(6)
17.
実を言うと、すぐにはケイコだと気付かないほど彼女は見違えていた。髪を短く切ってボブにして、濃い目のサングラスをして。彼女はジーンズにタートルネックの黒いセーターを着て、大きなトートバッグを肩から担いでいた。まるでフランス映画にでも出てきそうだった。かっこいい、と僕は思ってしまった。馬鹿みたいだけど。
そんなわけで僕は彼女が目の前に立ったとき、ぽかんと口を開けてしばらく声が出なかった。彼女は彼女で僕の顔を見て驚いたようだ。無理もない。彼女はサングラスの上に眉毛を覗かせて驚いた表情をしたあと、口元をほころばせ、「待った?」と言った。言いながら眉毛が八の字になって、サングラスの向こうの表情が一瞬泣き顔に見えた。僕は黙って首を振ってから言った。
「酷い顔だろ。もう始まっちゃうから入ろう」
彼女はプラネタリウムの中に入ってもまだサングラスをはずさなかった。中は平日の午前中とあって、がらがらに空いていた。僕らは真ん中あたりに並んで座ると、お互いに黙ったままだった。正直なところ、僕は胸が一杯で話したいことがあまりにも多過ぎてしゃべることができなかった。なにより、こうして彼女と再び一緒にいることが現実であるということを噛み締めるのに精一杯だった。ふと横を向いたり、なにか口に出したとたんに彼女がふっと消えてしまいそうで怖かった。彼女はちょっと俯き加減でなにかに耐えているようにも見えた。
場内の照明が暗くなり、アナウンスとともに投影が始まると、彼女は僕の手を握ってきた。僕はその手をきつく握り締めたり、指を辿ったりした。そのとき、気がついた。彼女はもう左手の薬指に指輪をしていなかった。考えてみればもうする必要もないわけで、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、僕にはそれで呪縛がひとつ解けたような気がした。ふと横を見ると、彼女はまだサングラスをしたままだった。僕がそれはずさないの、と訊こうと声をひそめて「ねえ」と声をかけると、彼女はこちらを向いて僕の唇に軽くキスをした。
僕はプラネタリウムを見るのは初めてだった。頭上に映し出される星の数々に、いつのまにか僕は見入っていた。しばしなにもかも忘れて。カシオペア座。白鳥座。オリオン座。射手座。北極星。天の川。彦星と織姫星の物語。
考えてみれば、田舎にいるころは晴れてさえいれば、夜ともなれば常に頭上には満天の星が輝いていた。そのころはそれが当たり前で、夜空というものはそういうものだった。だから、星座や星のひとつひとつを数えることもなかった。こうして渋谷の喧騒の中に映し出された星々を見上げていると、なんと多くの星があるのだろう。まるで僕たちを包み込むように。例えそれが束の間天井のスクリーンにライトで投影されたものであるとしても。彼女のサングラスを通して、この星たちはどう映っているのだろう? 僕はまるで世界にケイコとふたりだけでいるような錯覚を覚えた。
投影は一時間あまりで終わった。入れ替え制なので、場内に明かりが灯ると少ない客たちは次々と席を立って行く。僕らは黙ったままで残っていた。とうとう僕らが最後になると、僕は声をかけた。行こうか。すると、彼女はうん、と小さく微笑んだ。
僕はなにか食べながら話そうと言った。近くにいいところを知ってるから。
外に出ると僕が持っていた傘を開いて、相合傘で寄り添って歩いた。まるでこのひと月半あまりの空白がなくて、ずっと一緒にいたみたいに。246の歩道橋を渋谷署を横目に見ながら、交差点のはす向かいに渡った。ちらっと渋谷署が目に入ったときに、彼女が眉をひそめて緊張するのが伝わってきた。僕はそれを解きほぐそうと、さっきとは打って変わってしゃべった。スパゲッティがうまい店があるんだ。ジャズ喫茶なんだけど話しても大丈夫な店だし。それにがんがんジャズがかかってるから周りに聞かれる心配もないし。
山手線のガードをくぐって桜ヶ丘町に出ると、眼鏡屋の隣を脇道に入った。途中の雑居ビルの狭い階段を上ると、店内に流れるジャズの音が漏れ聞こえてくる。二階の古ぼけたドアを開けると、そこが昔ながらのジャズ喫茶だ。薄暗い店内は、四人がけぐらいの小さなカウンターの向かいにでんと大きなスピーカーが構えていて、テナーサックスが大音響でブロウしていた。僕が学生のころ、ジャズ喫茶全盛のころは、こういうメインストリームのジャズをかけるところは私語禁止というところがほとんどだったが、いまどきはもうそういう店は吉祥寺辺りまで出かけないと見かけなくなった。僕はジャズが好きだが、だいたい、ジャズというものは辛気臭いしかめつらをして、斜に構えて格好をつけて聴くものじゃないと思っているのでこれはいい傾向だ。それに音が大きいので、隣によほど声のでかいおばさん連中でも来ない限り、隣の話し声に悩まされることもない。そもそもそういうおばさん連中はジャズ喫茶なんかに入らないだろうけど。
昼食どきにもかかわらず、店内は混んでいなかった。まだ昼をまわったばかりというのに、星空の下から薄暗い店内にやって来たので、まるで夜を渡り歩いているみたいだと僕は思った。いくつかあるテーブル席の中で、そこだけちょっと引っ込んだコーナーのテーブルがたまたま空いていたので、そこに並んで座った。そこはテーブルを囲む形でベンチシートになっていた。僕が明太子のスパゲッティとコーヒーを頼むと、ケイコも同じものを頼んだ。そこでようやくケイコはサングラスをはずした。そして力なく微笑んだ。
僕らはまた言葉が出なくなっていた。黙って料理が出るのを待ち、黙ってスパゲッティを食べた。
スパゲッティを食べ終わってコーヒーを飲みながら、僕が例によってなにから訊いたものか堂堂巡りをしていると、彼女の方から口を開いた。
「ごめんね」
彼女の目は潤んで見えた。彼女が案外泣き虫だということを、僕は今日まで知らなかったんだな、と思った。僕の覚えている彼女は、ちょっとクールで、ちょっとコケティッシュで、ちょっとエッチだった。今日の彼女は謝ってばかりだ。僕は、まるで自分が彼女を苦しめているような錯覚に陥って胸が苦しくなった。いまここで彼女を抱き締めたいと思った。でもそんな勇気は僕にはなかった。こういうときはなんて言えばいいのだろう? そう考えるのと同時に、核心に触れる質問をするのが怖くなった。彼女の答えを聞くのが怖かった。
僕はまず手近なことから訊くことにした。
「ねえ、あれからどこにいたの?」
「渋谷のウィークリーマンションを借りてた。なんだか人の多いところにいたかったの。その方が安心するような気がして」
いったい何人の人間が彼女を追い詰めていたのだろう? やくざ、探偵、警察。その中に僕も入るのだろうか。そして、なにが彼女を追い詰めていたのだろう?
「ケンジに最後に会った日があったでしょ。ケンジが熱出してた日。あのままこの街に来て、隠れてた。でも、ちょっと疲れちゃった。マチコにケンジのこと聞いて、会いたくて我慢できなくなっちゃった」
そう言うと、彼女は弱々しく微笑んだ。
「我慢することなかったのに」
「でも、迷惑かけちゃうから。あ、もうかけちゃったんだね」
また彼女は微笑んだ。つられて僕も苦笑いした。
「こういうのも男が上がったってことになるのかなあ」
「ねえ」
「ん?」
「ケンジはもう知ってるんだよね? わたしのダンナのこととかすっかり」
「すっかりかどうか分からないけど。先週ヘンな探偵がやってきて、教えてくれた。でも、正直なところ、もうどれがホントでどれがホントじゃないかよく分からなくなってるんだ」
「ごめんね」
彼女はまた謝った。僕は思いきって訊いてみることにした。もうそろそろ。
「ねえ、話してくれるかな、なにがあったか」
彼女はしばらく押し黙って前方を見つめていたが、みるみるうちに彼女の目に涙が溢れてきた。そしてぽつりと言った。
「いいよ。でもわたしのこと嫌いになるよ、きっと」
「嫌いになんかならないよ。それに、ひょんなとこからあらすじは聞いてあるから驚かないよ」
「ホントに嫌いにならない?」
彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
「絶対。約束する」
僕は彼女を追い詰めているのだろうか? なんだか僕は彼女に酷く残酷なことをしているような気がした。しかし、もう後に引けなかった。僕はもう一度訊いた。
「ねえ。話してくれるかな、ホントのこと」
僕はそれが知りたいのだった。ホントのこと。ホントの彼女。ホントの僕。そして彼女はゆっくりと話し始めた。
18.
そもそもの始まりはわたしがあいつの担当になったことだった。あいつが胃潰瘍で入院してから。笑っちゃうよね、やくざが胃潰瘍だなんて。わたしは最初からあいつが怖かった。だって、刺青入ってるんだもん、見るからにやくざだよ。それにタマに見舞いに来る奴らももろにそうだった。玉井って凄い太ってる奴と金田って若い奴。二人ともあいつの舎弟なんだけど、なにするかわかんないような連中で、わたしは怖くて仕方なかった。
担当になったときからあいつはしつこく誘ってきた。退院したら付き合えって。それはもうしつこかった。誰かに担当替わって欲しかったんだけど、みんな怖がってるのは同じだし、それになんか弱みを見せるようでくやしかったんだ。退院したときはホントにほっとした。やっと元に戻れるって。ところが、あいつはそれからも毎日やってきた。帰りを待ってたりするんだ。わたしはホントに怖くて、マチコと一緒に走って寮に帰ったりしてた。
あの日は准夜あけだからもう真夜中だった。マチコは夜勤だったから、たまたまひとりで帰らなきゃならない日だった。車に無理矢理乗せられて連れてかれた。あの趣味の悪い部屋に。ケンジも行ったんだよね? あそこでわたしは無理矢理犯された。玉井と金田もいた。三人でかわるがわる。何度も何度も。それをビデオに撮られた。殺すって言われた。警察にタレこんだら殺すって。お前だけじゃなくて家族も殺すって。ビデオも親だけじゃなくて病院中にばらまくって。だから結婚しろって。無茶苦茶だよ。でもわたしは本当に怖かった。こいつは本当にやると思った。だから言うこときくしかなかった。あいつは市役所までついてきて、無理矢理籍を入れさせられた。わたしは父親がもう随分前に死んじゃって母親しかいないのね。お母さんにも嘘言った。言わなきゃならなかった。
酷いのはそれから。わたしは毎日のように殴られたし、蹴られた。跡が残らないように顔とかは殴らないのよ。関節とか狙って。帰りが遅いとか、電話に出なかったとか、メシができてないとか、もう理由はなんでもいいのよ。あいつは後ろから犯すのが好きで、わたしは毎晩のようにレイプされてた。だからバックは怖いのよ。玉井と金田は始終出入りしてて、わたしはそれも怖くてしょうがなかった。タマにお前らもやれって二人にわたしを犯させて、それを見てたりするのよ。酒飲みながら。包丁や日本刀持ち出して何度も殺すって言われた。本当に殺されると思った。もう夜勤とかもたなくなって、病院も辞めた。そしたらソープ行けって言うし。それだけは嫌だって言うと、また殴られた。タマにマチコと電話で話してて、話し中だとまた殴られた。わたしはちょっとおかしくなっちゃって、もう外に出るのとか、電話まで怖くなっちゃって。もう殺すか殺されるかのどっちかなんだと思った。ホントに何度も殺そうと思った。でも怖くてできなかった。精神科に行ったら鬱病だって言われた。だからしばらく通って、薬もらってようやくよくなった。それで、小さい内科の個人病院に昼だけ勤めることにした。そこだけがほっとできる場所だった。
鬱病がよくなって、ようやく冷静に考えられるようになって、それでもこのままだといつか必ず殺されると思った。もう逃げるか殺すかしかないと思った。でも逃げると実家の母親に迷惑がかかる。もう殺すしかないと思った。
彼女はそこまで話すとひと息ついた。一旦話し出すと、覚悟を決めて落ち着きを取り戻したのか、彼女は淡々と話していた。高杉にあらかじめ大筋は聞いていたというものの、彼女の口から直接それを聞くと、あの部屋で覚えたはらわたが煮えくりかえるような怒りと殺意が甦ってきた。僕は煙草に火を点けたが、怒りでライターを持つ手がちょっと震えた。もう仕方がないと思った。彼女が殺してしまったのも仕方がないと。もしまだ生きていたら、僕が殺しに行っただろう。小心者の僕に本当にできるのかどうかは分からないが、それでも行くだろう。それほどの怒りを覚えていた。僕のどこにこれほどの怒りと殺意があったのかと、いつかと同じように思った。ケイコはいつかのホテルと同じように、わたしにも一本ちょうだいと言って煙草に火を点け、ひとつ煙を吐き出しながら気を鎮めるようにしばらく宙を見つめていた。そして続きを話し始めた。
あの日、夜になってあいつは麻雀に行くと言って部屋を出たの。それでドアが閉まるとすぐに、わたしは台所のテーブルにあいつが財布を置き忘れてったのに気付いた。今持っていかないと後でまた殴られたり蹴られたりすると思って、わたしは財布を持ってあわてて駐車場まで降りて行った。
そこでわたしは見たのよ。あいつが殺されるところを。
僕は、咥えていた煙草を落としそうになった。
19.
わたしはあいつのからだに弾が二発撃ち込まれるのを見て、怖かったけど、次の瞬間にはほっとしてた。ああ、これでわたしは自由だって。もうあいつは死んだんだって。笑い出したいくらいだった。
わたしは駐車場の入り口のところで見てた。拳銃って、もっと大きな音がすると思ってたんだけど、ブスッって鈍い音だった。たぶん映画とかで見る、サイレンサーってのを付けてたんだと思う。
あいつに弾を打ち込んだ男が、車のドアを閉めるとこちらを向いた。わたしは、あ、殺されると思った。でも、その男はわたしに向かって人差し指を口の前に立てただけだった。わたしは黙ってろってことなんだと思った。しゃべれば殺すってことなんだと。男はそのままわたしの脇を通って外に出て行った。わたしは言っちゃったわよ、そのとき、ありがとうって。思わず。
わたしは我に返ると、あわてて部屋に戻った。そして、このままだとわたしが疑われると思った。わたしは部屋にあいつが拳銃を隠してることを知ってた。いつか大事そうに冷蔵庫の野菜室に入れてるのを見たの。あいつはわたしがそれを使うわけがないとたかをくくってたのよ。それにここ開けたら殺すぞって言われてた。このままだと警察が来て調べたら、わたしが捕まっちゃうと思った。少なくとも銃刀法とかで。よほど気が動転してたのね。あいつは死んでからもわたしを追いかけてくる、なんて思った。とにかく、拳銃はどこかに捨てるか隠そうと思った。車の中にある限り、死体はそう簡単には見つからないだろうから、隠す時間はあるって。それでわたしは野菜室を開けた。そしたら、油紙に包まれた拳銃と、砂糖の一キロ入りの袋みたいなのが一緒にフリーザーバッグに入れてあった。わたしはそれをバッグに押し込んで、部屋を出た。あのマンションは三階の住人は夜、一階でスナックをやってるおじさんだけだから、スナックの客に鉢合わせでもしない限り出るところは見られない。人通りがないことを確かめて、とにかくそこを離れたかった。途中で捨てることも考えたけど、それを人に見られたらと思うとできなかった。とにかくあの部屋から、あの死体から離れたかった。出来るだけ遠くに。気がつくと青梅街道まで出てて、わたしはタクシーを拾って国分寺の駅まで出た。それで新宿までの切符を買って中央線の上りに乗ったの。そしてあなたに会っちゃったのよ。
僕は唖然として話を聞きながら、「あなた」と呼ばれてちょっと気恥ずかしさを覚えた。ようやく僕はケイコが殺していなかったことにほっとしていた。アタマの四分の一ぐらいは、もしケイコが嘘をついていたらと言っていたが、その声は無視することにした。それを考慮するには、この数日あまり、あまりにもいろんなことを考え過ぎたし、疑い過ぎたし、いろんなことが起こり過ぎた。それに疲れてもいた。僕はとにかくケイコを信じることにした。
上りの電車は空いてたので座ることができた。わたしは拳銃の入ったバッグを膝の上に置いて、ようやく落ち着いてくると、なんでこんなもの持ってきちゃったんだろうと思った。そう考えると、ただでさえ重い膝の上のバッグが、物凄く重く感じられた。なんとかしなきゃって思った。でも、一方でわたしは心底ほっとしてた。もうあいつは死んだんだ、わたしは自由なんだって、また自分に言い聞かせた。これでもう殴られたり蹴られたり、無理矢理犯されることもないんだって。少なくとももう暴力に怯えることはないんだって。ところがそのとき、それは違うって声がアタマの片隅から聞こえた。まだ玉井と金田がいる。このバッグに入ってるロクでもないものは捨てちゃ駄目なんだ。いつかこれが必要になるかも知れないって。だから、どこかに隠さなきゃって思った。最初はコインロッカーにでも預けようかって思ったのよ。でもそれだとそんな長い間置いとけないし。どうしようって考えた。そんなときにあなたが吉祥寺から乗ってきたのよ。
そこで僕は口をはさんだ。
「でも、なんでオレだったわけ?」
「わたしのタイプだったのよ」
そう言うと、彼女はまだ涙の跡が残っている顔でにっこりと笑った。さっきまでの半分泣きべそをかいたような笑いじゃなくて、にっこりと。僕は思った。ああ、そうだ、彼女はこんな風に笑うんだっけ。
「ケンジは席が空いてるのにドアのところに立ってて、なんか寂しそうに見えた。わたしは、ああこの人も寂しいんだって思った。ケンジと寝てみたいって突然凄く思った。こんなこと言うとまるで淫乱みたいだけど。抱かれたいって思った。わたしはハイになってたのよ。で、気がつくとケンジに声をかけてた」
スピーカーから流れるアルバムが変わって、ピアノトリオになった。僕らの横にある巨大なウーファーは、ウッドベースの低音で床やテーブルを細かく振動させながら僕らを包んだ。その上をピアノの倍音が飛び交っていた。
僕はようやく落ち着いて考えることができるようになってきていた。いつのまにか、たぶんさっきの彼女の笑顔で、先ほど感じていた怒りや殺意も収まっていた。それどころか、「タイプ」とか「抱かれたい」という言葉に心が浮き立つような気さえしてきた。我ながらなんて単純なんだろうと思いながら。
僕は疑問をひとつずつ解いていこうと思った。
「ねえ、やっぱりうちに隠したの?」
「ごめんね。そうするしかなかったのよ。ケンジとセックスしてるときはなにもかも忘れていられた。本当に物凄く久しぶりに自分が解放されたような気がしてた。でも、終わった後にちょっと冷静になっちゃったのよ。このままいなくなったらわたしが疑われる。やっぱり朝には帰らなきゃって。だからどうしてもここに隠していかなきゃって。それで、前に鬱病で精神科に通ってたときにもらった睡眠薬がバッグにあったのを思い出して、飲ませちゃったのよ。ケンジには気付かれたくなかったの。なにも気付かれないで、ただのひとりの女として見て欲しかったの。ごめんね」
「で、どこに隠したの?」
「トイレのタンクの中」
「やっぱり」
「なんだ、分かってたの。散々考えて、いいとこに隠したと思ったんだけどな」
僕は天袋のエロ本なんかを思い出し、赤面しそうになった。彼女があれを見つけたかどうか訊こうかとも思ったが、止めておいた。世の中には知らないに越したことはないこともあるのだ。
「それからどうしたの?」
僕が訊くと、彼女は水をひと口飲むと、なにか嫌なことを思い出したように顔をちょっとしかめて、それから続きを話し始めた。
ケンジのアパートを出てから、そのまま小平に戻ったの。電車の中で、またあの部屋に戻ると思うと憂鬱になったわ。それよりなにより、あいつの死体を見なきゃなんないと思うとますます憂鬱になった。もう動かないんだけどね、あいつは。とにかく警察に電話して、後はなにを訊かれても知らないって言おうと決めた。殺したやつはどうせ同じやくざか似たようなものだろうし、もうとにかくこれ以上関わり合いになるのはごめんだと思ったの。あいつの車はスモークガラスだからたぶん死体はまだ発見されてないとは思ったけど、もし万が一パトカーが停まってるようだったら逃げるしかないと思った。アリバイないし。ケンジを巻き込むことになるし。
幸いまだ誰も気付いてなかった。隣の車は三階に住んでるスナックのマスターのもので、彼は朝まで仕事してるわけだから当然なんだけど。部屋に戻ってから下の駐車場まで降りて、車のドアを開けた。ホント言うと、死体を見るのも嫌だったんだけど、もし万が一死んでなかったらどうしようなんて考えた。そしたらどうやってトドメを刺そうかなんて。そっちの方がむしろ怖かった。あいつが白目剥いて息をしてないのを見て、気持ち悪かったけど本当に安心した。額の真ん中と胸を撃たれていて、シートの下に血溜まりがどす黒く固まってた。凄い嫌な匂いがした。わたしはしばらくそれを見てた。ざまあみろって思ったわ。それから部屋に戻って警察に電話して、後はもう大騒ぎよ。警察は部屋を見せてもらえますかって言うし。結局、日本刀なんかも見つかって、一瞬わたしは青くなったけど、警察は別にわたしにそのことを問い詰めたりはしなかった。考えてみれば当たり前よね。やくざの部屋なんだから。わたしはなんでわざわざ拳銃とか隠そうなんて思ったんだろうとそのときようやく気がついたけど、前の晩はよっぽど気が動転してたんだと思う、いま考えると。警察で長々と事情聴取ってのを受けたわ。わたしは殺されるところを見たこと以外はみんな正直にしゃべった。あいつにどんな目に遭わされたかも。話してるうちにぼろぼろ泣いた。涙が止まらなかった。正直言ってあいつが死んでほっとしてるとも言った。わたしはむしろ同情されたわ。もっと早く警察に相談してくれればって。
あいつは身寄りがいなかったみたいで、組の人間ってのが来てかたちだけの簡単な葬式やって。わたしはいっさい泣かなかった。ホントは出たくないくらいだったから。不思議なことに玉井と金田は葬式に顔を見せなかった。あれほどくっついてまわってたのに。葬式からの帰りに、送るからと言って組の人間に車に乗せられた。ひとり物腰だけは柔らかい、三十を越えたぐらいの若いやくざがいて、そいつが一番立場が上みたいだった。部屋に着くと、すみませんが中調べさせてもらいますって。敬語でしゃべってるんだけど、どこか有無を言わせないところがあるのよ。わたしは彼らが部屋中を引っかきまわすのを黙って見てた。結局、見つからなかったらしくて、わたしにあいつなんか隠してませんでしたかって訊くのよ。わたしはすぐピンときた。あの砂糖みたいなやつだって。でも知ってるなんて言えるわけないわよ。知らないで押し通して、早く帰ってくれることだけを祈った。なにか思い出したら教えて下さいって名刺渡して帰ったわ。確か梨田とかって書いてあったけど、あいつらが帰った途端に丸めてゴミ箱に捨てちゃったからよく覚えてない。とにかく、気持ち悪いぐらいに丁寧な奴だった。帰り際に、しばらくここにいて下さいって言われた。ああ、逃げるなってことなんだなって。目がそう言ってた。それからこれは預かっておきますって、あいつの貯金通帳と実印を持って行った。
わたしはまだここにいなきゃならないと思うとくらくらした。あいつは死んでもわたしをここに縛りつけるんだって。
ケンジに渋谷で会ったのはその次の日よ。電車に乗るときも誰かあとをつけてきてないかとびくびくしてた。つけられないように、途中でデパートに入って裏口から出て確かめたり。だから会えたときはホントにほっとした。
帰ると部屋の前に梨田がいた。彼は葬式代引いときましたからって、通帳と印鑑をわたしに返した。通帳からは一千万近くが引き出されていて、残っているのは百万ほどだった。わたしにソープに行けとか言ってた奴がこんなに金持ってたなんてわたしはびっくりした。とにかく、この一千万でたぶんわたしは自由になったんだと思ったけど、すぐには信用できなかった。だからしばらくは部屋でじっとして様子を見ようと思った。ケンジに会いたくてしょうがなかった。でも、ホントに安心できるまでは我慢しようと思った。
そしたら今度はあいつらがやってきたのよ。玉井と金田が。あいつらは合鍵を持ってたけど、わたしはドアにチェーンをかけてドアを開けなかった。あいつらはドアをどんどん蹴って、開けないとこいつをバラまくぞって叫んだ。玉井が八ミリビデオのテープを持ってるのが見えた。もうわたしは目の前が真っ暗になった。ああ、やっぱりあいつは死んでからもどこまでもついてくる。わたしはまた無理矢理犯された。そしてブツはどこにあるか知ってんだろ、って何回も問い詰められた。言わないと殺すって。でも、わたしは知らないって必死で言い張った。知ってるって言ったらわたしもケンジも殺されるって思った。
あいつらはまた来るから逃げるなよ、って帰り際に言った。わたしはもうどうしたらいいかわからなくなった。次の日もあいつらはやってきた。思い出したかって。思い出すまでは何回でも来るぞって。犯されながらわたしは思った。もう逃げるしかないって。ビデオなんかもうどうでもいい、逃げようって。それであいつらが帰ってからケンジに電話した。逃げてもあいつらは追ってくるかも知れない。組の連中も追いかけてくるかも知れない。そうしたらもうケンジには会えなくなる。だから最後にケンジに会っておこうって思った。
彼女はぼろぼろ泣いていた。僕はどうしたらいいのか考えていた。僕にいったいなにができるのだろう? 僕はいったいどうしたらいいのだろう?
そのときだった。耳慣れた声が頭上から聞こえてきた。
「盛り上がってる?」
見上げると、そこに高杉が立っていた。例の人懐っこい笑みを浮かべて。
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