「
「“それ疑いは人間にあり、天は偽りなきものを”、というやつですな」
それまで黙って話を聞いていた蕎麦屋の親父が、思い出したように急に口を開いた。
「おお、親父。よく知っとるの」
「いやいや、ただの聞き齧りですよ」
感心する盛右衛門に、親父が照れながら謙遜する。
「なんでぇそりゃ?」
よく分からず、兵悟が親父に訊ねた。
「確か、
「羽衣かぁ。そういや子供の頃、絵草子で読んだ覚えがあるぜ」
蕎麦屋の親父の意外な博識に兵悟が感心していると、傍らから盛右衛門が混ぜっ返した。
「おぬし、腕は立つかも知れんが少し学がないの。それでは
「うるっせぇな。女は関係ねぇだろ」
盛右衛門と親父が声を上げて笑う。兵悟は憮然として蕎麦を一気に掻っ込んだ。
「つまり
「それだったら、人間の努力なんて何の意味もねぇってことにならねぇか? 天の謀りだか因縁だか知らねぇが、何をどう
兵悟にはどうも盛右衛門の話が納得いかなかった。
お美代の死が天命だというなら、何故そのような理不尽な死を与えたのかと天を恨みたかった。またそれが真実なら、お美代を斬った下手人は単なる因縁の操り人形で、本人の罪はないことになる。それだけではない。この世のあらゆる人々の営みが全てそのように定まっているなら、人間の意思などいったいどこにあるというのか。人の世の営みなどすべて虚しいだけではないのか。
腕を組んで首を傾げる兵悟を見て、盛右衛門は目を細めた。
「そうではない。天命は決まってる。だが、それでも人は自由なのだ」
兵悟は盛右衛門に顔を向けた。
「すまねぇが、禅問答は苦手でな。あんたが何を言ってるのか、さっぱり分からねぇ」
「案ずるな。儂も本当にはよう分からん」
そしてまた呵々と笑う。
「天命とは人間が心配すべきことではない。生きる因縁があるならば、飛んでも跳ねても生きられるように事が運んでゆく。反対に生きる因縁が尽きれば、どんなに健康であっても頓死する。どんなに用心深くても死が追いつく」
盛右衛門は再び箸を取ると、剣を構えるように目の前に翳した。
「剣のことを考えてみるといい。斬り死にするのを恐れて間合いに踏み込まなければ、相手を斬ることは叶わない。自分は勝てるだろうか、それとも負けるだろうか。相手はどんな技で来るだろうか、自分はこう迎え討てば良いだろうか。・・・・・そうしてあれこれ考えるうちに生死の狭間で迷いが生じ、己の身を固くして太刀筋を鈍らせる。それがまさに人間の疑いよ。この疑いを捨てよ。迷いを捨てよ。己が生きるか死ぬかは、天に任せる一途のみ。この天に任せた一途のみが、他力一乗とか、任運自在とかいうやつに繋がるのだ。死すべきときは死す定め。生きるならそれもまた定め。しょせん人の身で天の意思など知りようがないのだ。だからそれは全て天に任せて大きく息をして、つまらぬ憂愁から己を解き放て。さすれば剣もまた
兵悟はしばらく首を捻っていたが「駄目だ。やっぱり分からねぇ」と、匙を投げた。
「己の命の懸かった斬り合いの
「そうよのう。確かに簡単なことではない。己の命に執着するのが人というものだ。おぬしの言うことも
兵悟は腕を組んだまま首を傾げて唸っている。その様子を見て、盛右衛門は穏やかに微笑んだ。
「そうか、まぁいずれ分かるときが来るかも知れん。今はまだそのときではないということよ」
蕎麦の金は兵悟が払った。
「馳走になった。ではここで別れるとしよう」
そう言って、盛右衛門は楊枝を咥えた。
「縁があればいずれまた会うだろう。敵となるか味方となるか、それもまた天のさだむるところよ」
盛右衛門は兵悟に背を向けると、一度だけ右手を挙げてそのまま振り向かずに去って行った。
結局、盛右衛門の話はよく分からなかった。狐に摘ままれたような、とはこういう事をいうのかと思った。あの剣技は、あるいは本当に狐の幻術だったのやも知れぬ。もっとも本人は狐というより狸に似ているが。
去ってゆく盛右衛門の背中に向けて、兵悟は静かに一礼した。
面白半分に辻斬りをする旗本がいる一方で、名もない浪人のなかにあんな男がいる。よく分からないが、何か大きなものを貰ったような気がした。
盛右衛門に倣うなら、これもまた天の謀らいというやつだろうか。
───耳鳴りがした。
それは刀が発する微かな気配によるものだった。
その耳鳴りは誰を斬るべきか教えてくれる。この刀で初めて人を斬ったときも、その次のときもそうだった。あいつを斬れ。そう刀が言っているのだ。
男は浪人者の後を追った。たまたま新石場の岡場所を出たのを目にしてから、ずっと後ろを尾けている。浪人者は少し酔っているようだが、足取りはしっかりしていた。広い背中と盛り上がった肩周りの筋肉は、よく鍛えられた証だ。
中島町を越え、北川町の
「わい、何者や?」
言葉に
交わす言葉は必要ない。男は刀を鞘走らせる。浪人者がニヤリと笑った。
「辻斬りか。面白い。勝負してやる」
浪人者は抜刀すると、右の肩口に刀を垂直に立てた。
男は刀を正眼に構えた。いつの間にか耳鳴りが止んでいる。蒼い刀身が月明かりを映した。刀の発する妖気が腕を伝って全身に広がる。命どころか魂までも、刀と一体になったような気がした。
「キエエエエエェェェッ!!!」
互いの身体が交叉する刹那、凄まじい風圧が男の脳天に振り下ろされるより一瞬速く、その剣が薩摩浪人の胴を横に薙いだ。肉と骨を断つ確かな感触が手の内に残った。
薩摩浪人は声も立てずその場に崩れ落ちた。黒い染みが地面に音もなく広がり、錆臭い匂いが辺りを包んだ。すでに絶命しているのは確かめずとも分かる。
男はたったいま、薩摩浪人を斬ったばかりの
───身内を流れる血潮が、歓喜に沸き立つようであった。
(続く)
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