(3)
9.
翌日の日曜は雨だった。
ライブはまずまずだった。直前に降ってわいたトラブルが、元々あがり症の僕の演奏にどれだけ影響をもたらすものやらと思ったが、やけくそ半分でかえって無心になれた。僕はアタマの周りを渦巻く高杉の意味深な笑いやら、ケイコの唇の端を伝わる唾液やら、地下の駐車場に横たわる死体やらを振り払うようにギターを弾いた。ただ周りから聞こえるバンドの音だけに身を委ねて。アタマの中を真っ白にして。最後の方の二曲は、たぶんそれまでの僕の演奏の中でも最高のものだったろう。素晴らしきかな、音楽。しかし、いくら上手く弾けたからといって、所詮僕はもうミュージシャンを目指していたころの僕ではないのだ。それに、音楽がこの厄介な状況をなんとかしてくれるとも思えなかった。
昼過ぎに目を覚まし、肌寒さにもう秋なんだなと改めて思った。窓の外にしとしと降る雨がもたらす湿気は、僕の憂鬱にさらに重さを加えた。僕はひとつ身震いして起き上がると、コーヒーを淹れ、トーストが焼き上がるのを待った。
遅い朝食とも昼食ともつかないトーストを食べ終え、コーヒーの入ったマグカップを手にベッドに腰を下ろすと、今後の対策を考えた。
今後の対策?
実際のところ、妙に現実味がなかった。コーヒーを飲みながら、昨日高杉が話したことを繰り返し考えた。しかし結局は振り出しに戻ってしまう。高杉の話は真実なのか? ケイコは本当にやくざに追われているのか? ケイコは本当に亭主を殺したのか? そしていずれは僕も組事務所に連れ込まれ、半殺しの目に遭ったりするのだろうか?
僕はいったいなにをすべきなのか?
もう少し現実的に考える必要がある。五百万。もしくはケイコの出国した証拠か死亡証明書。
いくら考えても、いまの僕にはそれだけの金を作ることは不可能だった。出国証明も死亡証明もどうしたら作れるのか皆目見当がつかなかった。お手上げだ。
少し冷静に考えてみよう。
仮に五百万が作れたとして、それはどれだけ有効なのか。考えてみると、ただの人捜しに二百万というギャランティはいくらなんでも法外な気もする。それともやくざ周りでは当たり前の相場なのだろうか。いずれにしても高杉は大なり小なりふっかけていることは間違いないだろう。
高杉?
いったい彼はどの程度信用できるのだろう。仮に僕が彼に五百万払ったとしても、それでケイコが安全になったとどうして言い切れる? 僕の知らないところでひっそりと東京湾に沈められたとしてもなんの不思議もない。僕はコンクリートの四角い塊がゆっくりと暗い海の中を沈んでいくさまを想像して、それから大きく首を左右に振ってその映像をアタマから追い払った。
それに、高杉という男は、手詰まりになったら案外簡単に僕を組に差し出すかもしれない。東京湾にゆらゆらと沈むのがこの僕であってもなんの不思議でもない。
結局は僕がケイコと会えない限り、なんの解決にもならないのだった。
ケイコ。高橋圭子。三度会っただけの女。
実際高杉の言った通り、僕はちっともあきらめていないのだった。一度は薄れかけたはずの現実感とはお構いなしに、彼女の存在は僕の中で大きくなる一方だった。ちょっと切ない目をして問いかける彼女の声が、繰り返しその表情とともに甦ってくる。
わたしのこと好き? わたしのこと好き? ……
いつのまにか彼女は僕のこれからのすべてだ、と思い始めていた。彼女が僕のこれからをすべて決めるのだ。
現実にはもし高杉が信用できて、このままケイコからの連絡が途絶えて会うこともなければ、恐らく僕は平穏に、東京の片田舎のやくざとも胡散臭い探偵とも関わらずに、これまでどおりに過ごして行けたりもするのだろう。のんびりと朝起きて、それから会社に向かって、ショウコちゃんあたりと冗談を交わして、スタジオに入ればぼうっとゲームをしたり、時には集中してボーカルチャンネルを選んだり、そんなふうに日々を重ねて僕は年を取っていくのだろう。何事もなかったように。そんなことはまっぴらだ、と僕は思った。
僕はケイコと出会ってしまったのだ。
もう一度ケイコから連絡があって、そして彼女に会えたなら、僕は恐らくとんでもなく厄介で危険なものに巻き込まれてしまうのだろう。だが、知ったことか、と僕は思った。僕は彼女が好きなのだ。僕には、そして僕の人生には彼女が必要なのだ。彼女が僕に助けを求めるなら、僕が彼女を救うべきなのだ。そして、僕はそれを切に願った。
もしかしたらこんな気持ちは、サザンの桑田が言うように、ただの一時の思い過ごしなのかもしれない。しかし、恋ってそんなもんだろ? 世の中の恋の九十五パーセントは思い過ごしだ、と僕は勝手に決めつけた。
僕はたまらなくケイコに会いたかった。
10.
僕は現実的なアクションを起こすことにした。
翌日の月曜日、十一時に会社に電話すると有給休暇を五日取った。「どうしたんですか?」と受話器の向こうからショウコちゃんの驚いた声が聞こえたが、僕は構わずそういうことだからと言って電話を切った。これで動ける時間が一週間はできた。なにから取りかかるべきかは昨夜ひとしきり考えた。こうしている間にも高杉は僕より先にケイコを見つけてしまうかもしれない。なにしろ彼はプロなのだから。
最初に図書館に向かった。外は昨日と打って変わって抜けるような青空だった。僕はそれを見上げながら、いまごろ秋山はユーゴに向かって飛んでいるころだろうかと思った。
電車と地下鉄を乗り継いで図書館に着くと、僕は過去の新聞を閲覧した。高杉は八月のアタマと言っていたので、八月一日の新聞から順に社会面を見ていくことにした。
三日の朝刊にそれはあった。社会面のほんの隅っこに。小平市で暴力団員射殺。写真もなにもない、ほんとに小さな記事だった。確かに高杉の言う通りだ。駐車場の車の中から射殺死体で発見。高橋武史(37)。僕は名前の上の住所だけをメモした。
次は地図だ。まずは先ほどメモした住所周辺の地図をコピーして、住所のところに鉛筆で丸く印を付けた。それから僕はポケットから薬袋を取り出した。ケイコが持ってきた薬が入っていた袋のひとつだ。袋に書いてある病院の住所周辺の地図をコピーして、病院のある場所にやはり鉛筆で目印を付けた。
僕は図書館を後にすると、まっすぐ小平に向かうつもりだった。新宿駅のホームで中央線を待っているあいだ、アタマの片隅になにかが引っ掛かっていることに気付いた。なんだろう? 「電車がきます」とプレートの文字がオレンジ色に点灯した。ほどなく、オレンジ色の車体がホームに滑り込んできた。目の前のドアが開く。なんだろう? 降りる客を待って中に入ると、ドアの脇にもたれて立った。発車のベルが鳴り、ドアが閉まる。なんだろう? 順を追って考えろ。今日見つけたこと。二日、駐車場の車の中から射殺死体で発見。そうか。電車がゆっくりと動き出す。八月一日だ。窓の景色に僕の顔が映る。八月一日。
僕は中野で降りた。
それから各停を待って高円寺で降りた。改札を抜けると、早足でアパートへと向かった。高円寺銀座のアーケードを抜けて、早稲田通りを渡って。こういうときは駅から徒歩二十分という距離が途方もなくもどかしい。歩きながらようやく思い至ったことを反芻する。
あれは八月一日だった。ケイコと出会ったのは。
早稲田通りを渡ってからが長い。まだ十分以上歩く。平日の昼下がりで人通りの少ない道を急いでいると、額にうっすらと汗が浮かぶ。僕はいつか丸めて捨てた紙を思い出していた。
謎その3。
なぜ彼女は僕に睡眠薬を飲ませたのか。
恐らく彼女はなにかを隠したのだ。僕の部屋に。人に見つかっては困るものを。彼女を追い詰めるものを。
いつのまにか僕は小走りになっていた。アパートに辿り着いたときは肩で息をしていた。僕はひとつ息を整えると、鍵を開けて中に入った。
僕はコップに水道の水を満たして一息で飲み干すと、改めて自分の部屋を見渡した。
半畳ばかりの玄関口を入ると六畳ほどのキッチン付きの部屋。その奥に四畳半の部屋とトイレと風呂場がある。縦に長い、いわゆる振り分けではない1DKだ。使いにくい作りでおまけにこれだけ駅から遠いので家賃も安いのだ。ついでを言えば窓は北側に当たる右側だけで日当たりもよくない。玄関のすぐ右隣に流し。部屋の左側には壁つきに横に長いオーディオラックを置いて、その上にスピーカーとレコードプレイヤー、それに十四インチのテレビが乗っている。部屋の真ん中に例の丸いコタツ兼用のテーブル。少しでも広く見せようと奥の四畳半との間を仕切るふすまははずしてある。奥の四畳半は左側が一間分の押し入れと天袋、窓側にはベッド。この部屋には壁際に背の高い本棚がひとつ。空いたスペースにはギターやキーボードなどの楽器類が立てかけてある。四畳半のさらに突き当たりにトイレと風呂場。
さて。どこから見ていくべきか。ひとまず僕はコタツ兼用のテーブルに腰を下ろして、煙草に火を点けた。
自分ならどこに隠すか。まずはそう簡単に見つからないところ。つまりは住人であるこの僕が滅多に見ないし、使わないところ。
僕はこれまで読んだ推理小説をできるだけ思い出そうと努力した。しかし、それはあまりにも数が多くてとてもひとつのイメージは浮かび上がってこなかった。イメージ。僕は推理小説というヒントを早々にあきらめ、映画を思い浮かべることにした。彼女が隠したと思われるもの。油紙に包まれたずっしり重いもの。そうか。
僕は煙草を灰皿で揉み消すと、まっすぐトイレに向かい、ドアを開けた。半畳ほどの狭いスペース。僕は間違いなくこの中にあると確信した。心拍数が上がる。腹を決めると、奥のタンクの蓋を開けた。
だが、それは空っぽだった。白い陶器でできたタンクの中は、水が四分の三ほど溜まっている中に、水位を感知するプラスチックの丸い玉が浮かんでいるだけだった。
振り出しだ。そもそも彼女が好んでスリラーやサスペンス映画を見ていたという保証はない。逆に考えれば、僕が一発で探し当てるほど単純な隠し場所とも言える。もし僕が警察だとしても、まず最初にここを探すだろう。
彼女はそれを隠すのにどれだけの時間があったのだろう。第一、僕はあの日どれぐらい眠ってしまったのだろう。寝入りばなの記憶があまりにも曖昧だ。というよりほとんど記憶にない。彼女とホームで出会ったのが十一時近く。アパートに辿り着いたのは十一時過ぎだ。着くなり彼女は僕にキスをして、そのままベッドに入って。目が覚めたのは四時ちょっと前だ。とすると、少なくとも二時間、いや三時間はあったはずだ。それだけあればかなり余裕をもって隠す場所を探すことができたはずだ。
しかし、いくら考えてもトイレのタンクの中以上の効果的な隠し場所は思いつかなかった。しょうがないので、ひとつずつ当たって行くしかなさそうだ。僕はとにかく自分が普段できるだけ近寄らない場所から探してみることにした。まずはありふれているが天袋。ここは滅多に使わないものを入れておく。いや、実は違うのだ。僕の場合、ここはわりとよく開ける場所なのだ。実は右側の天袋にはマスターベーション用の裏本やらエロ雑誌やら裏ビデオの類を入れてあるのだ。だから、三日にいっぺんぐらいはここは開けたりしていたのである。ひとり暮しなのにわざわざこんなところに隠しておくこともないような気もするが、田舎の両親がたまに泊まりに来たときに見つかったらとか、とにかく人間の心理なんてものはそんなものである。僕は隣の部屋から椅子を持ってきて乗ると、天袋を開けて調べた。ケイコは僕より十センチほど背が低いし、もしここを見たなら同じようにしたはずである。見たなら? ケイコが僕の秘蔵の品々を見つけて眉をひそめる図を想像して、僕は椅子の上でひとりで赤面した。とにかく、天袋にはなにも変わったものはなかった。
次は押し入れだ。それにしても、僕という人間はどうしてこうも貧乏性なのだろう。捨てることが下手なのだ。天袋にしても押し入れにしても、引っ越して来てから一度も使ったことがなくて、これからも使わないであろうと思われるものが山のようにある。漫画の単行本をまとめて入れてあるダンボール箱などを引っくり返して調べていくうちに僕はもううんざりし始めていた。
しかし、一度始めたものを投げ出してもしょうがない。次はベッドの下(ほこりだらけだった)、本棚、楽器のケースの中、隣の部屋に移ってオーディオラック、食器棚、流しの上下の棚の中、玄関口の下駄箱の中とその上に乗っている新聞ラックの中と、とにかく調べられるところは全部調べてみたが、それらしきものはなにも見つからなかった。
僕は汗をびっしりとかいていた。アパートに着いたときのようにテーブルに腰掛けてマイルドセブンに火を点け、ふうっと大きく煙をひとつ吐き出した。
おっともうひとつ忘れていた。風呂場のドアを開けて、洗濯機の周りやら、果ては風呂場のすのこまで持ち上げてみたが、結果は同じだった。ゼロ。
元のテーブルに戻って、僕は茫然と煙草を吸った。ない。なにも。
辺りを見渡すと、まるで空き巣にでも入られたように部屋中がとっちらかっていた。もうそろそろ暗くなり始めていた。僕は頭上に垂れ下がっている蛍光灯のひもを引いて明かりを点けた。そして溜息をひとつ吐いた。
これをまた片付けたら夜だな。ほっといてこれから小平に行ってもロクに調べる時間がない。一日目がつぶれてしまった。気がつくと煙草をフィルター近くまで吸っていたので灰皿で消した。僕はいったいなにをやっているのだろう? そもそも探しているもの、油紙に包まれた拳銃が見つかったとして、それがなんになるのだろう? それでケイコが見つかるとでもいうのか? それでケイコが救われるとでもいうのだろうか?
途方もない虚脱感が僕を襲った。同時にどっと疲れがでてきた。
僕はようやく重い腰を上げて流しに向かうと、薬缶に水を入れて火にかけた。足元に転がっているミルを拾い上げ、コーヒーの豆を入れるとガリガリと挽いた。ガリガリ。そこで僕はようやく思い当たった。彼女はもう一度ここに来たではないか。薬を持って。なんでこんなことにいまごろ気がつくのだろう。あの日、僕は熱でそのまま朝まで寝てしまった。彼女は持ち帰ることができたのだ。もしそれがあったとしても。
ふうと僕はまた溜息をひとつ吐いて、湯が沸くのを待った。
11.
目覚ましの音で目が覚めた。時計を見ると八時だ。こんな時間に起きるのはホントに久しぶりだ、と思いながら目覚ましを止めると、ふっと一瞬意識が遠のいた。次に時計を見ると、なぜか九時半をまわっていた。やれやれ。なんてこった。
結局昨日は一日無駄にしてしまった。いや、なにもないことを確認できただけでもよしとしなければならないのだろう。昨日徒労に終わった分は今日取り戻せばいい。無理矢理自分に言い聞かせると、僕は眠い目をこすりながら起きた。
トーストとコーヒーだけの朝食を食べると、ジーンズとダンガリーのシャツをあわただしく着てそのまま出掛けようとしたが、ふと思い直してその上にスタッフジャンパーを羽織った。今日で九月も終わりだ。もう秋なのだ。
下りの中央線は通勤と逆方向なので空いていた。国分寺で多摩湖線に乗りかえると、二つ目の青梅街道の駅で降りた。
同じ東京でもどうしてこうのどかなのだろう。それはなにも平日の午前中だからというだけではなくて、小平というところはどこか地方都市然とした、都心のあわただしさとはかけ離れたところだった。第一、ここにはなにもない。青梅街道が一本通っているだけで、駅前には申し訳程度の店がいくつかあるだけである。ファミレスが一軒あるだけで喫茶店らしきものは見当たらず、ここに立って見渡す限り、街道沿いにぽつりぽつりと車のディーラーの看板が目につく程度である。歩道を歩く人影もほとんどない。まさに絵に描いたような郊外都市だ。
市役所はすぐに見つかった。
街道と交差する市役所入口と書いてある道も、緑ばかりが目につき、その中にぽつんとモダンな市役所がそびえている。道の両側には古い農家らしき大きな家と、最近建てられたらしいこぢんまりとした建売の住宅とアパート、その合間にビニールハウスのある畑。それがどこまでも続いている感じだ。
自動ドアを入り、僕はどこかやましさを覚えながら、それでも警察に突き出されるわけではないのだと自分に言い聞かせた。緊張して心臓の鼓動が少し早くなる。僕はまず入り口近くにある公衆電話に備え付けの電話帳を開いてみた。あった。高橋武史。図書館でメモした大まかな住所と照らし合わせる。同じことを確かめると、住所と電話番号を手帳に書き写した。それからテーブルに移動して、いくつかある申請書のなかのひとつを取ると、住民票の写しの申請書を書き始めた。手帳を取り出して、メモした住所をそのまま書く。書きながら、これでは足りないことに気付いた。僕が知っているのは番地までで、マンション名と部屋番号までは分からない。これで大丈夫だろうか。やっぱり高杉に電話して訊こうか。しかし、それもなぜか妙に気が重い。こちらの動きを知られるのも嫌だし。そう考えながらふと思った。もしかしたら高杉は昨日今日の僕の行動などすべて知っているのかもしれない。なにしろ僕はずっとつけられていたのだ。しかし、先週姿を現したのもいい加減尾行しても埒があかないからではないか。今になってもまだ僕をつけるしかネタがないとも思えないし、そこまで暇だとも思えないが、なにしろ相手は得体の知れない探偵だ。分かったもんじゃない。
そこまで考えて、もうどうでもよくなった。当たって砕けろだ。もし駄目ならそのときは高杉に電話して訊けばいい。名前の欄に高橋圭子と書いて、代理人のところに自分の住所と名前を書いた。どうせ身分証を呈示しなければならないので、これはしょうがない。請求者との関係は友人と書いた。電話番号の欄には先ほど電話帳で調べた番号を書いて、自分の電話番号はそのまま書いた。申込書の余白に「プライバシーの侵害等につながる不当な請求には応じられません」と書いてある。それでもこれが全くの不当な請求であるとは言えないだろう。それに別になにかを偽っているわけでもない。いや、ほとんど偽ってない。とまあ、そんな感じに僕は自分を納得させた。自分だけ納得してもしょうがないのだが、この場合。
名前を呼ばれるのを待っているあいだ、灰皿のそばの椅子に座ってひたすらマイルドセブンを吸ったが、心臓は早鐘のように打っていた。どうして僕はこう小心者なのだろう。これは遺伝なのだろうか。だとしたらどっちの遺伝なんだろう。
なんてことを考えていると、「マカベさん」と呼ぶ声が聞こえて、僕は慌てて煙草を灰皿に放り込むと、窓口に向かった。
「免許証かなんかありますか」
僕は免許証を財布から取り出すと、窓口の女性に渡した。眼鏡をかけた女性はそれをあっという間に見比べると、いとも簡単に住民票の写しを差し出した。僕はまだどきどきしながら二百円ばかりを払うと、わざとゆっくりと窓口を離れた。そのまま出口から外に出ると、大きくひとつ息を吐き出した。ふーっ。なんか拍子抜けするほど簡単に手に入った。これでようやくマンション名と部屋番号が手に入った。くるみハイツ201号。くるみハイツ? どうもこれが極道の住むマンションの名前だとはぴんと来ない。
まだ誰かから呼び止められるような錯覚を覚えて足早に市役所を後にして、とりあえずファミリーレストランに入った。
一番奥の席についてコーヒーを頼むと、ようやく人心地ついた。一体全体、こんな調子でケイコを救うことなど果たしてできるのだろうか。いやそれ以前に、ケイコを見つけることができるのだろうか。
出された水をぐいっとひと口飲んで、煙草を吸いながら考えた。僕の手元に残されたケイコを手繰り寄せるものは、彼女の置いていった薬ぐらいしかない。情けないことに。ひとまずはそこから当たってみるしかない。こんなことでなにが分かるかなんてまったくアテにならないが、それでもなにもしないでじっと電話を待っているよりはマシだ。少なくとも親しかった友人ぐらいは見つけられるかもしれない。薬袋の病院は、名前からすると恐らくケイコがかつて勤めていた総合病院の方だろう。それだと高橋圭子ではたぶん通じない。途中で結婚して姓が変わったとしても、事情が事情だけに少なくともその病院ではケイコは旧姓で通しただろう。高杉が口にしたアオキケイコ。まずはそれで当たってみるべきだろう。駄目だったらタカハシで訊いてみればいい。しかし、こんなことでうまく行くのだろうか?
ついでに昼食を食べてからファミリーレストランを出ると、線路沿いの道を歩いて病院へと向かった。
相変わらず緑ばかりでなにもないように思える道沿いを十分ほど歩くと、左手に大きな病院の建物が目に飛び込んで来た。
武蔵野西病院。
僕は名前を確かめると、ひとつ深呼吸して中に入った。
すでに外来の時間は終わったのか、中は閑散としていた。入り口を入ったところにある受付はとりあえず無視して進むと、待合室があった。三列ほどならんだベンチには、見舞い客らしい人たちが何組かと、パジャマを着た患者が数人、それぞれ談笑したり煙草を吸ったりしていた。カルテを持った看護婦がときおり病棟の方へと通り過ぎる。
僕はとりあえず誰もいない一番後ろのベンチの隅っこに座った。大きな病院というのは子供のころの盲腸以来なのでどうにも落ち着かない。作戦を練ろうと思ったが、なにもいい考えが思いつかず、結局行き当たりばったり作戦で行くことにした。
意を決して病棟の方に進むと、最初に目に付いたのは内科の受付だった。行き当たりばったり作戦決行である。ちょうど若い看護婦が受付にいたので思いきって声をかけた。
「あの」
「面会ですか?」
ケイコと同い年ぐらいの、小泉今日子をちょっと呑気にした感じの看護婦は、ちょっと事務的な笑みを浮かべた。
「ええ、いやその、こちらに以前勤めていた青木圭子さんのことで」
途端に看護婦の眉間に皺が寄って、不信をあらわにした。
「警察の方ですか?」
「いえ、なんと言ったらいいか、その、友人です」
彼女の眉間の皺はますます数を増した。僕は慌てて付け加えた。
「探しているんです。その、連絡が取れなくなったので。なにかこちらで分からないものかと」
自分で話しながら、どうしてこう馬鹿正直な言い方しか思いつかないのだろうと自分を呪った。こういう場合、高杉ならどう訊くのだろう? 高杉? そういえば、あんな新聞記事程度で殺されたのがケイコの亭主だとすぐ分かるはずがない。それともこんななにもない街では噂はあっという間に広がるのだろうか。試しにカマを掛けてみた。
「もしかして僕の前にも訊きに来ました? 誰か」
看護婦は相変わらず気難しいキョンキョンみたいな顔で答えた。
「ええ、警察が。あなたもしかして探偵?」
「いえ、ホントにそんなんじゃなくて、怪しいものでもなくて。こう言ってもすぐには信じられないだろうけど」
僕はどうしたらいいものか分からず、財布から名刺を一枚取り出して彼女に渡した。
「ディレクター」
彼女は名刺の肩書きを声に出して読んだ。それからおもむろに名刺を裏返した。裏側には会社所属のアーティスト、つまり社長と副社長の名前が書いてある。途端に眉間の皺が消えて目が輝いた。
「ねえ、コンサートのチケットとか手に入るの?」
気がつくとタメ口だ。まあ、最初からこちらが劣勢なわけだから。
「そりゃ入るけど」
「でも、本物だってどうして分かるの? 免許証とかある?」
「あるけど、名刺の番号に電話した方が早いんじゃないかな」
そう言いながらも僕は免許証を彼女に見せた。彼女はそれを見ると、写真より実物の方がいいわね、と言いながら僕に返した。
「タダの招待券とかも手に入る?」
「そりゃ入るけど」
「ねえ、ディレクターってなにやるの?」
その質問が一番困る。一番説明の難しいことなのだ。まさかスタジオでゴルフゲームをやること、とは言えないし。僕が考え込んでいると、向こうから助け舟が来た。
「それで、なにを知りたいわけ?」
「ケイ……青木さんと一番仲がよかった人を教えて欲しいんだけど」
小泉今日子はにこりと笑うと、自分を指差した。
「わたし」
彼女はあと十五分で休憩だから、外のベンチで待っててと言った。
僕は玄関を出て、芝生が広がっている庭のベンチに腰を下ろして、マイルドセブンを二本吸った。
三本目の煙草に火を点けようとすると、玄関から彼女が走って出てきた。手にはサンドウィッチと缶コーヒーを持っていた。どうやら昼食らしい。彼女は隣に腰を下ろしながら言った。
「電話してみたわよ。今週一杯休んでますだって」
一瞬、ケイコに電話したのかと思ったが、すぐに僕のことだと分かった。
「ごめんね、食べながらでいい?」
「いいよ」
小泉今日子はよく見ると胸にネームプレートを付けていて、そこには「渡部」とあった。僕はそれを見ながら訊いてみた。
「ワタナベさん、って言うの?」
「ワタベ。よく間違えられるんだ。ワタベマチコ。ねえ、ケンジくんっていくつ?」
いつのまにか僕はケンジくんになっていた。
「二十七。ねえ、人をそんなに簡単に信用しない方がいいと思うけど」
これはちょっと高杉の受け売りだ。
「だって悪い人に見えないもの」
「それって誉められてるのかな」
「そのつもりだけど。ねえ、若く見えるわね。ケンジくんってもてるでしょ」
「自分ではわかんないよ」
「なんか母性本能くすぐるところがあるのよね」
これも彼女いわく誉めているのだろうが、複雑な気持ちだ。なんか手玉に取られているような気もする。
「あ」
サンドウィッチを食べ終えて缶コーヒーを飲んでいた彼女が突然僕のスタッフジャンパーを指差した。
「これちょうだい」
僕は一瞬呆気に取られたが、しぶしぶ答えた。
「いいよ」
「やったー」
やっぱり手玉に取られてる。社長であるアーティストのロゴが入ったジャンパーを脱いで渡しながら、どうしてこういうことを断れない性格なのだろうと考えた。やっぱり遺伝なのだろうか。
「さっきの質問なんだけど」
「え?」
「誰か訊きに来なかったかって」
「ああ」
「来たわよ。警察のほかに。松田優作みたいなのが」
少しはジャンパーの効果があったようだ。
「なにも知らないって言ったけどね、警察にもだけど」
やはり高杉は来ていたのだ。所詮僕は彼の後をのろのろと追いかけているようなものなのだろうか。だとすると僕はまるで道化だ。
「わたしね、ケイコとは看護学校から一緒だったのよ」
ワタベマチコはそういうと缶コーヒーをひと口飲んで、ちょっと遠い目をした。
「この病院でも一緒の寮だったんだ」
「そうなんだ」
「だからあのこともよく知ってる」
「あのこと?」
「ケイコから聞いたでしょ。災難よね、あんな奴の担当になったのが」
ワタベマチコはいつのまにか真顔になっていた。
「ケイコのこと好きなんでしょ、ケンジくん」
僕はちょっとうつむいて「うん」と答えた。ああ、これじゃまるで子供だ。
「たぶんケイコも好きだと思うよ、ケンジくんのこと」
「そうかな。じゃなんで連絡が来ないのかな」
「たぶん迷惑が掛かると思ってるのよ」
「そうかなあ」
「ねえ」
「ん?」
「きっと来るわよ、電話。そんな気がする」
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