(8)
24.
早稲田通りまで全力で走った。
ケイコにはああ言ったけれど、本当はなにが大丈夫なのか自分でも分からなかった。ただ怒りだけが僕を突き動かしていた。マチコを巻き込んだのは自分だと思った。
早稲田通りでタクシーを拾って、小平まで、と運転手に告げた。
行き先を尋ねるときにちらっと僕の怒りに歪んだ顔を見て、運転手の顔に一瞬後悔の色が浮かんだ。走り始めても話しかけてこなかった。それはそうだろう、目の辺りを腫らして必死の形相をした僕がはあはあと息をしているのだから。
僕は息を整えながら、なぜワタベマチコのことがあいつらに分かったのか考えた。やっぱり奴らは僕の手帳を見たのだ。あのとき。恐らくケイコの住民票を持っていたのも。くそ。ぼんくらだと思っていた僕が馬鹿だった。
タクシーは青梅街道に入り、真っ直ぐに小平を目指して行く。僕はようやく息が整うと、ケイコのことを思った。なぜかもう会えないような気がして背筋に寒気を覚えた。僕はまた今朝見た夢を思い出した。周りからチューブが伸びてきて僕のからだに絡み付いてくるような気がした。これは恐怖なのだろうか、と僕は考えた。もしかしたら僕は死ぬのだろうか。そうだとしたらいったいなんのために? しかし、アドレナリンが支配しているいまの僕には、いくら考えても答えは見つからなかった。僕は考えるのを一切止めた。
くるみハイツの向かい側でタクシーを降りると、僕は通りの向こうの二階に明かりが灯っているのを見上げた。一階のスナックからはカラオケの音が漏れていた。相変わらず辺りは人通りはなかった。僕はガードレールに腰掛けて、マイルドセブンを一本取り出して吸った。煙を吐き出しながら、僕は思った。ああ、またここに来てしまった。ここは本当に嫌な場所だ。ケイコの言うように、まだ彼女の亭主の邪悪さが残っているようだ。まるで未だに地下の駐車場の車の中には武史の死体があって、そこから腐臭が漂ってくるようだった。ここは僕にとっていったいなんなのだろう? 僕の死に場所なのだろうか? 不思議と恐怖は感じなかった。ただ不快なだけだ。僕は煙草をフィルター近くまで吸うと、アスファルトに捨ててリーボックのスニーカーで踏んで消した。そして通りの向こう側に歩き始めた。
スナックの脇を通り過ぎると、どうやら中で唄っているのは「川の流れのように」のようだった。階段の下でもう一度トカレフを触って確かめると、僕は階段を上った。
例のドアの前に立つと、一度深呼吸をした。右手にトカレフを握った。大丈夫だ。自分で言い聞かせた。大丈夫だ。
試しにドアのノブをそっと回してみた。鍵はかかっていなかった。僕は音を立てないようにゆっくりとドアを開けると、中に入って同じように音を立てないようにドアを閉めた。部屋のどこかから女の嫌、と泣き叫ぶ声が聞こえる。僕は新たな怒りが足元からゆっくりと自分を満たして行くのを覚えた。それはとても言いようのない怒りだった。
トカレフを右手に構えながら、スニーカーのままで足音を立てないように玄関の突き当たりまで行った。マチコの泣き声に混じって、先日ボコボコにされた部屋からはテレビの深夜番組の音が聞こえる。僕はドアを開けると中に入った。
ソファに金髪の金田が座って、テレビを見ていた。僕が入っていくと、例の三白眼を見開いて、あ、と小さく声を出してそのまま呆けたように口を開けて僕とトカレフを見て固まった。僕は近寄るとトカレフの銃口を金田の額に押し付けた。金田は口を開けたまま、もう一度、あ、と言った。僕は顔を近づけると声を殺して、伏せろ、と言った。金田はひっと小さく声をあげると、ソファに顔を埋めるように伏せた。僕はトカレフを左手に持ち替えて、テーブルの上の、先日僕がしこたま顔を打ったクリスタルガラスの灰皿を右手に持つと、金田の後頭部に思いきり振り下ろした。ぐっと言って金田はからだを一瞬のけぞらせると、動かなくなった。血が飛び散ったが、ソファがクッションになっているので、死んではいないかもしれない。念のために、部屋の床に落ちていたコンビニのポリ袋で両手を後ろ手に縛った。僕はもしかしたらもう人を殺したのだ、と思った。しかし、不思議なもので怖くなかった。何も感じなかった。案外平気なものだな、と思った。それとも後になって怖くなるのだろうか。
ワタベマチコの泣き声は奥のドアの向こうから漏れ聞こえてくる。ベッドがぎしぎし言う音とともに。
僕はそのドアを開けた。中は寝室らしく、部屋の中央にセミダブルサイズのベッドが置いてあった。その上で、頭にヘッドフォンをしてせかせかと腰を動かしている醜悪なデブの裸の後姿が見えた。薄汚い尻と肉のはみ出した横腹の向こうに、這いつくばって涙で顔をくしゃくしゃにしているキョンキョンそっくりのワタベマチコが見えた。彼女は後ろから犯されているところだった。僕はデブに後ろから近寄ると、禿頭からヘッドフォンを引き剥がした。驚いて玉井がこちらを振り向いた。床に落ちたヘッドフォンからは演歌が漏れ聞こえていた。最低、と僕は思った。
「離れろ」
僕は両手でトカレフを構えて言った。玉井は目を見開いたまま、まだ腰を動かしている。
「離れろ」
僕はもう一度言った。ベッドの脇の床には、ワタベマチコのものらしいジーンズとTシャツとともに、僕があげたロゴ入りのスタッフジャンパーが脱ぎ捨ててあった。ようやく状況を把握したらしい玉井がこちらを向いてちょうど正座をするような格好で動きを止めた。ワタベマチコが僕に気付いて、ケンジくん、と涙声で言った。
「マチコちゃん、こっちに来て服を来て」
玉井に銃口を向けたまま、僕が声をかけると、ワタベマチコはベッドから飛び降りて、床から服を拾うと裸のまま僕の背中にしがみついた。そして背中に顔を押し付けてしゃくりあげて泣いた。
「いいから早く服を着て。隣の部屋に行って。大丈夫、金田はオレが殺したから」
そう言うと、ワタベマチコはようやく背中から離れて、隣の部屋に行った。
玉井は目を見開いたまま、はあはあと肩で息をしていた。禿頭から汗がしたたり落ちている。
「免許証」
僕は銃を構えたまま言った。玉井はヘッドフォンを繋いでいたベッドサイドのミニコンポを指差した。
「こっちへ投げろ、デブ」
僕が言うと、玉井はのろのろと手を伸ばしてミニコンポの上に置いてあった僕の免許証を取って、こちらに放った。それは僕の足元に落ちた。
これで十分だ、という声がアタマのどこかから聞こえた。もうすべて手に入れた。これで十分だ、と。後はワタベマチコを連れてケイコのところへ戻るんだ。
もうひとつの声も聞こえる。殺せ。お前はもうひとり殺したんだ。こいつを殺さなければなにも解決しない。引き鉄を引けばそれでオーケイだ。それでお前もケイコもマチコも自由だ。殺せ。
僕は混乱していた。顔を汗がしたたり落ちる。ああ、どうしたらいいんだ。この一週間と同じだ。なにがホントでなにがホントじゃないのか。これが果たして現実なのか。金田は本当に死んだのか。僕は人を殺したのか。そして殺すべきなのか。
服を着終わったらしいワタベマチコの声が背中の方から聞こえる。やめて、ケンジくん。やめて、というケイコの涙声もアタマの片隅で聞こえる。無理すんな、という高杉の声も。もう一度ワタベマチコが泣きながら叫んだ。やめて、ケンジくん、逃げようよ。ケイコの声がまた聞こえてくる。お願い、行かないで。わたしのこと好き? チューブが周りから伸びてきて僕に絡み付く。僕はなにをしているのだろう? これはいったいなんなのだろう? 誰か教えてくれ、どれがホントでどれが嘘なんだ?
そして僕は引き鉄を引いた。
25.
カチッという音がした。
弾は出なかった。もう一度引き鉄を引いた。カチッ。二度、三度。カチッ、カチッ。
なんだこれは。弾が入ってないじゃないか。
玉井の二重三重になった顎が動いて、奴がにやっと笑ったんだと気付いた。のそっとベッドの上に仁王立ちになると、ガキが、と例のしゃがれ声で言った。
僕は両手で弾の入っていないトカレフを握ったまま、まだ引き鉄を引いていた。何度引いたんだろう? どうして弾が出ないんだろう? チューブが僕に絡み付く。わたしのこと好き? 僕は死ぬのだろうか、ケイコ?
玉井がスローモーションで動いている。ベッドサイドに降りて、壁に立てかけてあった日本刀を抜くのが見える。まるでコマ送りを見ているようだ。僕はまだ銃を構えている。早く逃げろ、とアタマのどこかで声がする。玉井が日本刀を持ってゆっくりとこちらに足を踏み出している。太鼓腹の下に醜悪な性器が見える。半端な刺青の入った太い腕を汗が伝っている。日本刀の先がきらりと光る。その先がゆっくりと持ち上がるのが見える。ゆっくりと。まるで昔見た眠狂四郎の円月殺法みたいだ。ああ、僕は死ぬんだな、と思った。
「そこまでだっちゅうの」
どこかで聞いた声だ。
ブスッという音がした。玉井のてらてら光る額に赤い穴が開いた。もう一度ブスッという音がして今度は女の乳房のような胸に赤い点ができた。そして玉井はゆっくりと仰向けに倒れた。
僕はなにが起きたのか分からなかった。これはホントなのか? 夢なのか現実なのか?
急に酷い疲れがからだ中を襲った。トカレフがまるで何トンもの重さがあるように感じられて、僕はようやく両手を降ろした。
振り向くと高杉がいた。右手にサイレンサーの付いた拳銃をぶら下げて。
「まったく、世話焼かせるよ、素人は」
そう言うと、高杉は僕の肩をぽんと叩いた。それでようやく僕は我に返った。僕は鉛のように重くなったからだを折り曲げて、足元の免許証を拾った。
「高杉さん、これ」
僕がトカレフを見せると、高杉は言った。
「ケイコが泣きながら電話かけてきてさ、弾抜いちゃったって。お前が寝てる間に」
ケイコは僕を人殺しにしたくなかったのか。
高杉は僕の肩を掴んで隣の部屋に引っ張って行った。いつのまにかワタベマチコの他に、スーツを着た商社マンみたいな端正な男が立っていた。男は僕を見ると、軽く頭を下げた。高杉が言った。
「紹介するわ。オレの大学の後輩で、桃田」
僕は唖然として言葉が出なかった。
「そんなわけだから心配するな。後はこいつが始末するから」
僕は思い出してソファの金田に目をやった。金田は相変わらずの姿勢で動かなかった。僕がそれを指差して、これ、と言うと、桃田が口を開いた。
「大丈夫。死んでません」
「そんなわけだから、お前は彼女をオレの車に乗せてやってくれ」
高杉はそう言うと、僕のあげたスタッフジャンパーを着て身を震わせているワタベマチコを見やった。僕は座り込んでいる彼女に手を貸して、さあ行こうと声をかけた。
僕は彼女の肩を抱きかかえながら玄関の方に向かおうとして、ふと思い出して桃田に声をかけた。
「あの」
「わたしらはブツが戻ればそれでいいんです。ご迷惑をおかけしました」
桃田はそう言うと、にこっと爽やかに笑った。ケイコの言ったように本当に物腰の柔らかい男だった。僕はぺこりと頭を下げると、ワタベマチコの背を押して玄関へと向かった。ちらっと後ろを降り返ると、桃田がソファに伸びている金田の頭にクッションを載せて拳銃を胸元から取り出すのが見えた。玄関でワタベマチコが靴を穿いていると、ブスッという鈍い銃声が聞こえた。
僕はマンションの向かい側に停めてあった高杉のブルーバードの後部座席にワタベマチコと並んで座っていた。ワタベマチコはまだ泣いていた。僕は彼女を抱き締めて、もう大丈夫だからと何度も囁いた。
五分ほど待つと、高杉が降りてきた。高杉は運転席に座ると、こちらを振り向いて言った。
「その子どうする?」
僕は驚いて慌てながら言った。
「この子は大丈夫です。ホントに口固いから」
「そういう意味じゃないよ」高杉は苦笑した。「どっちにしても死体が出なかったら事件にもならんだろ。そうじゃなくて、その子んちに送り届けるか、とりあえずお前んちに送るかってことだ。ま、たぶん今日はひとりでいたくないだろうから、泊めてやってくれよ」
僕はほっとしてうなずいた。
車が走り始めてしばらくすると、ワタベマチコは僕の腕の中で泣き疲れたのか寝息を立て始めた。
「眠ったのか?」
運転席から高杉が声をかけてきた。僕はうん、と答えた。
「なあ」高杉はバックミラーで僕をちらりと見ながら言った。「どんな感じがした? 怖かったか?」
「怖いとかは思わなかった。後でどうなるかは知らないけど」
「やっぱりお前オレの弟子にならないか?」
「考えときます。ねえ、高杉さん」
「なんだ?」
「本当に金田は死んでなかったんですか?」
「どっちでもいいんじゃねえか?」
そう言うと、高杉はカセットをカーステレオに入れた。ジョン・レノンの「イマジン」が聞こえてきた。僕はそれを聞きながら、今度こそ信じようと思った。高杉も、桃田も、そしてもちろんケイコも。しかし、どうしてもまだ引っ掛かるところが残っていた。ジョン・レノンはすべての人が平和に暮らすことを想像しろと唄っていた。
早稲田通りを入るころにワタベマチコは目を覚ました。僕は今日はうちに泊まるんだ、いいね、と言った。ワタベマチコはこくんとうなずくと僕の胸に顔を埋めた。
アパートの前に車が停まると、僕はワタベマチコを抱きかかえるように降りた。高杉も一緒についてきた。
部屋の前まで来ると、僕は胸騒ぎを覚えた。嫌な感じがした。
ドアには鍵が掛かっておらず、僕はワタベマチコを連れてドアを開けるとケイコ、と声に出した。しかし、部屋には人の気配はなかった。ケイコはまた僕の前から姿を消した。そして、もう二度と会えないのだと僕には分かった。
コタツ兼テーブルの上に、シャブの残りの半分がフリーザーバッグに入ってちょこんと乗っていた。その下にメモが挟んであった。
それにはこう書いてあった。
ごめんね。 ケイコ
僕は膝を付いてそれを読むと、涙がひとりでに湧いてきた。後から後から湧いてきた。
ワタベマチコをベッドに寝かせていた高杉が僕の傍らに来てぽつりと言った。
「振られちゃったか」
その口調にはいつもの茶化しているような感じはなかった。僕は涙を手で拭うと、下を向いたままテーブルの上のシャブを高杉に手渡した。高杉はそれを受け取ると、玄関に向かいながら僕に声をかけた。
「じゃあな。元気出せよ。気が向いたら電話でもくれ」
背中でドアの閉まる音がした。僕はもう一度メモを見た。ごめんね。僕ははっと気付くと、慌ててスニーカーをつっかけて表に飛び出した。
高杉はちょうどエンジンをかけたところだった。僕が走ってくるのを見ると、ウィンドウを開けた。
「どうかしたか?」
僕はウィンドウに手をつくと、はあはあと息を切らせながら言った。
「ケイコが殺したんですね?」
「なに言ってんだ? いまさら」
「彼女が殺したんですね?」
僕はもう一度問い詰めた。彼女の言っていたことはどこか無理があった。僕はそれを分かっていながら分かろうとしなかった。
高杉はしばらく前方を見て黙っていたが、エンジンを切るとショートホープに火を点けた。そして口を開いた。
「なんで分かった」
「そうじゃなきゃ辻褄合わないんですよ。高杉さんが殺したんなら、シャブを見逃すはずはない。彼女が持って逃げるはずがない」
「いいセン行ってるが、ちょっと違うな」
高杉はふうっと煙を吐き出した。いつかケイコが僕と高杉が似たもの同士、と言っていたことを思い出した。やたらと煙草を吸って、コーヒーが好きなところは確かに似ているかもしれない。
「考えてみろ。オレがふた月もうろうろするほど要領が悪いように見えるか? オレが首を突っ込んだのは今月、あ、月変わったから先月か、とにかく最近の話だよ。だいたいお前に辿り着くのに一ヶ月も掛かるわけないだろ? ケイコがいなくなったのは九月に入ってからだ。それから桃田が玉井を締め上げてようやくシャブの存在が分かった。武史の悪さが組にバレたのは奴が死んでからの話だ。彼女は先月まであそこにいたんだよ。たぶんシャブをどこかに隠して、タマにやって来る玉井や金田をトカレフをちらつかせて追い払いながら」
彼女はなぜ武史が死んでからもあの部屋に留まったのか。それは彼女が留まらざるを得なかったからだ。当日に姿を消してしまっては自分が殺したと言っているようなものだ。彼女の犯した間違いは、凶器と一緒に余計なものまで持ち出してしまったことだ。いや、持ち出さざるを得なかった。警察の余計な詮索を免れるためには。結局、彼女は最初からがんじがらめのところにいたのだ。傍から見れば、早々に玉井たちにシャブを渡してしまえば、とも思ってしまうが、たぶん、一度僕の部屋に隠してしまったがために、彼女はシャブを持っていないと言い続けるしかなかった。それに渡しただけでは済まないと思ったのだろう。それぐらい彼女は恐怖で追い詰められていた。
彼女は玉井たちが合鍵を持っていたので、彼らが来るようになってからはなかなか外出もままならなかったのだろう。あの趣味の悪い部屋で、恐怖に膝を抱えながら。そして僕の部屋に電話をしてみても、留守電が流れるだけだった。僕はそのことを考えると胃がきりきりと痛んだ。
「あの日、武史が殺された日の二三日前から、三階に住んでるスナックのオヤジが階段から落ちて一週間ばかり入院してたんだ。一階のスナックも当然休業だ。彼女にしてみれば、今しかないと思ったんだろうな」
高杉はそう言うと煙草を灰皿で揉み消した。僕は追い詰められた彼女を思い浮かべて胸が痛くなった。なぜ彼女がそこまで追い詰められなければならなかったのか。武史という極道の担当になってしまった。ただそれだけのことで。僕はその理不尽さに改めて胸が締めつけられるようだった。
分からないことがもうひとつあった。桃田との関係を持ち出せば、もっと簡単に僕からシャブを手に入れられたはずだ。もっとも、あのとき僕がその話を信じられたかどうかは別だが。
「まあ、人を簡単に信用しちゃいかん、ってことだ。オレの誤算は、お前がやくざと聞いても案外びびんなかったことかな。それと思いの他無鉄砲だったってことだ」
僕はさらに問い詰めた。
「どうしてあの喫茶店で本当のことを言わなかったんですか?」
「なあケンジ」高杉は初めて僕を名前で呼んだ。「あの子は本気でお前に惚れてたよ」
そう言うと高杉はエンジンを掛け直して、あの人懐っこい笑みを浮かべてから走り去った。
26.
夢を見ていた。
それは悪夢のようでもあるし、そうではないようでもあるし、そもそも夢なんてものをつぶさに覚えていることなど滅多にないのだ。大概の場合、起きてしばらくすると跡形もなく消えてしまう。僕がうなされるのは、そのさなかにいる間だけだ。夢とは所詮そういうものだ。
また電話が鳴っていた。それで僕の夢はフェイド・アウトした。電話で起きるのは今週何度目だろう? そのうちいい電話は何本あったのだろう? 夢の中でも電話は鳴るのだろうか? 音を立てて。
僕はベッドから起き上がった。傍らにはワタベマチコが寝ている。昨夜一緒に寝てくれとせがまれたのだ。彼女はよほど憔悴していたと見えて、電話の音でも起きる気配はない。
僕は隣の部屋に行き、受話器を取った。もう誰からの電話とか、いい電話なのかそうではないのかとか、そんなことは考えないことにした。大体いい予感なんてものは滅多にないし、受話器の向こうにあるのは現実のひとつに過ぎない。数多くの現実のうちのひとつが、気まぐれでやってくるのに過ぎないのだ。
「もしもし」
そういえば僕は名乗らないのが癖になってしまっている。受話器の向こうは無言だ。もう一度言ってみる。
「もしもし」
もしかしたらこれは夢の続きで、どこにも繋がっていないのだろうか? どの現実にも。
そんなことを考え始めた途端に、声が聞こえた。
「よかった。生きてたんだね」
ケイコだった。僕はやっぱりこれは夢の続きなのかもしれないと思った。どちらでもよかった。昨夜僕が分かったと思ったことも、確証があるわけでもない。僕が分かっていることなど高が知れている。現実はいまだに謎だらけだ。それはいつまで経っても平行線を辿り、辻褄が合うことなどないようにさえ思える。僕はその間をふらふらとさまようだけだ。
それでも僕は返事をする。
「うん」
「よかった。本当によかった」
受話器の向こうから聞こえるケイコの声は涙声だった。僕は次になんと声をかけようか考えた。なんと言っていいのか分からない。結局僕の口から出たのは、なんとも間が抜けたものだった。
「元気?」
「ごめんね、ケンジ。わたしいっぱい嘘ついた」
大丈夫だ、ケイコ、嘘を吐くのはきみだけじゃない。そもそも僕には嘘と現実の区別がつかない。だからすべてが嘘であっても不思議ではないし、すべてが本当であっても不思議ではない。
「オレのこと好き?」
「好きよ」
「ならいいんだ」
「ありがとう。……さよなら」
それで電話は切れた。今のは現実だったのだろうか? 夢だったのだろうか? たぶんそれはどちらでもいいのだ。さほどの違いがあるわけではない。でも、だったらなぜ僕は涙を流しているのだろう?
昨夜は熟睡するワタベマチコの隣で、しばらく寝つけなかった。からだはまるで自分のものではないように疲れ果てていたにもかかわらず。かといって、異様に精神だけが高ぶっていたというわけでもない。僕は混沌に身を置くことにすっかり慣れてしまっていた。僕はぼんやりと考えていた。この一週間あまりが僕にもたらしたものはいったいなんだったのか。混沌を混沌として理解することもそのひとつかもしれない。そして僕自身がその混沌のひとつであるということも。僕は金田のことを考えた。僕は果たして人を殺してしまったのだろうか? それはたぶん僕には永遠に分かるまい。今ごろは既にあの死体はどこかに運ばれて、明日の今ごろは、いつか夢に見たようにコンクリートの塊となってゆらゆらと暗い海を沈んで行くか、それともどこかの山の中で朽ち果てて行くのか。いずれにしても彼らが存在したことすら怪しくなってしまうに違いない。僕は怖くなかった。自分が殺したのだとしても。僕は彼らを殺したかった。そういう自分のことを考えても怖くはなかった。奇妙な曖昧さだけが残る。もしかしたら高杉の言うように、僕は本当に人殺しに向いているのかもしれない。ケイコはなぜ弾を抜いたのだろうか? 彼女は単に僕に人殺しをさせたくなかっただけなのか。それとも一瞬たりとも僕のことを知り過ぎた人間だと彼女が考えなかったとどうして言い切れる? 彼女はなぜいなくなったのか? 彼女は自分の過去をすべてリセットするしかなかったのかもしれない。彼女が本当に自由になるには、過去に関わるものすべてを忘れるしかないのかもしれない。そして僕もそのひとつなのだ。たぶん。
どうやらワタベマチコが目を覚ましたようだ。コーヒーを淹れよう。
―了―
ホリデイズ 高山 靖 @Sukeza
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