第一幕 その男、用心棒につき
「なんだい、今朝はずいぶん早いじゃないか。もう少しゆっくりしておいきよ」
身支度を整える男の背中に、お
「今日は
「だから、もういっそ
お登勢は深川で
半年前、タチの悪い
「そういう訳にもいかねぇだろ。それじゃあ、ただのヒモだ」
「まったく、風来坊のくせに妙なところで律義だねぇ・・・」
呆れ顔のお登勢に見送られながら、その男、
肩まで伸びた総髪を後ろで一つに結わえた、痩せぎすの目付きの鋭い男だった。見るからに無頼な様子が、どこか餓えた野良犬を連想させる。
十八の歳で江戸に出て来て十年、今では江戸言葉もすっかり様になった。主な稼業は用心棒である。腕っぷし以外には取り柄のない男であった。
右手を流れる仙台堀を、荷を積んだ舟が通り過ぎてゆく。朝五つ。往来はとっくに人の波が往き来している。遠く西の彼方に富士のお山がくっきりと見える。年の瀬も迫りつつある寒空に、熊手で掻いたような雲が幾筋か流れていた。
橋を渡ってそろそろ伊勢崎町に差し掛った辺り、行く手に人だかりが出来ている。物見高い江戸っ子たちとはいえ、こんな朝っぱらから何の騒ぎか。
人だかりの一番後ろにいた、職人風の男の肩を突っついて尋ねてみた。
「いってぇ何の騒ぎだい」
「人殺しよ」
「人殺し?」
男は頷く。
「それが一家皆殺しってぇ話だ。女も子供も見境ねぇ。ひでぇもんだぜ」
そのとき人だかりから一斉にわっと声が上がった。人垣の間から首を伸ばして覗き込むと、
遺体は全部で十一。うち二つは戸板の上に掛けられた
「・・・・・
兵悟は顔をしかめ舌打ちした。
「押し込み強盗かねぇ。それにしたって皆殺したぁ、慈悲の
先ほどの職人風の男に話しかけると、遺体に向かって手を合わせていた彼も
「まったくだ。可哀想によぉ。もうすぐ正月だってのに物騒な世の中だぜ」
のちに知った話によると、殺されたのは田島屋の主人、
番頭の
その日のまだ夜も明け切らない朝早く、お
最初は押し込み強盗だろうと思われたが、蔵は破られておらず、店の金は一切手が付けられていない。では田島屋に恨みある者の犯行かと疑われたが、忠平衛の人柄は温厚篤実で人望も厚く、貧乏人相手の金貸しでも
また現場の痕跡から察するに、下手人は一人か多くても二人という話で、この恐るべき殺人鬼に深川だけでなく江戸中の庶民が震え上がった。
南町奉行所の同心や岡っ引きらの探索にも関わらず、事件解決の目星も付かないまま、本所深川の年の瀬は早くも暮れて行ったのである。
明けて文久三年、正月も十日を過ぎた頃。日も落ちた暮れ六つ、犬廻兵悟は「お
「いらっしゃい。あら兵悟さん、久しぶり」
明るい笑顔で迎えてくれたのは、島田に髪を結い、格子縞の入った
「暮れから年明けに掛けて、日野の方に行ってたからなぁ。正月は向こうで迎えたよ。とりあえず熱いの一本付けてくれ」
そう言って腰から大刀を外し、小上がりの座敷に腰を下ろす。この男、一見すると取っつきにくそうな風貌だが、話せば人当たりは悪くない。
「ずいぶん遠くまで行ってたのね。用心棒のお仕事?」
「まぁな。とある庄屋の家に不逞浪士が三人、たびたび金を脅し取りに来やがるってんで、用心棒に呼ばれたのよ」
「へぇ、それで三人ともやっつけたの?」
お美代が目を輝かす。この娘、なぜか用心棒の荒事話が好きだった。
「それがその庄屋の息子二人がヤットウやってやがって、これがなかなか強いのよ。ただ喧嘩はしたこたねぇってんで、念のため俺が雇われた訳さ。浪士三人のうち二人はその兄弟が木剣でノシちまった。俺が出る幕はほとんどなかったぜ」
残る浪士一人は腕が立ちそうだったので、兵悟が相手をした。真剣の立ち合いになったが、三合ほど斬り結んで、兵悟が相手の小手を斬って勝負は着いた。
用心棒を稼業にして長いが、立ち合う相手は
嘉永四年(一八五三)の黒船来航以来、江戸の治安は悪くなる一方であった。尊王攘夷を掲げる不逞浪士が
それは江戸市中を離れた農村部でも同じである。浪人どもが村々を徘徊して金銭を
武士の失業は深刻な治安問題であった。任官からあぶれた浪人どもにとって、尊王攘夷の大義名分は金銭にありつく絶好の機会だったのである。
「でも凄いわね。その庄屋の息子さんたち。相手はお侍でしょう?」
お美代が目を丸くするのを見て、兵悟は笑った。
「今どき百姓や町人が剣術習うのなんざ珍しくもねぇよ。下手すりゃそこいらの侍より使えるぜ」
そもそも百姓や町人は剣術を禁止されていた訳ではない。御用町人や帯刀を免許された有力百姓などは大小の二本差しが認められているし、二尺五寸を越えない脇差一本なら腰に差していても咎められることはない。
江戸市中にも三百近くの道場が軒を並べ、町人たちが侍に混じって足繁く稽古に通っている。
文化二年(一八〇五)、百姓の武芸習得を禁じる触れ書きが出され、遅れて天保十四年(一八四三)、江戸の町人に武術稽古禁止が示達されたが、そんなものはどこ吹く風で何の効力も持たず、現在ではほとんど忘れ去られている。
なぜ百姓町人がそれほど剣術に熱心か。
一つには隣国、清が英国との戦に敗れて領土の一部を奪われたことにより、
将軍のお膝元たる江戸に安住しているという驕りがあるのか、この期に及んで太平楽を決め込んでいる旗本や御家人がいまだ多いのに比べ、百姓や町人の方が遥かに時流に敏感であるように兵悟には思えた。
「おい、お美代。いつまでもくっちゃべってねぇで料理を運ばねぇかい!」
店の奥の
その様子を兵悟は微笑ましい思いで眺めた。兵悟がこの店に通い始めた頃はてんで子供だったが、最近はすっかり大人びて綺麗になった。お美代目当てに通う常連客も多い。だがつい先日、幼なじみで三つ年上の大工の
母親を亡くして以来、ずっと親父を支えて店を切り盛りして来た娘だ。少し寂しい気もするが、あんな気立ての優しい娘が幸せになるのは良いことだと思った。
「そういや
お
「ううん、まだ。でも桜が咲く頃にはって、喜助さんと話してる」
「そうかい。じゃあ決まったら教えてくんな。祝い酒の一本も届けるぜ」
「うふふ、ありがと」
髪に挿した銀細工の
「久しいな、犬廻」
鴨鍋を突っ付きながら一人でちびちび酒を呑んでいると、傍らから野太い声が聞こえた。髪を
「おお、堀田さんか。しばらくだな。こっちへ上がりなよ。一緒に呑もうぜ」
男の名は、
身の丈五尺五寸の兵悟より一回り以上大きい、六尺を越える威丈夫だ。上背だけでなく鍛えられて厚みのある見事な体躯である。二重瞼の大きな目と太い眉、キッと結んだ口元が意志の強さを感じさせる。歳は兵悟より三つ上の三十一。剣は
知り合ったのは二年ほど前だ。この店にたまたま居合わせた折、酔って暴れる五人の浪人どもを二人で叩き出した。
それ以来、店で顔を会わせれば一緒に呑む仲になった。三百石の旗本と無頼の用心棒、育ちも身分も違うが何故か妙に気が合った。
「鴨鍋か。拙者も同じものを貰おう。それと
兵悟の手元を覗きこんで、堀田がお美代に注文する。
「おや、堀田さん。腰の
二本差しを外して向かい側に腰を下ろす堀田に、兵悟は尋ねた。
「・・・・・ああ。ちょっとした縁あって、知り合いから業物を譲り受けてな」
背後に置いた大刀の上に、掌をそっと置く。目立つ
以前の差料は
「さすがに店の中で刀を抜く訳にもいくまい。いずれ機会があれば見せよう」
「楽しみにしてるよ」
やがて銚子が一つ、堀田の元に運ばれて来て、二人は手酌で酒を呑んだ。
「そういえば、おぬしに話があった」
堀田は思い出したように呟くと、僅かに居住まいを正した。
「なんでぇ、改まって」
「おぬし、京へ行く気はないか?」
「───京?」
怪訝そうに眉根を寄せる兵悟に、堀田が真面目な表情で頷いた。
(続く)
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