(5)
14.
電話が鳴っていた。
僕はまた夢でも見ているのかと一瞬思ったが、実際はまったく夢を見ることなしに、時間はきれいにワープしていた。電話はまだ隣の部屋で鳴りつづけている。目を開けてみると、左側の視界が狭い。触ってみると、目の下が腫れ上がっていて激痛が走った。僕は痛て、と声に出しながらからだを起こそうとしたが、全身が鉛のように重かった。おまけにからだのそこら中が痛かった。
僕が十六トンぐらいのからだと格闘しているあいだに電話は留守電に切り替わり、ピーという発信音の後に女の声が続いた。
――えー、ショウコですけど、黒田さんが至急会社まで連絡してください、とのことです。よろしくお願いしまーす。
ツー、ツー。
まだ一応会社には見捨てられてはいないようだ。黒田というのは僕の会社での上司で、権利関係とか、契約に関することとか、タイアップのような外部との折衝とか、要するに全体的に派生するややこしいことを一手に引き受けている。面接で僕を気に入ってくれたという恩義はあるのだが、せっかちで気が短いのが難点である。
僕はうめきながら、ようやくのことでからだを起こすと、洗面所までよたよたと歩いて行って顔を洗った。顔のあちこちがひりひりする。鏡を見ると、昨夜電話ボックスに映った顔よりも、そこここが腫れ上がって酷い顔になっていた。
部屋の中がやけに暗いことに気付いて時計を見ると、六時をまわっていた。六時? 朝の? いや、それなら会社から電話がかかってくるはずがない。もう夕方なのだ。僕はかれこれ二十時間近くも眠っていたことになる。
部屋の電気を点けて、僕は湯を沸かしてコーヒーを淹れると、それをすすりながら会社に電話を入れた。
「はい、銀音社です」
ショウコちゃんだった。ギンオンシャというのが、僕の会社の名前だ。
「もしもし、マカベだけど」
「マカベさーん? いたんですかー」
「黒田さんいる?」
「ちょっと待ってください。怒ってますよー」
電話は保留のメロディーに変わった。
本来なら、アタマから湯気を出している黒田を想像して胃が痛くなるところだが、今はそれどころではない。昨夜ボコボコに蹴られたので本当に腹が痛いのだ。僕はコーヒーをもうひと口飲んで、それからマイルドセブンに火を点けて待った。深く吸い込むとうまかった。本当にうまかったが、くらくらした。
「エリーゼのために」がスリーコーラス目に入ろうとしたときに、受話器から黒田の早口で馬鹿でかい声が聞こえてきた。
「お前なにやってんだよ。急に一週間も休み取って」
もうほとんど怒鳴り声である。僕はうんざりしながら答えた。
「ちょっと怪我しちゃって。かなり」
言いながら日本語としてはちょっとおかしいかなと思ったが、まんざら間違っているわけでもない。それに、この状況もまんざら嘘でもない。
「怪我? しょうがねえなあ。まあいいや、お前、CMプレゼン用のDAT、どこ置いた?」
「えーと、机の一番下の引き出しに、黄色い封筒があるんで、そん中です」
「月曜からちゃんと出ろよ」
そう言うなり電話は切れた。僕は煙草の煙と溜息の両方を同時に吐き出した。向こうでは違う現実も同時に進行しているのだ。
違う現実? いつのまにか、僕にはこっちの方がすっかり本当の現実になっていた。胡散臭い探偵やら、キョンキョンみたいな看護婦やら、禿でデブのやくざやら、金髪で貧相なちんぴらやらがうろうろする方が。その中にケイコがまだ実体としていないことを思い、寂しさがこみ上げてきた。
そういえば今日から十月だ。十月一日。ケイコと出会ってからちょうど二ヶ月。
煙草を灰皿で揉み消すと、猛烈に腹が減ってきた。当然だ。昨日の昼にファミレスで食べて以来、なにも食べていないのだ。
冷蔵庫を開けてみると、ケイコの置いていったお粥の缶詰がまだ二つ残っていた。鍋に二つとも開けて火にかけて暖めて食べた。おかずもなにもなしだが、空きっ腹にはおいしかった。これでもうケイコの置いていったものは、薬だけだ。
僕はその薬の入った箱を引っ張り出すと、傷薬を選び出して傷の目立つところに塗った。腫れ上がってたんこぶになった後頭部とか、打撲で青痣になっている脇腹のあたりとかはどうしたらいいか分からなかった。湿布薬とかかれた大きめの袋も入っていたが、冷やすためのものなのか暖めるためのものなのかもよく分からないので、この場合使っていいものか分からない。しょうがないから他は放っておいた。だいたい、痛むといえばからだじゅうが痛むので切りがない。
なんとなくテレビを付けると、日本初の女性党首とやらが気炎を発していた。
僕はニュースをぼんやりと見ながら、昨日のことを考えた。ワタベマチコに会えたところまではツイていた。今のところはそれがどう繋がるかは分からないが、とにかく一発で彼女に会えたのはラッキーだった。彼女はまだなにか隠しているのだろうか? まだ僕の知らないことを。知らないこと? 僕はいったい何を知っているというのだ。結局、高杉の言ったことにしろ、どれが本当でどれが嘘なのかもいまだに区別がつかない。以前より前進したことといえば、彼女が確かにやくざと結婚していたということ、そのやくざが確かに誰かに射殺されたということ、彼女の住んでいたところが分かったこと、彼女の旧姓が分かったこと、ワタベマチコが看護学校からの友達で寮でも一緒だったこと。確実なのはこれぐらいだ。待てよ、ワタベマチコの言ったことは聞いただけで裏付けがあるわけではないので確実とは言えないか。やっぱりワタベマチコに電話してみようか? しかし、この時間は家にいるのかどうかも分からない。どういうシフトで仕事しているのかも知らないし、仕事中だったらやはり迷惑がられるだろう。これはひとまず後回しにしておこう。
問題はその後だ。あいつら。くそ。結局ワタベマチコのところでツイていた分をお返ししたということか。それにしても自分があれだけの殺意を覚えるとは思わなかった。あの殺意は本物だった。本当にあいつらを殺したいと思った。僕は自分の殺意を思い出してちょっと怖くなった。人間は誰でも人を殺せるのだ。そう思うと身震いをひとつした。
取られた免許証はどうしよう? 二十万? くそ、いまどきの中学生の恐喝じゃあるまいし。しかし、たった今の僕の所持金は千円にも満たない。明日の朝銀行に行かなければ。だいたい、僕はあそこでどれぐらい気絶していたのだろう? あいつらには十分僕の所持品を探る時間があったはずだ。そう考えているうちにふと気付いて慌てて隣の部屋に脱ぎ捨てたジーンズのポケットに入っている財布を取りに行った。中を見ると、銀行のキャッシュカードも、郵便貯金のキャッシュカードも両方無事だった。僕はほっとすると同時に、そういえば昨夜も確かめたことを思い出し、なにやってんだろうと思った。ともあれ、これで明日からまったく動けなくなるということはなさそうだ。
僕はほっと安堵の息を洩らすと、煙草を一本吸った。煙が立ち昇るのをぼうっと見ながら、まだなにか引っ掛かっていることに気付いた。昨日のこと。なんだろう? 昨日見つけたもの? 昨日手に入ったもの……
しまった、と僕は思わず声を出して、鞄の中を探った。
あった。
僕は冷や汗を流しそうだった。ケイコの住民票。こいつが見つかっていたら今ごろはまだあの趣味の悪い部屋の中でうなりながら転がっているか、少なくとも顔は今の倍以上に膨れ上がっていただろう。免許証どころか、それこそ殺すか殺されるかというところまでつきまとわれるだろう。あいつらがぼんくらで本当に助かった。僕はもう一度安堵の溜息を洩らした。この際、免許証など別に諦めてもいい。なくしたと言って再発行してもらうこともできる。問題はあいつらがどこまで僕にこだわるかということだ。こだわる、というところで、僕は「今週中」「殺す」というデブのしゃがれ声を思い出し、ぞっとした。ほっとしてる場合じゃないな。一度二十万でも渡したら、いつまでもつきまとわれるかもしれない。なんせやくざのしつこさというのは折り紙付きだ。僕は心底うんざりした。これはなんか対策を考えなければいけないな。いずれにしてもまだ明日明後日と残っている。最悪、高杉にでも相談するしかなさそうだ。それにしても、もし僕が二百万用意したら、高杉は本当にあいつらを殺すのだろうか?
もうひとつ引っ掛かっていることがある。こだわるといえば、あいつらはなんでケイコにあれほどこだわるのだろう? いくらやくざがしつこいとは言え、あの部屋に居座るほどこだわるわけはなんだ? 彼らはケイコの亭主の舎弟で、仇を討とうとでもしているのか。そうするとやはりケイコが殺したのだろうか? あのぼんくらどもが、兄貴分のこととなるとそこまで律儀になるのだろうか? やっぱりやくざってものはそういうものなのだろうか?
まったく、クエスチョンマークだらけだ。僕は本当にうんざりした。
いくら考えても堂堂巡りだ。やはりなにか行動に移さなければ。しかし、もう今日は夜になってしまったし、明日から動くといってもどこをどう動けばいいのだ?
ああ、またクエスチョンマークだ。
僕の中では、ケイコが彼女の亭主を殺したであろうということは既に確信になっていた。それと同時に、彼女が凶器をこの部屋に隠していたであろうことも。かつての謎のその1からその3まで ――なぜ彼女は僕に声をかけたのか、なぜ彼女は僕と寝たのか、なぜ彼女は僕に睡眠薬を飲ませたのか ―― は、そのためと考えればすべて説明がつく。もうひとつ忘れてた、謎その7、なぜ彼女はあの晩上り電車に乗っていたか、ということも。だが、そのことはかえって僕の彼女を恋焦がれる気持ちを強くしていた。それでも彼女は僕に恋してくれたのだ、ということをなによりも一番強く確信していた。今では。いや、正確にはこう言い換えてもいい、確信したかった。
あれこれ考えているうちに、気がつくと八時を過ぎていた。このままではせっかくの有給三日目もこれで終わってしまう。待てよ、と僕は気付いた。小平までは二時間もあれば往復できる。これからでも会えないことはない。もう一度ワタベマチコに会って話を聞いてみたかった。なにはともあれ、駄目元でもとにかく彼女に電話してみよう。僕は手帳を開いて彼女の自宅の電話番号を確認すると、受話器を取ろうとした。
そのとき、電話が鳴った。
15.
タイミング的に僕は飛び上がるほどびっくりした。
一瞬、ケイコかとどこかで期待する気持ちが湧き起こったが、考えてみれば先週末からというもの、ロクなことが起こっていない。得てしてこういうことは続くものだ。とすればこれもまたロクな電話じゃないということだ。もしかしてまた黒田だろうか? 一番下の引き出しじゃなくて二番目だったかな。それとも黄色じゃなくて白い封筒だったかな。それともテレパシーが通じてワタベマチコだったりして。まさかね。次にスキンヘッドのデブの暑苦しい顔と声がアタマに浮かんで、胃が酸っぱくなった。いずれにしても僕はうんざりしながら受話器を取った。
「もしもしー、ケンジくん?」
テレパシーだった。とりあえず、黒田でもデブでもなかったことに感謝した。
「あー、びっくりした」
「なんで?」
「いや、こっちの話。それにちょうど電話してみようかなと思ってたんだ」
「意外と女たらしね」
「いや、そういうことじゃなくて」
「冗談よ。なんかそういうところが可愛いのよね」
可愛い? うーむ。どうもこのワタベマチコにはかなわない。
「まあいいや、とにかく、これからでもそっち行ってまた話聞けないかなと思ったんだ」
「話なら電話でもいいじゃない、わざわざ来なくても」
「なるほど」
「それともわたしに会いたくなった?」
「え、いや、それは……」
「かーわいいー」
気がつくと僕はひとりで赤面していた。まったく。
「ねえ、なんか声かすれてない?」
「実は今へろへろなんだ」
「どうしたの?」
「まあ、にわかには信じてもらえないかもしれないけど、あの後ケイコの住んでたマンションまで行ってやくざにボコボコにされた」
「うっそー。だったらなおさら無理しちゃだめよ」
どうでもいいが、この子はホントに僕より年下なのだろうか? ときどきまるで母親みたいだ。
「それでなにが訊きたかったの?」
「いや、なんか言い忘れたこととか、他に思い出したこととかないかなと思って」
「なんかって、例えば?」
「んー、例えば彼女から電話があったとか」
「ないわよ」
「そうか。そりゃそうだよね……」
「それだけのためにこっちまで来ようなんて、よっぽどケイコのこと好きなのね、ケンジくん」
「……」
僕はまた赤面していた。
「ね、今赤くなったでしょ」
やはりテレパシーかもしれない。僕はひとつ空咳をしてごまかすと、訊きなおした。
「それよりそっちこそなんで電話くれたの?」
「あ、そうそう、さっそくで悪いんだけど、来月の武道館のチケット取れる、二枚?」
「大丈夫だと思うけど。来週まで生きてたら」
「なにそれ」
「禿でデブのやくざに免許証取られて、殺すって言われてるんだ」
「やだー。冗談きついよ」
「冗談ならいいんだけど」
「じゃホントなの、ボコボコにされたって」
「ああ、エレファントマンみたいになってる」
「ちゃんと消毒した?」
「あ……忘れた」
「まったく世話が焼けるんだから。病院で診てもらった方がいいわよ。でもホント大丈夫なの? そのやくざの話」
「一応オレの予定ではオレが殺すことになってるから」
「なんか緊張感ないわね、その辺」
「実際、こう急にばたばたと起こると、なんか現実感湧かないんだ」
「どっか隠れた方がいいんじゃない? 真面目な話」
「んー、それもなんか悔しいし。ホント言うと、腰が抜けるほどびびってるんだ。だから明日考えるよ、どうするか」
「ねえ」
「なに?」
「死なないでね」
「それってチケットのため?」
電話を切る前に彼女はもう一度、死なないでね、と言った。半分泣き声になっていたように聞こえたのは気のせいだろうか。いい子だな、と僕は思った。
僕はとりあえず今日動くことは諦め、からだを回復させることに専念することにした。さすがにお粥だけでは腹が空いてきたので、コンビニまで出かけて残り少ない所持金で弁当を買った。他の客は僕の方をちらちらと見るし、レジの店員は僕の顔を見て一瞬ぎょっとした表情を見せた。僕はサングラスでもしてくればよかったなと思ったが、同時にサングラスを持っていないことも思い出した。
弁当を食べ終わると、湯を沸かして風呂に入った。
湯船に浸かった途端にからだ中が悲鳴を上げる。まったくへろへろだ。情けないことこの上ない。しかし、浸かっているうちに、全身の血の巡りがよくなって少しずつ楽になってきた。本当はこういうときは風呂に入った方がいいのだろうか? それとも入らない方がいいのだろうか? さっきワタベマチコに訊いておくんだった。
湯船に浸かりながら、ワタベマチコにはああ言ったものの、もう一度デブのことを考えてみた。警察に捕まらないで、あいつらを殺す方法はないものか。こういうときは、中学のときに通信教育で習った空手もあんまり役に立たないな。あの金髪の方だけならなんとかなるかな。でも日本刀ぐらいは持っていそうだ。少なくともドスはあるだろう。包丁でも持って行くか。それでも焼け石に水か、蛙の面にしょんべんか、あのデブの皮下脂肪には通じないだろうな。せめて拳銃でもあれば。拳銃? そうか、ケイコにさえ会えればなんとかなるかもしれない。
しかし、冷静に考えると、それが一番難しいことなのだった。
僕は考えるのを諦めて風呂から上がった。湯上りのからだをバスタオルで拭きながら、ひとまずデブと金髪のことは放っておくことにした。びびっていてもしょうがない。なるようになれだ。
開き直ると、湯上りの気持ちよさと弁当で腹がくちたこともあって、猛烈に眠気が襲ってきた。すべては明日だ。明日考えよう。
電気を消してベッドにもぐり込むと、僕は昨日に続いて泥のように眠った。
こうして僕の有給三日目はあっという間に終わった。
16.
夢を見ていた。
僕は病院のベッドに横たわっていた。腕や鼻や口やそこらじゅうからチューブが繋がれ、僕の周りには点滴やら輸血用のバッグやらがぶら下がり、その周りを縦横無尽にチューブが走っている。僕は子供のころにあった、チューブの中をボールを走らせるゲームを思い出した。横手には心拍を表示するスコープが波打っていて、ぴっぴっと規則正しいリズムを刻み、まるでメトロノームのようだった。傍らには白衣を着たケイコが、クリップボードを持って何か書き込んでいた。僕はケイコ、と口に出そうとしたが、チューブが邪魔で声にならなかった。チューブをはずそうにも、からだじゅうが包帯やらなにやらで身動きが取れない。僕はもう一度ケイコ、と叫んでみた。やはり声にはならず、息がしゅうしゅうと漏れただけだった。気がつくとケイコの姿は見えず、僕はそれを探そうと目玉だけを必死で右往左往させた。突然目の前にスキンヘッドのデブの顔がぬっと現れて、その醜悪な顔は目を細めて笑っているようだった。デブの口の端がにやっと持ち上がった。僕は目を見開いて、もう一度ケイコ、と叫んだ。やはり妙な息の音が漏れるだけだった。デブはもう一度にやっと笑うと、日本刀の切先を僕の腹に垂直に当てた。デブの半端な刺青の入った腕の筋肉が盛り上がり、日本刀を持つ手に力が入るのが見えた。ゆっくりと日本刀の先が僕の腹にめり込んで行くのが分かった。デブの口が動き、声は聞こえなかったがどうやら「バイバイ」と言っているようだった。僕はこれ以上無理だというところまで目を見開いて、もう一度声にならない声で叫んだ。ケイコ。
自分の声で目が覚めた。本当にケイコと叫んでいた。僕は汗をびっしりとかいていた。夢か、と安堵しながらも、夢の中のチューブを走る輸血用の血液の赤や、点滴の黄色い色が気になった。カラーの夢は正夢だということを昔聞いたような気がする。そんなわけで僕は寝覚めからとてつもなく憂鬱な気分だった。窓を叩く雨の音が聞こえる。雨の日が憂鬱なのか、憂鬱だから雨が降るのか。
冷たい水で顔を洗うといくぶんマシな気分になった。鏡を見ると、気のせいか顔も昨日よりはマシになったような気がする。からだを動かしてみても、まだ痛みはあるが昨日ほどではない。僕は鏡の前で背伸びをしたり、首をごきごきと回したり、果ては昔通信教育で習った正拳突きをやってみたりした。そんなことだけでも少しは元気が出てくるような気がするから不思議なものである。
例によってコーヒーとトーストだけの朝食を食べながら、今日はどうしようか考えた。彼女の実家をあたってみることも考えたが、そんなものはとっくに高杉があたっているだろう。だいたい、今のこの顔では話を訊こうにも不審がられるだけだろう。無駄足になるのは目に見えている。考えれば考えるほど打つ手がない。お手上げだ。せっかく回復しかけた気分もまた徐々に沈んで行った。いつぞや想像したコンクリートの塊のようにゆっくりと。
結局、食べ終わるころには起きたときよりも憂鬱になっていた。まるで外の雨が部屋の中でも降っていて、ずぶ濡れになっているような気分だった。
突然電話が鳴った。時計を見ると、まだ八時だった。こんな時間にいったい誰だろう? 嫌な予感がする。そもそも昨日からやたら電話がかかってくるような気もする。それに嫌な予感というのは、大概の場合当たるものなのだ。鳴り続ける電話のベルは、夢の中を走るチューブのように、憂鬱に僕のアタマの中に響いた。
気が重いまま、僕は受話器を取った。
「もしもし」
なに?
「もしもし、忘れちゃった? ケイコ」
もちろん忘れたわけではなくて、驚きのあまり僕は固まってしまっていたのである。ようやく声が出たのは、もう一度ケイコがもしもし、と言ってからだった。
「ああ、びっくりした。もう電話かかって来ないかと思ってた」
「ごめんね。起こしちゃった?」
ケイコの声は心なしか僕が覚えているよりも元気がなかった。
「いや、大丈夫。奇跡的に起きてた」
「ごめんね」
「元気? どうしてた?」
こういうときは矢継ぎ早に質問を浴びせるよりも、相手の話をまず受け止める度量が必要だ、などとアタマの片隅では思うものの、僕は我慢できずに言ってしまった。所詮僕は冷静沈着などとは程遠い凡庸な男なのだ。
「うん。いろいろあって。ごめんね、迷惑かけちゃって」
「そんなことないよ」
そんなこともなくもないではないかな、などとややこしいことを考えたが、それにしてもなぜ、彼女はそのことを知っているのだろう?
「ほんとにごめんね」
どうして彼女は謝ってばかりいるのだろう? それに気のせいか、彼女の声は涙ぐんでいるようにも聞こえた。
「ねえ、会いたいんだ」
「わたしも」
「ちょっと酷い顔してるかもしれないけど。いやもしかしたらかなり酷い顔してるかもしれないけど」
「わたしのせいね」
「いや、昔から火に飛び込む癖があるんだ、きっと。オレの先祖は蛾かなんかだったんだ」
ようやく彼女はくすっと笑った。ホントに、ホントに久しぶりに彼女の笑う声を聞いた。
「マチコから聞いたの。彼女だけには連絡を取ってたの。わたしの方から一方的にだけど」
「どうりで」
「ああ見えても口が固いのよ、彼女」
こいつはちょっとした驚きだ。さすがの僕も見抜けなかった。いや、僕だからこそ見抜けなかったのか。少なくとも、ケイコの友達を選ぶ目は確かだ。
「いつ会える?」
「これからじゃ駄目?」
「今すぐでもいいくらいだ」
ホントに、いまケイコがドアをノックしてくれたら、と僕は思った。
「ねえ、プラネタリウムが見たいの」
「いいよ。それからゆっくり話できる?」
僕は本当のところは「全部話してくれる?」と訊きたかったのだ。そのニュアンスは果たして彼女に伝わるのだろうか。
「うん」
「よかった。どこのプラネタリウム?」
「渋谷の五島プラネタリウム」
「何口だったっけ?」
「東口の東急文化会館の上。分かる?」
「分かるよ」
「じゃあ、十一時に入り口のところで」
「ねえ」
「なに?」
「ホントに会いたかった?」
「ホントに、ホントに会いたかった」
後ろ髪を引かれる思いで電話を切った後、僕は思った。今日はツイてる。これでなにもかもがオーケイだ。
雨のせいで今日は少々肌寒い。フード付きのブルゾンを着てアパートを出た。一度ツイていると思うと足取りも軽いし、起きたときは憂鬱の種でしかなかった雨でさえ、僕を祝福しているように思える。まるで「雨に唄えば」をバックに踊るフレッド・アステアのような気分だ。実際のところ、まだ顔が腫れ上がっている僕には、傘をさすのはかえって好都合だった。
真っ先に駅前の銀行に寄った。ATMで残高を見てみると、十五万しかなかった。郵便貯金の方は残高がほぼゼロだし、これではそもそも二十万払うどころではない。僕はいくら下ろそうかしばし考えた。デブの暑苦しい顔がアタマに浮かんだが、結局五万だけ下ろした。あいつらのことはとりあえずどうでもいい。この際放っておこう。僕はすっかり強気になっていた。
さすがに電車の中では、ちらちらと僕の顔をうかがう乗客が目に付いた。ひそひそと声をひそめて話すカップルもいる。しかし、今日の僕にはそんなことも気にならなかった。中野でドアの脇が空くとそこに移動して、腫れの酷い左側がドア側に来るように寄りかかって立った。ドアが閉まり、再び電車が動き出すと、雨粒が伝うドアの窓に負け試合の後のボクサーみたいな顔が映った。やっぱり彼女はこれを見たら驚くだろうな。まさかこの顔で嫌われることはないと思うけど。
平日の昼前で、しかも雨だということもあり、渋谷の駅はそれほど混み合ってはいなかった。僕は東口のロータリーに掛かっている中央通路を通って、東急文化会館の二階に直接入った。エレベーターで八階まで上がる。いつもの癖で階を示すランプを見上げていると、八階に近付くに連れて自分の心拍数も上がっていくのが分かる。
八階に着いてドアが開くと、目の前がプラネタリウムだった。見渡すと、まだケイコは着いていないようだ。エレベーターを降りて時計を見ると、まだ十一時五分前である。入り口のところで時間表を見ると、最初の投影は十一時二十分となっていた。先に二人分の入場券を買っておこうかとも思ったが、思いとどまった。僕は灰皿の置いてあるエレベーターの脇の壁にもたれて、煙草を吸いながら彼女を待った。
一本目の煙草を吸い終わって時計を見ると、十一時を五分過ぎていた。まだ彼女は現れない。一瞬、もしかしたら彼女はこのまま現れないのではないかという不安がアタマをよぎった。今日を逃したらもう二度と会えないのではないかという思いが胸に軽い痛みを呼ぶ。なにを考えてるんだ、まだ五分過ぎただけじゃないか。僕は二本目の煙草に火を点けた。たぶん、心拍数はいつもの一・二五倍ぐらいにはなっていた。
二本目の煙草を灰皿に捨てていると、エレベーターのドアが開き、数人の人が降りてきた。そして僕は一ヶ月半ぶりにケイコと再会した。十一時十分。
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