第四幕 竹光浪人




 男は富岡八幡宮の裏手を堀沿いに進み、平野町から北本町を抜け、さらに北の方角へと向かった。その先は『東海道四谷怪談』で有名な「深川三角屋敷」がある辺りだ。

 兵悟は男に気取られないよう慎重に後を尾けたが、男が角を曲がったところで姿を見失った。

 しばらく辺りを見回していると、やがて背後の暗闇から声がした。

 「わしに何かご用かの?」

 咄嗟に振り向くと、総髪を髷に結った五十絡みの男が三間ほどの距離に立っていた。先刻の旗本たちのときとは、まるで逆の立場になったようだ。

 「・・・・・気配は消したつもりだったんだがな」

 「あんなに殺気を放っておった癖にか。気付くなという方が無理な話だわい」 

 「そう言われると立つ瀬がねぇな」

 兵悟は苦笑いしつつ、頭を掻いた。

 男の身の丈は、兵悟より頭一つ分ほど低い。下腹が突き出していて、全体的に丸く、ずんぐりむっくりという表現がそのまま当て嵌まりそうな男だった。顔の下半分に無精髭を蓄え、小皺のせいか目元が笑っているように見える。

 「追い剥ぎか? 言うとくが金ならないぞ」

 「ちげぇよ」

 兵悟は正直に答えた。

 「俺の知り合いの娘が辻斬りに遭ってな。その下手人を捜している」

 「その娘はどうした?」

 「死んだ」

 「そうか、気の毒にな」

 男は懐手を外に出して拝む真似をした。

 「それで儂の後を尾けて来た訳か。しかし、この儂が辻斬りに見えたかのう?」

 「人は見掛けによらねぇと言うぜ。それに、強い奴は歩き方で分かる。あんた、剣は相当使えると見た」

 男は少し考えた後、無言で大刀を抜いた。

 兵悟は一瞬身構えたが、男は刀をそのまま兵悟の足元に投げる。からん、という酷く軽い音がした。拾い上げてみて驚く。その刀は芝居などで使われる竹光であった。

 「そんなもので人が斬れると思うかね? 念のため言うとくが、脇差もそれと同じじゃぞ」

 兵悟は男に歩み寄り、竹光を渡すと、素直に頭を下げた。

 「すまねぇ。俺の見込み違いだったようだ」

 金に困った浪人のなかには、刀を質に流してしまう者もいる。しかし武士が刀を持たない訳にはいかないので、仕方なく真剣の代わりに竹光を差すのだ。

 「なに、間違いは誰にでもある。気にするな」

 男が鷹揚に笑うと、目が恵比寿様のように細くなった。

 「ところでおぬし、その下手人を見付けてどうするね?」

 「斬る」

 「仇討ちか。今どき珍しいのう」

 「それぐらいしかしてやれねぇからな。せめてもの手向けだ」

 「まぁ好きにしなされ。しかしどこの誰とも知れぬ辻斬りを捜すとは、骨の折れる話じゃ」

 男は顎髭を掻いた。

 「仮に辻斬りを見つけたとして、それがおぬしの捜す仇敵だとどうして分かる。相手が罪を素直に認めんかった場合は?」 

 「なぁに、斬り合ってみれば分かるさ。たった一刀で人を斬り伏せるような奴だ。この物騒な世に辻斬りはたくさんいるが、そんな手練れは滅多にいねぇ」

 「なるほど、それも道理じゃの」

 我ながら無理筋な論法だが、男は妙に納得したようだった。変な男だ、と兵悟は思った。

 「あんたこそ、もし辻斬りに遭ったらどうするつもりでぇ? いくら腕が立っても、竹光なんかじゃ相手にならねぇだろ」

 兵悟が尋ねると、男は気楽な調子で笑った。

 「なに、そのときはそのときよ。辻斬りに遭わずとも、その辺の掘に落ちるかも知れんし、暴れ馬に踏み潰されるかも分からん。儂の友人は、数年前に流行ったコロリで呆気なく逝ってしもうた。いちいち死ぬことを恐れておったら道も歩けんさ」

 「なるほど、それも道理だ」

 男が兵悟を見上げ、酒にでも誘うような調子で言った。

 「ここで会うたのも何かの奇縁。どうじゃ、一つ立ち合うてみんか?」

 「はぁ?」

 兵悟は思わず間抜けな声を出した。

 「立ち合うって、あんた竹光じゃねぇか。やめとけ。怪我するぜ」

 「おや、自信がないか」

 「そうじゃねぇ。相手にならねぇってんだ」

 ますます変な男だと、兵悟は困惑した。こちらは真剣。男は竹光。最初から勝負になど、なろうはずがない。

 「勝負など、やってみなければ分かるまい。おぬしは腕が立つかも知れんが、儂に殺気を勘づかれる程度の未熟者じゃ」

 このジジイ、と兵悟は舌打ちした。

 「あんまり挑発するもんじゃねぇぞ。腐っても侍には意地ってもんがある。言葉が過ぎりゃあ、刀を抜くしかなくなるんだぜ」

 「だから立ち合うてみようと、さっきから言うておる」

 空気が緊張を孕んだ。暫し互いに無言になる。

 「言っとくが、俺は刀を寸止め出来るほど器用じゃねぇぞ。あんたが言う通り未熟者だからな」

 「構わんさ。斬れればの話だ」

 「言うじゃねぇか。死体はどうする?」

 「そこの掘にでも捨ててくれ」

 「この寒空に、そりゃあんまりだ。近くの寺に投げ込んでやるよ」

 「おぬしは情け深い男よのう」

 

 男は兵悟に背を向けて歩き出すと、十分に間合いを取り、振り返った。

 「───直心影流じきしんかげりゅう坂下盛右衛門さかしたせいえもん

 男が名乗りを上げ、竹光の刀を抜いた。

 「犬廻兵悟。流儀はねぇ。ただの喧嘩剣法だ」

 兵悟が水戸にいた頃に習ったのは水府流すいふりゅう剣術だったが、免許皆伝を授かった訳ではない。それに武術の型や技は、正しい師の元で学ばなければすぐ自己流に崩れる。表面に見える技は同じでも、身体の遣い方がまるで違うのだ。それに気付いてから、兵悟は流派を名乗るのを止めた。用心棒稼業で積んだ実戦経験が頼りの、ただの喧嘩剣法で通している。

 兵悟は刀を抜いた。愛刀は勝村徳勝かつむらのりかつ、二尺三寸六分。“水戸の実戦刀”と呼ばれる、鍛え抜かれた業物である。

 

 兵悟は刀を正眼に構えた。一方の坂下盛右衛門は、正面を向いて刀をだらりと下げたままである。

 見事な吊り腰だな、と兵悟は思った。一見すると隙だらけだが、その佇まいのどこにも力みはなく、まったく居着いていないのが分かる。先刻、兵悟が辻斬りの旗本たちを相手に見せたのとほぼ同じ構えだ。

 もとより、兵悟に斬る気はない。竹光が当たったところで死ぬはずもないのだ。刀を寸止めして終わりだ。口ではああ言ったものの、内心そう思っていた。

 しかし盛右衛門の醸し出す気配は尋常ではなかった。その佇まいは静かでありながらも、迂闊うかつに近寄れない圧を肌に感じた。ただの竹光がまるで真剣のようにさえ思える。あのおっさん、想像以上の手練れだな、と兵悟は舌を巻いた。

 「どうした、掛かって来んのか?」

 盛右衛門がにこやかに笑った。

 「では、こちらから参る」

 盛右衛門が無造作に踏み出す。そして何の躊躇ためらいもなく、足早に歩みを進めて来るのだった。

 

 ───馬鹿か、このオヤジ!


 兵悟は面食らった。真剣相手に不用意に踏み込む奴があるか。しかも手前てめぇの得物は竹光だぞ。まぁ良い、頭の上に寸止めして終わりだ。

 そう思って刀を振りかぶった刹那、間境まざかいに入った盛右衛門の勢いが変わった。

 まるでつむじ風のような気の塊が、兵悟の面表つらおもてを強く打った。

 ───斬られる、と思った。

 慌てて振り下ろした刃の下に盛右衛門の姿はなく、彼は兵悟の左側面に一瞬で転ずると、その首筋に竹光の切っ先を皮一枚で突き付けたのだった。


 兵悟は金縛りに遭ったように動けなかった。今、己の首筋に当てられているのは確かに竹光のはずだ。しかしこの鋭利な殺気は、どうしても真剣としか思えない。

 一筋の汗が額を流れ落ちる。それが頬を伝わって顎先に達したのを合図に、盛右衛門が刀を納めた。

 全身から力が抜け、兵悟は大きな息の塊を吐き出した。本気で命拾いしたと思った。

 「・・・・・いってぇ何をした?」

 ようやく言葉を発すると、兵悟は刀を鞘に納め、盛右衛門を振り返った。彼は恵比寿様のように目を細め、ニコニコと笑っているだけだった。

 「何も。ただ歩いて打った。それだけじゃ」

 「あんたのさっきの動き、尋常じゃなかったぜ。いや、動きだけじゃねぇ。あんたの全身から発する気の塊みてぇなもん。あれに当てられたんだ。その竹光が真剣としか思えなかった。ありゃ、いってぇ何なんだ?」

 「何と言われてものう・・・。いつの間にか出来るようになった。まぁ精進すれば、いずれおぬしも出来るようになるじゃろ」

 とぼけた様子の盛右衛門を、兵悟は信じられないものを見るような思いで眺めた。今まで色々な強い奴と戦ったが、ここまでの手練れに出会ったのは初めてだ。

 「そういえば腹が減ったのう。まぁ儂の勝ちということで、そこらで蕎麦の一杯も奢ってくれ」

 盛右衛門はそう言うと、呆気に取られたままの兵悟を尻目に先に立って歩き出した。



               (続く)

 

 

 

 

 

 

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