(4)
12.
僕は病院を後にすると、萩山の駅を右に折れて小平霊園の前を通り抜け、西武新宿線の小平駅の前に出た。どうやらこの界隈だけは駅前らしさを保っている。とは言っても西友があるぐらいで、駅前としては寂しい。それでも歩いている人は各段に増えた。ほとんどが見るからに主婦である。こういうところをベッドタウンと言うんだろうな、と僕は思った。
地図を頼りにケイコの住んでいる、いや住んでいたマンションを目指した。歩きながら僕はなぜか確信した。この街にケイコはもういない。この街は静か過ぎる。
通りの交差する角にその建物はあった。
マンションとは言ってもこぢんまりとした三階建てで、一階はスナックになっている。表通りに面した隣は雑居ビル、交差する道沿いの隣はこの街ではよく見かける昔ながらの農家らしい庭先の広い家である。スナックの右手に外階段があり、どうやらエレベーターはないようだ。その階段の下が土地の余っているこの界隈では珍しい、地下の駐車場の入り口になっている。
一階のスナックは開くのは夜かららしく、今はまだ閉まっていた。「スナック くるみ」と書かれたガラスのドアを呆けたように五秒ほど見ていた僕は、それからおもむろに上を見上げてみた。ケイコの住んでいた部屋。半ば軟禁されていた部屋。彼女はここでどういう時間を過ごしていたのだろう。そして、ようやく悪夢から解放されたというのに、なぜいなくなってしまったのだろう。それともより深い悪夢に落ちただけなのか。そして彼女にとって僕はいったいなんなのだろう。
右手の入り口を入ってみた。オートロックや管理人室なんてものはなく、ただ郵便受けが三つ並んでいるだけだった。201号なんて言うわりには、外見通り、各フロアに一世帯になっているようだ。ちなみに301号室は「久留見」となっていた。なるほど。不思議なことに201号の郵便受けは外から見る限り、新聞や郵便の類がはみ出していることもなく、空のように見えた。
それから僕は地下の駐車場に降りてみた。駐車スペースは四台分あり、たぶん半分はスナックの客用のものなのだろう。薄暗い駐車場にはアコードと、その奥にクラウンが停めてあった。片方は三階の住人のものと思われる。問題の車は車種からいってクラウンの方だろうが、たぶん警察での鑑識を終えて綺麗に洗って戻されたものなのだろう、見たところは特に変わったところは見られなかった。コンクリートの壁にスイッチがあったので入れてみると、天井の蛍光灯がちかちかしながらついた。そこで僕ははじめてクラウンがフロントガラス以外の窓に全部スモークが張ってあることに気付いた。なるほど。頭から入れて駐車するようになっているので、これではドアさえ閉まっていればボンネット側から覗き込みでもしない限り中に死体があることなど気付かないだろう。僕は敢えてそれ以上近付かなかった。別に怖いからではない。ケイコを無理矢理犯して、脅し続けていた男。僕はそんな奴の残り香すら嗅ぎたくなかった。床に唾を吐きたくなるような嫌悪感だけを覚えた。僕は蛍光灯のスイッチを切ると、駐車場に背を向けた。
僕は彼女が消えた理由が分かるような気がした。彼女はこんなところに一日たりともいたくなかったのだ。彼女が殺したにしろ、そうでなかったにしろ。そう考えると、亭主が死んでからまだしばらくここにとどまっていたことの方が不思議だ。厄介事はむしろそっちの方なのかもしれない、と僕は思った。
僕は外階段を上って二階へと向かった。
踊り場を過ぎて二階のフロアに出た正面にドアがあった。表札もなにもなかった。僕はドアの前の壁にもたれて、大きく溜息をひとつ吐いた。僕はいったいなにをしているのだろう? なんのためにここにいるのだろう? こんなところまで来て、なにがどうなるというのだろう?
そのとき、僕の耳になにかが届いた。人の話し声のような、音楽のような。僕は壁に耳をつけてみた。テレビの音のようだ。それは確かに聞こえる。ドアの向こうから。
誰かいる。
まさかケイコか。彼女はここに戻ってきたのか? それとも高杉の例の話はすべて嘘っぱちで、ケイコはずっと変わらずここにいたのだろうか。僕は彼のほら話に振りまわされて、こんな生まれて初めて訪れる街まで辿り着き、まるで蛾が街灯に誘い込まれるようにこのドアまで辿り着いてしまったのか。だったら高杉はなんでわざわざそんなことをする。ワタベマチコの話は? あの新聞記事は? 地下にあったスモークガラスのクラウンは?僕は現実感を見失いそうになった。どれが本当でどれが嘘なのか、なにもかも区別がつかないような感じに襲われて、眩暈を起こしそうだった。僕は頭を振ってそれを追い払おうとした。
アドレナリンが全身を駆け巡るのを感じる。高杉の話を信じれば、中にいるのはケイコではなく、僕にとって厄介事以外のなにものでもない。もし中にいるのがケイコであるとしたら、そして彼女にとって僕はただの通り過ぎた男に過ぎないとしたら。僕の覚えているケイコがすべて僕の思い過ごしが作り上げたものだとしたら。いずれにしてもこのドアの向こうにあるのは僕にとって災厄だ。やめておけ。僕のアタマのどこかから声が聞こえる。わたしのこと好き? 僕は軽い眩暈を覚える。やめておけ。まるでスピルバーグの「ポルターガイスト」のドアを開けるようなものだ。もしくはパンドラの函だ。やめておけ。
だが僕は万が一にもケイコがいるのかもしれないという誘惑に勝てなかった。僕は気がつくとドアの脇のチャイムを押していた。チャイムを押す自分の指先が、僕にはスローモーションでも見ているようにとてつもなくゆっくりと見えた。そして次に響いたチャイムのピンポーンという呑気な音は、僕の中に薄ら寒さを覚えるほど大きく聞こえた。その瞬間、僕は酷く後悔した。しかし、もう遅かった。
誰かがドアに近付く気配がして、がちゃりとドアノブが回った。その間、僕はドアの前に凍りついたように立ち尽くしていた。ドアが開いた。
半分開いたドアから顔を覗かせたのは、二十歳そこそこの若い男だった。金髪に染めたパンチパーマ、もはや季節はずれの派手なアロハシャツ。やせぎすでこけた顔。ドアノブを持つ左手の小指のあたりに包帯。男はひとことも発せずにどんよりとした三白眼で口を半分開けて僕を見つめるだけだった。僕は思わず「あ」と小さく声をあげ、そのままのかたちで固まってしまった。部屋の奥からはドラマの再放送らしいテレビの音が聞こえてくる。数秒の奇妙な沈黙が続き、僕にはそれがやけに長く感じられた。
ようやく男は声を発した。妙に甲高い声だった。
「おたく、誰?」
僕は目の前の貧弱な男を、これで下がニッカボッカでも穿いてたらまるで田舎の暴走族だな、などとぼうっと考えながら、なんと答えたものかわからず黙っていた。特に恐怖は感じなかった。それよりも困ったな、という感じだ。
と、部屋の奥からやけにかすれたダミ声が聞こえた。
「女か? テル」
テルと呼ばれた若い男は、振り向いて例の甲高い声で奥に向かって答えた。
「違います。男っす」
ことここに至って、ようやく僕はマズいなと気付き、じわっと得体のしれない恐怖が湧きあがってきた。それでも僕はまるでエアポケットに入ったように身動きができないでいた。
「せっかくだから上がってもらえや」
先ほどのだみ声がまた聞こえた。金髪の肩越しに玄関の奥に目をやると、いつのまにか突き当たりにやけに太ったスキンヘッドの男が立っていた。男の上半身は半袖の下着一枚で、下はやはりステテコ一枚だった。袖から出た二の腕にはまだ色を入れていない刺青が見えた。
これはホントにマズいぞ。逃げるか。
しかし、足は動かなかった。僕はなにかうまいこと言ってこの場を切り抜けなければ、と必死でアタマを絞ろうとした。だが、うまいことを考えつく前に金髪がドアを全開にして言った。
「入れ」
ようやく僕は声を出したが、それは酷く間抜けなものとなった。
「あ、なんか間違えちゃったみたいで。結構です」
「いいから入れ」
金髪の甲高い声は気味は悪いがそれほど威圧感があるわけでもない。それよりも奥にぬぼうっと突っ立っているデブが、秋の夕下がりに下着一枚でうっすらと汗をかいている方がよほど威圧感があった。
逃げろ。とにかく走って逃げろ。
アタマの片方は大声で叫んでいるのだが、意に反して、僕は「お邪魔します」と言っていた。まったく、僕という男は、どうしてこう小心者なのだろう?
趣味の悪い部屋だった。
玄関を入ってすぐの十畳ほどの部屋はリヴィングのようだ。部屋の真ん中にガラスのテーブルを囲むように革の応接セットがあった。もっとも本物の革かどうかは分からないが。ソファの上には、なんだかよくわからない動物の毛皮がかけてあった。
「まあ座れよ」
デブが上座の方にどっかと座りながら言った。僕はこういうのを飛んで火に入る夏の虫って言うんだろうなと思いながら、向かい側のソファに腰を埋めた。デブはその体格と不精髭から老けて見えたが、近くでよく見るとどうやら僕とたいして変わらない年か、もしかしたら若いぐらいだと分かった。それにしても太ってるな、こいつは。僕は改めて太ってる奴は結構怖い、と思った。いまさらではあるが。ただでさえ暑苦しい顔のあちこちに傷がある。それにこいつも左手の小指に包帯をしている。どうせその先っちょはついていないのだろう。いずれにしてもやくざをこれだけ間近に見るのは初めてだ。
金髪は玄関側の戸口にもたれて立っている。もしかして簡単に逃げられないようにか。まったくやれやれだ。
デブはそれっきり口を閉ざしたので、僕には余計なことを考える時間と、観察する時間ができた。
部屋の片側にはサイドボードがあって、金ぴかに光る扇子やら、熊の彫り物やら、七福神の乗った宝船とかの趣味の悪い置物が、ブランデーやらの酒類と居場所を争っていた。おまけに壁には鹿の首と、般若の面まで飾ってある。ついでに部屋の片隅にはゴルフセットと金属バットまで立てかけてあった。どうやらこの部屋の元住人は特別に趣味が悪かったらしい。こんなところにケイコがいたと考えると、僕は胸糞が悪くなった。恐怖と同じぐらいのスピードで、むくむくと腹の底から怒りが湧いてきた。
デブはテーブルの真ん中にあるクリスタルガラスの灰皿にてんこ盛りになった吸殻の中から長そうなやつを選ぶと、同じく卓上にあった据え置き型のライターで火を点けた。いまどきこんなダサいものを使ってる奴がいるとは。
デブはふーっと煙を吐き出すと、ただでさえ細い目を余計に細くして、僕をにらみつけながら言った。
「それで?」
それで。僕はデブのほとんど毛のない眉毛のあたりをぼうっとみながら、なんと答えるのが正解か考えた。とにかく、考え過ぎるのが僕の欠点だ。そんなわけで沈黙の妙な間がしばらく続いた。部屋の隅にある馬鹿でかいテレビだけが、別れ話をセンチメンタルな音楽をバックに語っていた。
なにか答えなければ。
僕のもうひとつの欠点は、こういう場合でも余計なことを考えることだ。僕はなんでこんなところにいるんだろう? なんでわざわざチャイムなんか鳴らしてしまったのだろう?
気がつくと僕はダンガリーの胸ポケットから煙草を取り出して、ジッポで火を点けて吸っていた。デブが顔をしかめた。
そうか、それで、だっけ。
「だから間違えちゃったんですよ」
とりあえず玄関口と同じ言い訳をしてみたが、それがリアリティを持つには、自分で考えても間が長過ぎたようだ。
「そんなこと訊いてんじゃねえよ。お前、あの女のなんなんだ?」
デブはフィルターまで吸った煙草をてんこ盛りの灰皿にぐいと押し付けると言った。禿頭の脇をつーっと汗が一筋流れるのが見えた。いつのまにか僕も脇の下に汗をじっとりとかいていた。
「女?」
ここはとにかく、徹底的にとぼけることにした。
「だから間違い……」
いきなり後頭部に衝撃が来た。僕はその勢いでテーブルに顔を打ちつけ、てんこ盛りのクリスタルガラスの灰皿が飛び散った。一瞬、目の前が真っ暗になった。
う、と声を上げながらようやく顔を上げると、自分の鼻からつーっと血が流れるのが分かった。いつのまにか金髪が僕のうしろにまわって、なにかで殴りつけたらしい。
「なんのことだか」
僕はもう一度言い訳を試みたが、全部言い終わらないうちに今度はデブが足の裏で額を思いきり蹴り飛ばした。
今度は座っていたソファごと僕はうしろにひっくり返った。そこを金髪が脇腹に蹴りを入れてきた。二度、三度、四度。僕は途中で数えるのを止めた。ごほっごほっという自分の声がアタマに響く。
僕は息ができなくなって身を丸くした。テレビでは中井貴一がなにか叫んでいた。
「あ、ここいいとこなんすよね」
苦痛に身を捩る僕の耳に金髪の例の甲高い声が聞こえてきた。
「こいつ振られちゃうのか?」
デブのしゃがれ声まで聞こえてくる。僕は耳鳴りで頭ががんがんしていた。鼻血は相変わらず止まらず、目尻のふちから涙が伝わるのが分かる。くそ、いつか殺してやるぞ、こいつら。ぼんやりとアタマの片隅で毒づいた。
「なんだよ、これで続くかよ」
サザンのテーマソングにデブの声が被ってきたところで、僕は意識を失った。
13.
夢を見ていた。
ケイコがケイト・ブッシュの声で唄っていた。僕はギターではなく、上手く弾けない方のピアノを弾いていた。弾きながらあたりを見渡すと、そこは夜の高円寺のホームだった。快速列車が僕らの脇を凄まじいスピードで通り抜けて行く。しかし、列車の轟音は聞こえず、僕の下手糞なピアノに乗せて唄うケイコの声だけが美しく響いた。僕はとても幸せな気持ちになってケイコに向かって微笑んだ。ケイコも唄いながら僕に微笑み返した。唄が終わると拍手が聞こえたので振り返ると、ワタベマチコと高杉がにこやかに笑いながら拍手をしていた。僕は照れながらケイコの方を見ると、彼女は涙を流していた。とても悲しそうな顔をしていた。なんだか僕も凄く悲しくなった。いつのまにか僕も一緒になって泣いていた。拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
「おい」
どこかから声が聞こえて僕は目を覚ました。アタマががんがんする。前にもこんなことがあった。あのときは目を開けるとそこにケイコが微笑んでいたのだった。
目を開けると目の前一杯にデブの顔があった。気がつくと僕は髪をつかまれて頭を持ち上げられていた。
「お前、ホントにケイコのこと知らないのか?」
ああ、ホントに耳障りな声だ。おまけにこいつの口は臭い。吐きそうだ。
「知らない」
僕はなんとか答えた。その瞬間、デブは僕の後頭部を床に叩きつけた。僕はうっと声を上げてのけぞった。デブの吐いた唾が顔のすぐ脇に飛んできた。
「けっ、しょうがねえな。嘘だったら殺すぞ」
オレは必ずお前を殺す、と僕は心の中で叫んだ。ケイト・ブッシュの声はいつのまにかかき消され、どす黒い怒りだけが僕の中を渦巻いていた。もはや恐怖はどこかに行ってしまっていた。頭と腹のあたりがずきずきと痛む。
「おい、目開けろ」
またしゃがれ声が唾とともに飛んできて、僕は目を開けざるを得なかった。見ると、デブが頭上で僕の免許証を左手にもってぶらぶらと振っていた。
「こいつ預かっておくからよ。警察に垂れ込んだりしたら必ず殺す」
そう言うと、デブは僕の襟首を掴んで玄関の方に引きずって行った。そしてそのまま僕は玄関の外に放り出された。金髪がへへへと気色の悪い笑い声を上げながら僕の鞄を放り出した。目の前にかがみ込んだデブがまた臭い息を吐きかけた。
「今週中に二十万持って来い。テーブル代。そしたら免許証返してやる」
そう言うとぺっと唾を吐いた。今度は顔の真ん中に命中した。僕は痛みと屈辱で思わず目を閉じた。バタンというドアの閉まる音が聞こえて、ようやく静けさが戻ってきた。
僕は顔をぬぐうと、階段の手すりにつかまりながらなんとか身を起こした。無造作に転がっている鞄を拾い上げてジーンズに叩きつけてほこりを落とすと、手すりを頼りによたよたと這うように階段を降りた。途中の踊り場で尻餅をついて、そのまま座り込んでしまいたいところをなんとかこらえて再び起き上がると、何度も転びそうになりながら一階まで辿り着いた。
いつのまにかあたりはすっかり暗くなっていた。今は何時ごろなんだろう? 腕時計を見ると、もう九時をまわっていた。時計のガラスにはひびが入っていた。くそ、お気に入りだったのに。
僕は壁伝いに郵便受けのところまで辿り着くと、そこで腰を下ろして一休みすることにした。壁にもたれた頭を通りに向けると、ときおり車が通り過ぎる程度で、人通りはなかった。誰にも見つかりたくなかった。こんなところを警察に通報されても、事態がよくなるとは思えなかった。むしろ悪くなるだけだ。厄介事が長引くだけだ。ずきずきするアタマでそう考える一方で、一刻も早くここを立ち去りたいという恐怖から来る思いもあった。恐怖。いまはそれどころじゃないな、と僕は苦笑して煙草を吸おうと胸ポケットに手を入れたが、当然のように煙草もジッポもそこにはなかった。はっと気付いてジーンズの尻ポケットを探ると、不思議なことに財布はそのままだった。しかし、中を見ると、当然のように金は全部抜き取られていた。くそっ、どうやって帰ればいいんだ。壁越しにもう営業しているらしいスナックのカラオケの音が聞こえる。誰かが下手糞な「北国の春」を唄っている。ふるさとになど帰ってたまるものか、このままで。
鞄を開けてみると、幸い手帳はそのままだった。あいつらがぼんくらでよかった。どうせ見られたところでケイコの連絡先などどこにもないのだ。表紙の裏に確かテレフォンカードがあったはずだ。あった。菊地桃子のテレフォンカード。度数もまだ残っている。僕は誰にかけようか考えた。ここから一番近いのはワタベマチコだ。帰り際に訊いた電話番号はメモしてある。それに今は寮を出てひとりでアパート暮らしだと言っていた。看護婦だから手当てもしてくれるだろう。驚くだろうな。ふとそこで僕は気付いた。ワタベをワタナベと読んだら、ワタナベマチコになってしまうではないか。僕はひとりでくくっと声を上げて笑った。笑うと頭の奥と脇腹が痛んだ。
ひとしきり笑い終わると、僕は少しだけ冷静になった。これ以上このごたごたに人を巻き込んでは駄目だ。それはことを複雑にするだけだ。そう考えると、電話できるところは一ヶ所しかなかった。
通りをワンブロックも歩かないうちに電話ボックスを見つけた。
中に入ると、ボックスの壁に映る自分の顔を眺めた。あれだけ痛めつけられたにも関わらず、外見からは目の下と唇の端がちょっと切れていて、あとは前髪を上げると額が少し切れてたんこぶができているだけだった。苦々しさと同時に、うまいことやるもんだなと妙に感心を覚えた。
手帳のポケットに入れてあった高杉の名刺を見ると、事務所の電話番号のほかに自動車電話の番号も書いてあった。どちらか迷ったが、ひとまず事務所の方からかけてみることにした。菊地桃子を電話に差しこむと、25という赤い数字が点いた。
呼び出し音が三度鳴ったところで受話器が上がり、聞き覚えのある声が聞こえた。
「はいー、高杉探偵事務所ですぅ」
なにはともあれ、これでなんとか帰れそうだ。
高杉は二十分ほどで現れた。
その間、僕は電話ボックスの真後ろにある駐車場の壁に寄りかかるように座って待った。無性に煙草が吸いたかった。僕は夜気の寒さにひとつ身震いして、ワタベマチコにスタッフジャンパーをあげてしまったことを思い出した。まったく、今日みたいな行動をする日はロゴ入りのスタッフジャンパーなんて目立つものを着てくるのが間違いだ。素人にしても基本がなってない。
などと反省していると、ちょうど電話ボックスの前に白いブルーバードが停まった。助手席側のウィンドウが開くと、サングラスをした高杉が運転席で片手を上げていた。僕はよたよたと立ちあがると、ガードレールをまたいで助手席に乗り込んだ。
「意外と地味な車に乗ってますね」
「あのな、探偵がフェラーリとか乗ってちゃ目立って仕事になんないだろ」
もっともである。高杉は車をスタートさせると、正面を見ながらつぶやいた。
「しかし、呆れたもんだ」
「すみません」
「無茶しちゃ駄目よ、素人は」
「あの」
「なに?」
「煙草一本もらえますか?」
高杉がくれたショートホープに火を点けて吸い込むと、くらくらと眩暈がした。高杉には電話で今日起こったことを粗方話していた。一応念のためにワタベマチコのくだりはぼかしてあった。青梅街道に入ると、高杉が訊いてきた。
「それでなんか分かったのか?」
「なにも。免許証取られただけです」
「セコいカツアゲやるなあ、ちんぴらが。それでどうすんだ、二十万払うのか?」
「殺します」
高杉は一瞬こちらを向いて、サングラスの上から覗く眉毛が上がった。
「マジか?」
「マジです」
「言うことが大袈裟っていうか、ポップだね、きみも」
どうやら今日は「きみ」らしい。
「オレが殺してやろうか。二百万でどうだ」
「ずいぶん安いですね、前と比べると」
「ゴミは安いんだよ」
途中で高杉がラジオのスイッチを入れると、ジミー・クリフの「メニー・リバーズ・トゥ・クロス」が流れてきた。高杉はオレこれ聴くと泣けるんだよね、と言った。僕も大好きなんです、と言って二人でラジオに合わせて唄った。なぜだか知らないが、僕は途中から不覚にもちょっと涙が出てしまった。
早稲田通りを左折して、高杉は迷わず僕のアパートの前までつけた。高杉はアパートの中までついてきた。部屋の電気を点けると、散らかりっぱなしの中を見て、高杉が訊いた。
「自分でやったのか?」
「そう」
「それでなんか見つかったか?」
「なにも」
「ホントか?」
「一応助けてもらったから嘘はつかないですよ」
「ま、いいか。トイレのタンクの中は見たか?」
「真っ先に」
「意外といいセンいってるじゃないの」
「コーヒーでも飲みますか?」
「いや、それより電話貸してくれ」
高杉が電話をかけているあいだ、僕はコップに水を満たしてひと息に飲み干した。実際、死ぬほど喉が乾いていた。高杉はなにもしゃべらないで電話を切った。どうやら留守電でも聞いていたらしい。高杉は腰を上げると、じゃ、オレ帰るわと言った。僕は忘れないうちに声をかけた。
「あの」
「なんだ?」
「千円貸してもらえませんか?」
高杉はとにかくなにか分かったら教えろよ、と言い残して帰った。僕は一度外に出て、高杉に借りた千円でマイルドセブンをひと箱買った。がたんと自動販売機から煙草が落ちてくる音を聞きながら、やっぱり案外いい人なのかなあなどとぼんやり考えた。
部屋に戻って気が抜けると、また頭やら脇腹やらがずきずきと痛みだした。それと同時に怒りやら屈辱やら恐怖やらがふつふつと甦ってきた。僕はところどころに血のついた着ていたものを全部脱ぎ捨て、風呂場に入って風呂釜に点火すると、熱いシャワーを頭から浴びた。ひとまず嫌なことは流してしまおうと。
ようやくからだが温まると、僕はベッドに倒れ込んだ。そして泥のように眠った。
こうして僕の長い有給休暇二日目はようやく終わった。九月とともに。
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