(7)
20.
僕は開いた口が塞がらなかった。
高杉は僕らの向かい側によいしょっと、と言いながら座った。注文を取りに来たウェイトレスにコーヒーを頼むと、例によってショートホープをポケットから取り出して火を点けた。そしてまたにやっと笑った。
「邪魔して悪いね」
どうもこれは毎度のことなのだが、僕はこの男をいまひとつ怖いと思ったことがなくて、それは多分に彼のキャラクターのせいなんだろうけど、それは今回も同じだった。ただびっくりして、半ば呆れただけである。うまい具合に水を差すタイプがいるとすれば、たぶん彼のような人間のことを言うのだろう。妙に場をなごませるというか、ほっとさせるところがあるから不思議だ。僕はせっかく会えたケイコとのツーショットを邪魔されたというよりも、重苦しい時間が続いていたので、むしろちょっとほっとしている自分に驚いた。考えてみれば高杉はケイコを探しているわけで、これは僕とケイコにとっては危機的状況のはずなのだが、思うに、僕は嫌な話を長々と聞き過ぎたのだ、たぶん。
ところがケイコの方はそうではなかったらしく、これはまあ当然と言えば当然だが、顔をこわばらせて僕にぴったり寄り添って、僕の袖をぎゅっと指で掴んだ。そして僕に耳打ちした。
「この人」
「ん?」
「この人よ、あいつを殺したの」
僕はたぶん、これ以上開かないほど目を見開いて、間抜けな表情をしていたと思う。それほどびっくりしていた。
高杉はと言えば、その間にコーヒーを運んできたウェイトレスにありがと、と言いながらうまそうにひと口すすった。そして僕らに目を上げて言った。
「ん? やっぱ邪魔? いや、これも職業的使命感ってやつで」
彼はそこまで言ってまたコーヒーをひと口飲んでから続けた。
「ようやっと会えたね、ケイコさん」
そう言うと、ケイコに向かってにやっと笑った。僕にはどうにもこれが緊張感に欠けるものに感じられるのだが、ケイコは相変わらず顔をこわばらせ、恐らく恐怖に目を見開いていた。
ケイコの言っていることは本当なのだろうか? 本当に高杉はケイコの亭主を殺したのか? 恐らくそれは本当なのだろう。しかし、なぜか恐怖は感じなかった。怖い男だと思うことと、怖いと思うことは別だ。それに、僕にはどうしても高杉がケイコをやくざに簡単に売り渡すような人間には思えなかった。それは先日助けてもらったせいもあるが、もしかしたら僕は彼を買い被っているのだろうか? だとしたらこれは相当焦らなければならない状況なのだが、僕にはどうしてもそうは思えなかった。とにかく、僕は口を開いた。
「脅かさないでくださいよ。こういうのって反則じゃないかなあ」
高杉は相変わらず呑気な様子で答える。
「反則? だから職業的使命感ってやつなんだって」
「いつからいたんですか?」
「まあ、それも職業上の秘密ってやつだ」
僕は仏頂面をしながらジーンズのポケットから財布を取り出すと、千円札を一枚出してテーブルに置いた。
「はいこれ」
「意外と律儀だね」
「これで貸し借りなしですよ」
「五百万貸してたんじゃなかったっけ?」
「ああ、あれはもういいです。どうせ作れないから」
「じゃあ、この子どうするの?」
「それはこっちが訊きたいですよ。なんなら僕が身代わりってのはどうです?」
高杉はへ、と言うと眉毛を上げて呆れた顔をした。
「相変わらずポップだなあ、言うことが」
「それはお互いさまだと思うけど」
ケイコは握り締めた僕の袖を引っ張ると、眉をひそめながら耳元で言った。
「ねえ、この人知り合いなの?」
「んー、ちょっとね」
僕は説明に困った。ケイコはいったいどっちの味方なの、とでも言いたそうに僕を睨んでいる。そこに高杉が口を挟んだ。
「おいおい、ちゃんと紹介してくれよ」
「あ、この人探偵の高杉さん」
言いながら、なんでやくざに雇われてケイコを探している奴を本人に紹介しなきゃなんないんだ、というクエスチョンマークが僕の頭上に点灯していた。
ケイコが耳元で、マチコが言ってた探偵ってこの人だったんだ、と囁いた。
僕はようやくシリアスな表情を作ると、高杉に言った。
「説明してくださいよ」
「なにを?」
「彼女はあなたが殺したって言ってるんです」
「ああ」高杉はそれがどうしたという顔で、ショートホープをひとつ大きく吸って煙を吐き出すと、言葉を続けた。「そのこと?」
僕はとにかく、相手のペースに乗せられてはいかん、と思って眉間に皺を寄せて睨んでいた。だが、高杉は徹底してマイペースである。
「で、どう思うのよ、きみは?」
「どう思うって……」
僕は口篭もって困った表情になった。いかん、これは高杉のペースだ。
「か、彼女を信じます」
高杉はまた呆れた表情を見せて、煙をまたひとつ吐き出した。
「だったらどうなのよ?」
「どうって……」
「彼女から話聞いたんだろ?」
「そりゃ聞いたけど」
ケイコがまた袖を引っ張って、僕を睨みつけた。
「ねえ、ケンジ、この人と友達なわけ?」
「友達? まさか」
高杉が口を挟んだ。
「なんだ、オレは友達だと思ってたけどな」
高杉の言葉に僕はなぜかちょっぴりうれしさを覚えたりする。反面、アタマの半分はこいつのペースに乗せられちゃ駄目だ、と言っていた。だいたい、人を簡単に信用するなというのは高杉が言っていた言葉だ。
だいたい、なんでケイコと会うことがバレて…… そうか。僕は一昨日高杉が僕の部屋で電話を使っていたことを思い出し、なぜ高杉がここに現れたのか思い当たった。
「友達が盗聴なんてするかな」
「友情と仕事は別だろ」
「誰が言ったんですか、そんなこと」
「えーと、少なくともオレだ」
やはり高杉のペースのような気がする。僕は話を元に戻した。
「で、どうなんですか?」
「肝心なのは」言いながら高杉はコーヒーの残りを飲み干した。
「人を簡単に信用しちゃいかんということだ」
「実際きみはよくやったよ、マカベくん。こうして彼女を見つけたし」
高杉は言った。
「ちょっと薬が効きすぎたみたいだけどな」
「薬?」
僕は一瞬なんのことかわからなかった。
「考えてみろよ、オレがそんなに簡単に依頼人のこととかべらべらしゃべる人間に見えるか?」
見えるものはしょうがない。僕が黙っていると、高杉は相変わらずの調子で続けた。
「ちょいと脅かして揺さぶってみたのさ。ま、きみはボクの助手みたいなものだったわけだ」
つまり僕がいいように利用されたということか。僕はむっとして反撃した。
「ボクって言葉似合わないですよ、高杉さん」
「悪かったな。いずれにしても、簡単に言えば、オレが殺したとしても、彼女が殺したとしても、そんなことはどうでもいいってことだ。あんな奴は死んで当然だ」
僕の袖を掴んでいたケイコの指が緩んだ。僕が首を向けると、ケイコはどこか放心したような顔をしていた。
「安心しろ、オレは彼女を殺したりしないから」高杉はもう一本、ショートホープに火を点けながら言った。「そもそも、オレが探していたのは彼女じゃなくて、そのバッグの中身の方だ」
高杉はそう言うと、ケイコのトートバッグを指差した。
21.
僕らは一斉にバッグの方を見た。
それは黒のナイロン生地で、一杯に膨らんだ状態でベンチシートの角に置いてあった。僕とケイコは、少なくとも僕は、虚を突かれた感じできょとんとしていた。それから僕はおもむろに先ほどの彼女の陰鬱な告白をフルスピードで反芻して、ひとつの結論を導いた。しかしそれはなにか酷く陳腐なものに思われた。実際、口に出してみると、もっと陳腐だった。
「シャブ?」
高杉はわざとらしく目を見開くと、斜めに顔を傾いで見せた。それはそうだと言うことらしかった。
「じゃあ、そんなもののために、僕はボコボコにされたわけですか?」
たかだかシャブごときのために。ケイコの方を見ると、彼女は肩をすくめて見せた。
「まあ、そう言うな。それでも末端では億って金になるんだ」
高杉は、オレだってうんざりしてるんだ、と言わんばかりに言った。
「まあ、こうして彼女にも会えたんだし。だいたい、シャブ探してくれって言ったって探してくんないだろ、お前?」
いつのまにか僕はお前になっていた。僕は本当にうんざりしていた。それとともにさっきとは違うところで腹が立ってきた。それは僕の中でむくむくと膨らんでいった。
「ケイコはどうなの?」僕が尋ねると、彼女はなんのことか分からずにきょとんとしていた。「渡しちゃっていいわけ、シャブ?」
「わたしはそんなもの一グラムもいらないけど」
困惑を浮かべながら彼女は答えた。僕はやりどころのない怒りを覚えながら、ケイコのバッグに手を伸ばして引き寄せると、肩を怒らせて力説した。
「オレだっていらない。けど、これは渡さない」
今度は高杉とケイコが唖然とする番だった。ケイコが僕の袖を引っ張る。
「ねえねえ、なに言ってるの?」
「とにかく、渡さない」
僕は飽くまでも言い張った。
高杉は困り果てた表情で、まるで子供をさとすように少し身を乗り出した。
「なあ、無茶言うなよ。今度はお前が追われる番になるだけだぞ。それに、そんなもの持ってたってどうにもならんだろうが」
「そういう問題じゃなくて」僕はもう意地になっていた。「とにかくそういうことじゃなくて。上手く言えないけど」
高杉はかつて僕に一度見せたように、真顔になって目をすがめると声を落として言った。
「オレにお前を殺させろって言うのか」
ケイコはまた僕の袖をぎゅっと握り締めると、僕の後ろに身を隠すように摺り寄ると、ねえ、やめて、お願い、と涙声で言った。それは一瞬高杉に言ったのかと思ったが、僕に言ってるのだと気付いた。
僕は自分でも不思議なくらいに怯むことなく、高杉を睨み続けた。誰にともなく、腹を立てていた。それはかっとするとかそういうものではなく、腹の底からむらむらと湧き上がってくる不愉快なものだった。
僕は高杉を睨みつけたまま、口を開いた。
「とにかく、こんなもののためにケイコがあんな目に遭ったり、こうして逃げ続けなきゃならないなんて許せない」
高杉はまた元の呆れた顔に戻って言った。
「だからそいつを渡しちまえば、って言ってるのに。終わったことに拘ってもしょうがないだろ」
「渡せば無事で済むって保証はどこにもないでしょう?」
「オレが保証するって言ったら?」
「どうやって?」
「どうやってって……」高杉は困り果てた表情でケイコに助けを求めた。「なあ、言ってやってくれよ、こいつに。あんたのために言ってるんだって」
だが、ケイコは先ほどの高杉のはったりにすっかり怯えてしまい、口をぎゅっとかみ締めて僕にしがみついているだけだった。
「やれやれ」高杉はベンチシートの背に背中を投げ出すと、天を仰いで煙草の煙を溜息と一緒に長々と吐き出してひとりごちた。「まったく、なんでこうなっちまうのかなあ」
ピアノトリオが終わって、マイルスの「TUTU」に替わった。僕の好きなアルバムだ。おかげで相変わらずケイコとバッグを引き寄せながら必死の形相をしてはいたものの、少しはアタマが冷静さを取り戻してきた。しかし、怒りが収まったわけではないし、第一、もう引っ込みがつかない。もしこれがキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」かなんかだったら、僕はすっかり反省しておとなしくシャブを高杉に渡してしまっていたかもしれないが、そうはならなかった。
「高杉さん」
「なに?」
「説明してもらえるかな、このシャブがいったいどういうものなのか」
高杉は困り果てた表情を見せた後、頭をぼりぼり掻きながら、しょうがねえなあとつぶやいた。
ホントはこんなこと知らない方が身のためだとは思うんだが、と前置きして、高杉は話し始めた。
彼女の亭主は組のシャブを受け持ってたんだ。ところが、どこでどう欲をかいたのか、こいつでひともうけしようと絵を描いた。元々連中は中国ルートでシャブを仕入れてたんだが、奴は組に内緒で薄めてくれと頼んだんだ。つまり、混ぜものをして量を倍にしろと。それで奴は増えた分まるごと懐に入れようと企んだ。手下ふたりも巻き込んで。そのうちシマ内で、シャブの質が落ちたという噂が広まった。まあ、それが組の耳に入ったってわけだ。まあ、シマ内でさばくにしろ、どこか他の組に持ちかけるにしろ、なんかしら足がつく可能性が高いわけで、最初っから大雑把な話だよ。やつも結局さばききれないで手元に残っちまったわけだ。元々、なんつーか、この、プロジェクトを束ねることが出来るようなタマじゃないからな、所詮無理があったってわけだ。だから組にはとうにバレバレよ。知らぬは当人ばかりなりってやつで。
セコい組だが、この組には大卒でのしてきた桃田って若い切れる奴がいて、実質こいつが組を仕切っているようなもんだが、そいつには筒抜けだったわけだ。
そこで僕は思わず口をはさんだ。
「モモダ? ナシダじゃなくて?」
「ん? 桃だ。梨じゃない」
僕はケイコをちらっと見ると、ケイコは俯いてぼそっと言った。
「似たようなものじゃない」
その桃田にしてみれば、武史は年が上ってだけで一応シャブとか任せてはいたものの、やることが無茶苦茶なので元々目の上のたんこぶだったわけだ。桃田はこれからはシャブなんかよりも土地だって言ってる方だからな。まあ、これ幸いってところだが、小さい組で幹部クラスを破門にして身内の恥を宣伝することもない、と。桃田にしてみてもその辺の事情は管理責任みたいなところもあるし、まあそれでフリーのオレんとこに話が来たわけだ。武史の始末。話としては中国側の売人と揉めたことにでもすればいいってんで。要するにとかげの尻尾切りみたいなもんだ。武史の手下ふたり、玉井と金田はエンコ詰めさせて破門よ。桃田はそのときに玉井を締め上げて武史がシャブを隠してたことを聞き出した。それで後はあいつが欲こいた分を回収すればめでたしめでたし、ってとこだったんだ。
「それがその」そこで高杉はケイコの方を向いた。「お嬢さんが話をややこしくしちまったってわけだ」
高杉はそこで一息つくと、ウェイトレスを大声で呼んで、コーヒーのお代わりを頼んだ。ついでに僕らの方を向いて、おたくらも飲む? と訊いた。僕は思わず、お願いします、と言ってしまった。この辺が高杉と話していると陥ってしまう妙な緊張感の無さである。実際、僕は喉がからからに乾いていた。ケイコはと言えば、相変わらず僕の袖をぎゅっと掴んだまま、下を向いてなにか思い詰めたように唇を噛み締めていた。
コーヒーが届くと、三人とも同時にごくりとひと口飲んで、高杉はショートホープを、僕とケイコはマイルドセブンを吸った。僕はうまい、と思ったが、同時にいかん、これは高杉のペースなのだと、改めて自分を無理に引き締めた。高杉はふうとうまそうに煙をひとつ吐き出すと、しかめつらに戻って僕に言った。
「それで、今はお前がさらにややこしくしているってわけだ」
僕は相変わらず仏頂面をしながら考えていた。とにかく納得できないものは納得できない。かと言って、この先もケイコが逃げ隠れして奴らの影に怯え続けなければならないのも困る。僕はジレンマに陥っていた。だんだん、これがケイコのための怒りなのか、自分のための怒りなのか分からなくなってきた。マイルスは例によって時折思い出したようにトランペットをクールに吹いている。
僕は考えながら膝の上に重いバッグを引き寄せ、高杉から目を離さないまま、テーブルの下で中を探った。衣類やなんかの下の方に、油紙に包まれた固いものが手に触れた。僕は冷や汗をかくほどどきりとしたが、同時にこれで少しは安心だ、とも思った。僕は油紙を開いて、冷たい感触の銃身を握った。
22.
「高杉さん」
先に僕が口を開いた。
「取り引きしませんか?」
「取り引き?」
高杉は相変わらず半分はリラックスして、半分は困ったような口調で訊き返した。
「とりあえず半分だけ渡します」
「残りの半分の条件ってなんだ?」
「僕を桃田に会わせてもらえませんか?」
「会ってどうしようっていうんだ? 下手するとわざわざ殺されに行くようなもんだぞ」
「会って直接渡して交渉します。ケイコと僕に二度とつきまとわないように」
「お前なあ、チャカ突きつけられて渡せって言われたら、はいそれまでだぞ」
「僕もこれ持ってますから」
僕はテーブルの下で拳銃の銃杷を握り締めた。高杉は身をかがめて僕の手元に目をやりながら眉をひそめた。
「素人がそんなもん持つと危ないぞ。それに相手はひとりじゃないんだ」
僕は今朝見た夢を思い出した。からだ中から血を流して、ベッドの上でチューブだらけになる自分を想像して一瞬身震いした。
「桃田って人は話がそんなに分からない人間なんですか?」
「そんなことはないが、うーん……」
高杉は本当に困り果てた顔をした。僕は僕で自分がもしかしたらとてつもなく無謀なことをしているのかもしれないとアタマの片隅で思っていた。ホントに火に向かって飛び込むようなものかもしれないと。しかし、もう僕は坂道を転がっているようなものだった。一番の原因はとにかく信じられないものだらけだということだ。果てはケイコのことまで信じられなくなりそうだった。とにかく確かなものが必要だった。僕は必死だった。
「オレに任せておけば問題ないのになあ。オレってそんなに信用ないかなあ」
高杉はぼやいた。
「信用するなって言ったのはあんただ」
「やれやれ」
高杉は処置なしと言った顔で嘆息した。
僕はケイコに向き直って言った。
「悪いけど、出たところを右に突き当たるとディスカウントショップがあるから、そこでフリーザーバッグ買ってきてくれないか?」
ケイコは不安そうな表情を浮かべながら、ねえ、ホントにこんなことやめて、と言ったが、僕の必死な表情を見て諦めの色を浮かべると、分かった、と言って店を出た。
僕とふたりだけになると、高杉はもう一度テーブルの下を覗いて言った。
「おいおい、それトカレフだから安全装置付いてないからな、気をつけろよ」
それからお代わりのコーヒーに口をつけると、まったく、素人が一番危ないんだよな、とぼやいた。それからおもむろに僕を真顔で見て言った。
「お前、ホントに彼女が戻ってくると思ってるのか?」
その言葉は僕を動揺させるのに十分な効果があった。言われてみればそうだ。彼女が戻ってくるという保証はない。もし彼女が僕を愛しているわけではなくて、ただ僕を逃げるために利用しただけだったら、このまま戻ってこなくてもなんの不思議もない。僕はじっとりと脇の下に汗をかいた。だが、僕はもう引き返せなかった。もううんざりだった。早いとここの厄介な状態にけりをつけたかった。それには行くところまで行くしかないと思った。
「戻ってきます」
「いったいどこから来るんだ、その自信?」
「自信なんかないですよ。それどころかなにも信じられない」
高杉は新しい煙草に火を点けると、元ののんびりした口調で言った。
「なあ、これカタがついたらオレの弟子にならないか? マジで」
「探偵になれってことですか? それとも人殺しの方?」
「案外向いてるかも知れんぞ」
どちらとも言わず、そう言って高杉はにやにやと笑った。
「高杉さん」
「ん?」
「最初に人を殺したのはいつですか?」
「なんだよ急に」
「訊いてみたくなって」
高杉は気のせいかしんみりした顔になると煙をひとつ吐いて目を細めながら答えた。
「十八のときだ」
「どんな感じでした?」
「最初は怖かったな。でもひと晩だけだ。後は案外平気だったよ。なんでそんなこと訊くんだ?」
「オレもそうなるかもしれないから」
僕が答えると、高杉は本当に心配そうな表情になって言った。
「なあ、あんまり無茶するなよ」
ケイコは戻ってきた。僕は内心安堵の息を吐いた。本当は高杉の言ったように気が気ではなかった。僕はケイコすら信じられない自分と、そんな風に自分を追い詰める状況に苛立ちを覚えた。
僕はケイコにシャブを半分に分けてフリーザーバッグに入れるように頼んだ。ケイコは店内に背を向けるようにして、トートバッグからシャブの袋を取り出すと、ベンチシートの上でフリーザーバッグに詰め始めた。途中で僕の方を振り向いて、量りようがないから適当でいい? と訊いてきたので、僕はうん、と答えた。僕は相変わらずテーブルの下で銃口を高杉に向けたままだった。できたよ、と彼女が振り向くと、高杉に片方渡すように言った。高杉はそれを受け取ると、悪いけどこれ裸で持って歩くのもなんだからその袋くれないかと、ケイコが買ってきたフリーザーバッグが入っていたディスカウントショップのポリ袋を指して言った。ケイコがそれを渡すと、高杉はシャブを袋に入れて傍らに置くと、僕に向き直って言った。
「なあ、考え直すのなら今のうちだぞ」
「ねえ高杉さん、二百万ってのも嘘でしょ、あんたの取り分」
「まあ手付金がそれぐらいってことだから、まんざら嘘って訳でもないけどな」
「だったらいいじゃないですか。どっちにしてもみんな丸く収まれば。あんたも成功報酬入るんでしょ」
高杉は目を丸くして呆れた顔で言った。
「お前が四角くしてんじゃねえか」
僕はそれもそうか、と思いそうになったが、いまさら後には引けない。
「とにかく、桃田と会えるように話をつけてもらえますか。できたら組の事務所じゃないところで。そうだな、できたらここ辺りがいいな。向こうはひとりで来ること。高杉さんも立ち会うこと」
「お前やっぱり商売間違えてんじゃないか。ひとりったってどうせ外に待たせとくぞ、何人かは」
「だから高杉さんにいて欲しいんですよ。助けて欲しいんです」
「そういうことそんなもん向けながら頼むかね、普通」
「ホントは信用したいんです」
本心だった。とにかく誰かを信用したい。いまの僕に必要なのは、本当に信用できる誰かなのだった。
「まったく、しょうがねえなあ。分かった。明日までに話をつけとくよ」
「お願いします」
「お前んちに電話すればいいのか?」
「はい」
「じゃあ今日はふたり水入らずってわけだ」
高杉はそう言うと僕にウインクした。僕は思わずちょっと赤面した。
「それともうひとつお願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「ここの伝票、お願いします」
高杉はいよいよもって呆れた顔をした。
高杉がレジで支払いをしている間、僕は拳銃をジーンズに差してその上からブルゾンのジッパーを閉めて、外から見えないようにした。
僕がケイコを連れて外に出ようとすると、高杉がケイコを呼び止めた。僕は思わずブルゾンのポケット越しに拳銃の銃杷に手をかけた。
「こいつが無茶するようだったら連絡してくれ」
そう言って高杉はケイコに名刺を渡した。ケイコは黙ってこっくりとうなずいた。
階段を降りて外の通りに出ると、雨はもう上がっていた。
後から降りてきた高杉が僕らに声をかけてきた。
「オレ車だから送ってこうか? 高円寺まで」
「いいです、そのまま事務所まで連れてかれたらかないませんから」
高杉は苦笑すると、それもそうだな、と言った。
僕らは手を繋いで駅へと渡る歩道橋を上った。歩道橋の上でケイコは突然立ち止まって言った。
「ねえ」
「ん?」
「もしかしてわたしのことも信用できない?」
「そんなことないよ」
そう言って僕はケイコに笑いかけた。そして、ああ、本当に彼女を信じられたら、と心の中で思った。
23.
「ヘンな人ね」
山手線の中で、吊革につかまりながら彼女はぼそりと言った。そしてくすりと笑った。
「ああ、高杉だろ」
「あの人も、あなたも」
ん、と眉を寄せて僕はケイコを見た。ケイコはもう一度くすっと笑うと言った。
「なんか似たもの同士って感じ」
「そうかなあ」
僕はぶすっとして窓に向き直ると、流れて行く景色に目をやった。
高円寺の駅に着いたころにはもう日が落ちかかっていた。
駅を出て歩きながら、僕はケイコに晩飯どうしようか、と声をかけた。ケイコは目を輝かせてわたし作る、と答えた。大丈夫なの? と僕が訊くと、これでも元主婦なんだから、と彼女は笑って答えた。
僕らは高円寺銀座のアーケードを抜けて、早稲田通りに抜ける途中にあるスーパーに立ち寄った。
僕が彼女のトートバッグを代わりに持って、彼女は買い物カゴを手に売り場を楽しそうに見渡した。
「ねえ、なんか嫌いなものはある?」
ケイコがそう尋ねたので、僕はちょっと考えて答えた。
「そうだなあ、肉の脂身、光り物、あとは内臓系」
僕がそう答えると、ケイコはくすっと笑った。
「まるで子供みたい」
ケイコは野菜売り場や肉売り場で目についたものを選んでカゴの中に入れていった。僕はその後をバッグと傘を二人分持ちながらついていき、なんかこういうのって新婚みたいだなあなどとぼんやり思った。束の間、それまでのゴタゴタを忘れて、なんか幸せだな、と思った。そんな中で、ジーンズに差したままのトカレフの固い感触が時折僕を現実に引き戻して水を差した。
彼女はハンバーグを作った。それはお世辞抜きでおいしかった。僕がおいしいよ、マジで、と言うと、彼女は嬉しそうにホント? と答えた。僕は本当に幸せだった。彼女の嬉しそうな笑顔を見るだけで。これがずっと続いてくれればと思った。もしかしたらセックスのときよりも幸せかもしれないと思った。
そんなことはなかった。彼女と何度も何度もキスをして、裸で抱き合っていると、なにもかも忘れられた。僕らは何度も交わって、そしてまたキスをした。
僕は思わず彼女の中に射精してしまった。射精しながら、あ、いけね、と思ったが、同時にアタマの違う方では僕の子を妊娠してくれと祈る声も聞こえた。そんなことはお構いなしに、彼女は僕の背中をきつくきつく抱き締めた。
うっすらと汗をかいて、並んで天井を見つめながら、僕は考えた。ホントに彼女が妊娠してくれればいいと。そしたら僕は彼女にプロポーズしよう。いや、妊娠していなくても、このいまの訳の分からないゴタゴタが収まって、それでも僕が生きていたら、プロポーズしようと思った。そんなことを考えながら、いつのまにか僕は眠りに落ちていった。
電話が鳴っていた。
気がつくと僕はいろんな疲れが一度に押し寄せて、すっかり熟睡していたようだった。隣でケイコがちょっと不安気な顔で、ねえ、電話、と僕をゆすっていた。僕は寝ぼけまなこを擦りながら、のそのそと隣の部屋に行って受話器を取った。ちらとオーディオタイマーを横目で見ると、午後十一時半だった。
「もしもし」
すると、受話器の向こうから、聞き覚えのあるしゃがれ声が聞こえてきた。
「もしもし、マカベくーん。二百万はできた?」
「二百万? 二十万じゃないの?」
答えながら、また胃に酸っぱいものがこみ上げてきた。現実ってのはどうしてこう急に僕を引きずり戻すのだろう?
「お前案外記憶力悪いな。まあそんなことはどうでもいい。女連れてこいや。そしたら返してやる」
何度聞いても不愉快な声だ。まるで胃に巣食った潰瘍のように暑苦しい顔が嫌でも目に浮かぶ。また怒りがどこからともなく湧き上がってきてアタマを満たして行く。今の僕は以前とは違う。僕には彼女がいるし、トカレフも持っている。
「免許証ならくれてやるよ、再発行できるから」
「だれが免許証って言った? 女だよ。女連れてきたらもうひとりは返してやる」
僕は顔から血の気が引いていくのが分かった。受話器の声が少し遠くなり、ほーらケンジくんだよー、というデブの声の後に、ワタベマチコのすすり泣く声が聞こえてきた。僕は怒りで一瞬目の前が真っ暗になった。殺してやる、と腹の中で呟いた。コロシテヤル。
「じゃあ、待ってるからよ」
電話は唐突に切れた。
気がつくと目の前にケイコが立っていた。彼女はいまにも泣き出しそうだった。会話から誰と話しているか分かったらしい。僕は彼女を見ないようにして慌しく服を着ると、トカレフをジーンズに差した。
ケイコは床にぺたんと座り込んでいた。彼女の頬を大粒の涙が伝っていた。僕は彼女の肩を抱いて言った。
「行かなきゃ。マチコがつかまった。大丈夫だから」
「お願い、行かないで」
彼女は涙でくしゃくしゃになった顔を僕の胸に押しつけた。僕は彼女の額にキスすると、もう一度言った。
「大丈夫だから。オレがなんとかするから。ここで待っててくれればいいから」
彼女は嫌だ嫌だとしがみついてきた。僕はその手をほどいて言った。大丈夫だから、必ず戻ってくるから、マチコを連れて。本当はその後にたぶん、と付け加えたかったけれど。
僕はケイコの唇にキスすると、部屋を飛び出した。
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