第三幕 辻斬り
店の前に立った兵悟は、しばらくその様を眺めていた。
永代寺門前町は料亭や居酒屋、岡場所が多く、夜遅くまで
お美代の遺体が見つかったのは、ここから三十町ほど北へ向かって万年橋にほど近い、海辺大工町の一角にある小さな稲荷神社の境内であった。
兵悟が店を訪れた二日後の昼九つ、お美代は深川元町にある親戚の家を訪ね、その帰り道に何故かその稲荷へ立ち寄ったらしい。そこで凶刃に襲われ、無惨にも命を奪われたのである。
お美代は背中を斬られて死んでいた。お美代が親戚の家を出たのが、昼の八つ半を過ぎた頃。たまたま通り掛かった近所の者が、血溜まりのなかに俯せで倒れているお美代の姿を発見したのが昼七つ。僅か
お美代から少し離れた所に、その近くの裏長屋に住む、
お美代とその浪人との間には、いくら調べても何の繋がりも見つからない。つまり二人はたまたまそこに居合わせただけのようであった。それなら何故、二人とも殺されたのか。
状況から推察するに、まず川口なる浪人者が何者かに襲われたのであろう。それが怨恨によるものか、あるいは辻斬りかは分からない。
親戚宅からの帰り道、たまたま稲荷を訪れたお美代は、その現場を偶然にも目撃したのではないか。そして逃げようとしたところを背中から斬られた。おそらくは口封じのために。下手人はまだ捕まっていない。
「なんだってお美代が巻き込まれなきゃならなかったんだい。もうすぐ嫁入りだってのによぉ。畜生、ひでぇ正月になっちまった」
突然の悲劇を知った者たちの間から、そんな嘆きの声が幾つも洩れた。
お美代の葬儀には親戚や近所の者だけでなく、店の常連客も大勢駆け付けた。お美代がいかに多くの人々から愛されていたかの証左であった。
弔問客のなかには堀田の姿もあった。旗本が町娘の葬儀に訪れるなど、通常なら有り得ないことである。
坊主の読経が流れる長屋の狭い敷地で、兵悟は隣に佇む堀田に声を潜めて話掛けた。
「悪いが堀田さん、俺は京へは行けねぇかも知れねぇ」
堀田が怪訝そうに目を向ける。兵悟は刀の柄に手を置いた。
「お美代の仇を討つ。それを果たすまで、江戸を離れる訳にはいかねぇ」
二人組の
ふと、誰かに見られていると感じた。
兵悟は店の軒先を離れ、素知らぬ様子で歩き出した。案の定、足音を忍ばせて後ろを
兵悟は路地を曲がった。
「野郎に尻を追い回されるなんざ趣味じゃねぇな。用があるなら出て来やがれ」
振り返りざま、暗闇に向かって声を投げる。物陰から三人、袷羽織りに袴姿の侍たちが姿を現した。いずれもまだ若い。二十歳前後といったところか。
「おぬしに恨みはない」
真ん中の男が薄笑いを浮かべながら言った。
「ただ少し、刀の斬れ味を試したくてな」
兵悟は鼻で笑った。
「なるほど。辻斬りって訳か」
「命までは奪わん。だから下手に動くなよ。手元が狂うやも知れぬからな」
今にも舌なめずりしそうな表情で、真ん中の男が刀に手を掛け、親指で鯉口を切った。そのまま間合いをじりじりと縮めて来る。両脇の男たちも、真ん中の男から少し下がった所で、兵悟を囲むように間合いを詰めつつあった。
全身が総毛立ち、鼻の奥にツンと錆臭いような匂いが立ち込める。荒事が始まるときはいつもこうなる。血の匂い。身体の奥底から立ち昇る暴力の匂いだ。
兵悟は動かない。両手をだらりと下げたまま突っ立っている。それを無抵抗の証と思ったのか、真ん中の男が何の警戒もなく兵悟の間合いに入って、刀の柄に手を掛けた。
その刹那、兵悟は踏み込むと同時に抜刀した。抜き打ちで男の右腕の小手を斬る。「ギャッ!」という短い悲鳴が辺りに響いた。
「──貴様!」
兵悟は右側から迫る男の膝上を突き刺し、さらに左から斬りつけて来たもう一人の男の刀を弾くと、その右の二の腕を斬った。二つの悲鳴が挙がって、男たちは三人とも路上にうずくまった。
しばらく呻いた後、両側の男たち二人がヨタヨタと起き上がった。二の腕を斬られた男が、膝上を刺された男に肩を貸し、血の痕を滴らせながら逃げてゆく。
「なんでぇ、もう一人の仲間は置き去りかよ。友達甲斐のねぇ連中だな」
真ん中の男はいつまでも起き上がらない。右手首の傷口を抑えたままうずくまっている。
「ひょっとして腰が抜けたか?」
兵悟が呆れると、男は震える声で言った。
「・・・頼む。斬らないでくれ」
「斬らねぇよ。てめぇなんざ斬ったところで一文にもなりゃしねぇ」
血刀を下げたまま、兵悟は男に近付いた。岡っ引きの源七から聞かされた、お美代の死に様が目に浮かんだ。
「お美代は右の首筋当たりから左の脇の下に掛けて斬られ、その傷は心の臓にまで達していた。おそらく痛みを感じる暇さえなかったろう。その他に傷は一つもなかった」
独り言を呟く兵悟を、男は怪訝な表情で見上げた。
「そのすぐ側で死んでいた浪人者も同じだ。刀は抜いていたが、斬り合った様子もなく、たった一太刀で斬り捨てられていた」
「・・・何の話だ?」
「てめぇみたいな
口で言うのは簡単だが、たった一太刀で相手の命を奪うなど尋常の腕ではない。真剣を手にすれば、例え侍だろうと大抵の者は無意識に腰が引ける。道場と実戦とでは、互いに向け合う剣の重さがまるで違うのだ。真剣に臆さぬ
命を奪うこと、奪われることへの本能的な忌避感や恐怖心が、踏み込みを甘くし、斬撃を浅くする。だからたいていの斬り合いは無様なものだ。道場で習い覚えた型など何の役にも立たない。死に物狂いで刀を振り回し、鍔迫り合いの
男の傍らにしゃがみ込み、兵悟はその羽織りで刀の血を拭った。羽織りは上質な手触りがした。
「てめぇ、旗本か? どうやら良い家のお坊ちゃんみてぇだな」
兵悟は刀を納めると、男の顔を覗き込んだ。鼻筋の通った細面の美形であった。
「へぇ、なかなかの色男じゃねぇか。侍より役者の方が向いてそうだぜ」
男の表情が引きつった。侮辱されたと思ったのだろう。微かに酒の匂いがした。
「酒に酔って気が大きくなったついでに、人斬り包丁振り回したくなったか。それで返り討ちにされてりゃ世話ねぇな」
「武士の魂を人斬り包丁などと・・・」
男が顔を向け、兵悟を睨み付ける。
「どんな名刀だろうと人斬り包丁に変わりはねぇよ。てめぇ、自分が腰に何ぶら下げてるか分かってんのか」
兵悟がドスを効かせた声で言い返すと、男は黙って下を向いた。
「そもそもたった一人を相手に三人掛かりで、武士の魂もへったくれもねぇや。まぁ、町人を襲わなかっただけでも誉めてやる」
兵悟は唇の片端を吊り上げて笑った。
「運が良かったじゃねぇか、小僧。俺があと半歩踏み込んでりゃ、その右腕は手首から先がなくなってたぜ」
男の傍らに小さな血溜まりが出来ていた。兵悟は懐から手拭いを取り出すと、男の手首の傷口から上の部分をきつく縛ってやった。
「おい、俺を見ろ」
男は黙ったまま顔を上げない。
「俺を見ろ」
兵悟は男の
「この顔をよく覚えとけ。今度この辺りで見掛けてみろ。そんときゃ容赦なく叩っ斬ってやる」
男の顔が青褪め、唇が震えた。兵悟は男をそこに置き去りにして立ち去った。
しばらく歩いて立ち止まり、兵悟は溜め息を吐いた。
お美代の死から五日。兵悟はこうして自らを
下手人の狙いは、あの川口とかいう浪人者を斬ることだった。お美代はまったくの巻き添えに過ぎない。
物盗りの可能性もあるが、わざわざ金のない浪人を狙う意味がない。殺された川口弥兵衛は、近所でもあまり評判の良くない男だった。たびたび商家に押し掛けては、攘夷の軍資金と称して金を
少なくとも八丁堀はそう考えているようだが、しかし所詮はそれだけのことだった。町を荒らす不逞浪士が殺されたところで、奉行所としては困るどころか、むしろ好都合である。熱心に探索などするはずもない。巻き添えにされた町娘のことも、きっと有耶無耶にして忘れ去られてしまうだろう。それならば兵悟が自分で下手人を捜すしかなかった。
兵悟は辻斬りの可能性について考えてみた。昼の日中から辻斬りは珍しいが、しかし絶対に有り得ないこともない。試しに深川界隈で起きた辻斬りについて、岡っ引きの源七親分に訊ねてみると、ここ
被害に遭ったのはほとんどが町人で、軽傷が三件、重傷が二件、そして殺しが二件あった。殺しは二件とも、たったの一太刀で命を奪われている。殺されたのはどちらも浪人者だ。
たった一太刀で相手を屠れる手練れなど、滅多にいるものではない。しかも刀を持った浪人を、である。下手人は同一人物で、まず間違いあるまい。
ただ斬るだけなら町人相手で事は済む。事実、たいていの辻斬りは丸腰の町人を狙う。浪人を狙うなら先刻、兵悟を襲った連中のように多勢を頼むはずだ。つまりこの下手人は、自分の腕によほど自信があるのだ。わざわざ浪人を狙う辺り、腕試しのつもりなのかも知れない。
その二件の殺しと、川口という浪人とお美代を殺した下手人が同じなら、そいつはきっとまたやるだろう。人斬りの味を覚え外道に堕ちた男を、兵悟は何人か見たことがある。かつて兵悟が斬り殺した男も、そんな外道の一人であった。
血に飢えた獣のように、この辻斬りも
場所が深川界隈に集中しているのは土地勘があるからだろう。逃げるときの算段を考えれば、土地に明るい方が都合が良い。おそらく下手人は、深川近辺に住んでいる者に違いあるまい。
兵悟はまた歩き出した。亀久橋を渡り、東平野町を抜け、
仙台堀の水面に映る月を眺めて歩くうちに、ふとどこからか梅の薫りが鼻先に匂った。もうそんな時期かと思った。季節の流れるのは早い。
あれから十年。梅の薫りは忘れたはずの故郷を思い出させる。いま時分、水戸の偕楽園は梅の見頃であろう。
犬廻兵悟は徳川御三家の一つ、水戸藩の生まれである。十人扶持にも満たない貧しい武家の三男で、元の名前を
武士の子らしく学問と剣術は習わせて貰ったが、下級武士の三男など使用人も同然の扱いである。最も偉いのは跡継ぎである長男であり、着る物から食事まで何もかもが区別された。それだけならまだしも、長兄は横暴な性格で何かと三兵太に辛く当たった。顎でこき使われるだけでなく、理不尽な理由で
父も母もそれを当たり前と見做しているのか、長兄を諫めようともしない。それどころか三平太の方にこそ非がある口振りで
しかし三兵太の負けん気の強い性格は、それで挫けることはなかった。学問は苦手であったが、剣術には才があったらしく、元服を迎える頃には二人の兄を凌ぐまでになっていた。
転機が訪れたのは十八の年だ。ある日、二人の兄と諍いになった。理由など覚えていない。どうせ些細なことだったのだろう。
日頃の鬱憤が溜まっていたのもあり、気付けば二人の兄を木剣で散々に叩きのめしていた。普段は威張りくさっている兄たちの、床に倒れ呻き声を上げる情けない姿を見下ろすうちに、急に全てが馬鹿らしくなった。
家にあった僅かな金を懐に突っ込み、腰に大小の刀を差して、着の身着のまま江戸を目指した。水戸から江戸まで約二十九里。歩いて二泊三日ほどの距離である。
警戒したが、追っ手が掛かることはなかった。長兄と次兄が二人も揃って弟に叩きのめされるなど、世間に知られればそれこそ家の恥晒しである。さらに脱藩ともなれば、その罪は親族にも及ぶ。家名断絶は免れまい。
おそらく自分は病死でもしたことにされるだろう。藤村三兵太という男は死んだのだと思った。
江戸で何とか裏長屋に住まいを見つけ、用心棒稼業を始めて間もなく、犬廻兵悟と名を改めた。まるで野良犬がうろつき廻るような生き方への自嘲であり、これからは己の好きに生きるのだという望みでもあった。
静かに降り注ぐ月明かりが、仙台堀の水面に己の影を映す。じっと見つめていると、この十年という月日が瞬く間の夢のようですらある。
己はこれから
歩きながら物思いに耽っていると、
だがその歩き方に一切の無駄がない。本当に強い侍は、佇まいや歩き方だけで分かる。重心が低く、頭を上下に揺らさず、氷上を滑るように進んでゆく。あの男なら相手を一刀で斬り捨てる腕を持っていてもおかしくあるまい。
そう当たりを付けた兵悟は、男の背中をこっそり尾けることにした。
(続く)
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