(2)

4.


 気がつくと十日取った夏休みももう土日を入れて三日しか残っていなかった。

 どこへも遊びに行くことなく終わってしまいそうだった。そして事実そうなった。残りの三日間、僕は例によってケイコからの電話をひたすら待つことで過ごし、ぼんやりとイメージした医者の旦那とセックスしているケイコを想像して嫉妬に苦しんだ。

 結局、ケイコからの電話はかかってこなかった。


 やっぱり休み明けの出勤というのはいつもながら気が重い。カーペンターズの曲に「雨の日と月曜日は」というのがあったが、まさにそんな気分だ。

 これが普通の会社だったら、朝七時に起きてネクタイを締めてスーツを着て気分を新たに引き締めて、ついでに満員電車に揺られてあきらめもつく、というところなのだが、いまの会社はネクタイを締めたりすると「どうしたの?」と訊かれるような会社なので、格好もジーンズのままだし起きるのも適当なのでなかなか気分転換が難しい。

 それでも一応会社の始業時間となっている十一時をちょっと回ったころに顔を出した。

 会社は表参道の骨董通りを一本入ったところにあるマンションの二階の一室である。

 案の定、まだ女性ふたりしか出勤していなかった。午前中はだいたいこんなものである。デスクのショウコちゃんと経理兼総務の桜田さんのふたり。

 ショウコちゃんは僕よりも会社では先輩だが年は五つほど若い。沖縄出身のちょっとエキゾチックな可愛い子で、実はこの会社に入ったときから僕はひそかにまんざらでもないと思っていた。しかし、噂によるとどこかの会社の部長の愛人であるらしい。最初にこの噂を聞いたときは内心酷くがっかりした。

 桜田さんは僕より逆に五つほど上の既婚者で、サクラダジュンコというのが本名である。女性の場合、結婚するときは相手の姓に気をつけた方がいい。やたら元気がよくてちょっと男勝りなところがあり、自分と同い年かそれ以下の男はすべて「~くん」になってしまう。要するにちょっと自意識過剰な面があって、わたしは仕事ができるのよ的な突っ張りが多分にある、この業界には典型的な女性である。ちなみに旦那のことは「ダーリン」と呼ぶ。

「おはよう」

 僕が入っていくと、いきなり桜田さんが声をかけてきた。

「マカベくん、全然焼けてないじゃん」

 僕はむっとして答えた。

「どこも行かなかったから」

「じゃあなにやってたのよ?」

 これだからおばさんは嫌なんだな、と思いながらも一応は反撃を試みる。

「セックス」

「えー、うっそー、マカベくん、彼女でもできたの」

「大きなお世話ですよ」

 僕が眉間に皺を寄せていると、ショウコちゃんが僕の机にコーヒーを持ってきてくれて、ついでにうふふと笑った。

 なにがうふふなんだよと思いながらも僕はコーヒーに口をつけ、休み中の伝言帳に目を通した。

 

5.


 ケイコから次に連絡があったのは、渋谷で会ってからちょうど一週間後のことだった。

 その日は平日だったが、僕は風邪をひいて会社を休んでいた。前日からたまにくしゃみなどをしてちょっと風邪気味だとは思っていたが、起きたときのあまりのだるさと熱っぽさに体温計で計ってみると八度の熱があった。昼ごろから具合はますます悪くなり、医者に行く気力もなくずっとベッドで横になっていた。

 夕方に無理して食べたカップヌードルも夜になって吐いてしまった。九時をまわるころには熱は四十度まで上がり、僕は吐き気と頭痛でうんうんうなっていた。

 電話が鳴ったのはちょうどそんなときだ。僕は転げ落ちるようにベッドから出ると、這うようにして隣の部屋まで行って受話器を取った。

「もしもし」

「酷い声ね」

「誰?」

「忘れちゃった? わたし、ケイコ」

「実は今熱で死にそうなんだ。もしかしたらもう死んでるのかもしれない」

「なに言ってるの」

「さっき吐いた」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないってさっき言ったつもりなんだけど」

「薬は飲んだの?」

「うちにはオロナイン軟膏しかないんだ」

「いまから薬持ってってあげるから住所教えて」

「マジで?」

「わたし看護婦だって言ったでしょ」

「じゃあ実家の電話も教えるから、もし死んでたら連絡とってくれ」

「その調子じゃ死にそうもないわね」


 ケイコは二時間ほど経ってから本当に現れた。薬を山ほど持って。

 その間、僕はケイコと会えることを喜ぶ以前に、ただ熱でのたうちまわっていた。マジで風邪で死ぬことってあるのだろうかと考えた。

 ケイコは部屋に上がるとまず、買ってきたオレンジジュースをコップに注いで飲ませてくれた。水分をたくさん摂るといいのよ、と彼女は言った。高熱のからだには、冷たいオレンジジュースが喉を通り過ぎると、本当にうまかった。僕はオレンジジュースがこれほどうまいと思ったことはなかった。

 彼女はベッドに肘をついて、心配そうに僕を見つめていた。ちょっと目を潤ませて。その姿は本当に可愛かった。ところが僕の方はと言えば、うんうんうなりながら吐き気をこらえるのに精一杯で、その姿を十分味わう余裕などどこにもなかった。

 僕は彼女が持ってきた抗生物質と解熱剤を飲んでしばらくすると眠りに落ちた。ケイコは僕が眠るまで傍についていた。僕はかすかに彼女が「さよなら」と言うのを聞いたような気もしたが、それが果たして現実なのか夢なのか区別がつかなかった。


 翌朝起きると熱は下がっていた。どうやら死なずにはすんだらしい。当然のようにケイコの姿はなかった。その代わり、コタツ兼テーブルの上に書き置きがあって、冷蔵庫にお粥を入れておきました、と書いてあった。冷蔵庫を開けてみると、お粥の缶詰が三つ入っていた。

 ケイコが持ってきた元はケーキかなんかの箱らしい薬箱には呆れるほどたくさんの薬が入っていた。確かに、昨夜彼女が持ってこれるだけ持ってきたからと言っていただけのことはある。中には患者名が書いてある、患者に処方したらしい薬袋までいくつか入っていた。こんなのはどうやって手に入れるのだろう。偽の処方箋でも使うのだろうか。とにかく、胃薬から果ては下剤まで、処方してもらわなければ手に入らない薬ばかり十種類以上入っていた。これ全部飲まなきゃなんないようだったら死ぬな、と僕は思った。


6.


 その翌週から、社長でもあるアーティストのレコーディングがはじまり、忙しくなった。

 レコーディングのある日は会社に寄らず新宿御苑にあるスタジオに直接向かう。スタートが一時と決まっているので朝は非常に楽である。その代わり、帰りは夜中の二時三時になることが多く、車のない僕はタクシーで帰宅する。実際、この会社に入ってからのひと月あまりで、すでにそれまでの僕の人生で乗ったタクシーの距離の倍以上乗ったことになる。まあこの仕事というのは、考えようによっては楽なようでもあり、拘束時間を考えるとハードなようでもある。世間一般に比べると、なべると楽な部類になるのだろう。ただレコーディングのペースに入ると、世間一般とは半日ぐらいの時差ができてしまう。スタジオがひと月も続けば、その間はほとんど一般人と接する機会がなくなってしまう。せいぜいが往きの電車の中と出前の兄ちゃんと帰りのタクシーの運ちゃんぐらいである。

 あれ以来ケイコからの電話はない。もしかしたらあったのかもしれないが、そもそも僕の帰りが遅過ぎるのだ。実のところ、僕はしょっちゅうスタジオから自宅に電話を入れて留守電をチェックしたが、メッセージも入っていなかった。そもそも彼女が留守電を苦手とするタイプかもしれないし、これだけ毎日留守電になっていればいい加減呆れてしまわれても無理はない。

 二週間ほど過ぎて、僕はそろそろあきらめの境地に達しようとしていた。なぜか金輪際もう電話はかかってこないのだという気がした。そして彼女とももう二度と会えないのだと。

 やっぱりあれは彼女にとっての一時の火遊びだったのだと思おうと努力した。この際だからショウコちゃんあたりに乗り換えよう。誰かの愛人であっても構うものか。相手が僕をどう思っているかという問題はあるが。とにかく、ケイコのことはもう忘れるようにしよう。

 しかし、こういうときに限って、ケイコのことをはっきり覚えているのだ。初めて会った高円寺のホームで声をかけられたときの顔、朦朧とした意識の中に浮かび上がった彼女の笑顔、帰り際に束の間見せる寂しそうな顔、あらゆる場面の表情が鮮明にアタマにこびりついて離れない。いつも真剣な眼差しで問いかける彼女の声が繰り返しアタマに響いている。わたしのこと好き?


 レコーディングはひと月ほどで一段落ついた。

 この間に夏は確実に過ぎ去っていて、その痕跡を残すものは残暑だけになっていた。いつのまにか蝉の声も聞こえなくなっていた。

 やっぱりケイコからの連絡はなかった。相変わらず彼女の顔や声は鮮明に覚えているものの、次第に現実感は薄らいでいった。世間から隔離されているようなスタジオでの日々もそれに拍車をかけた。彼女が本当に存在したということを証明するものは、置いていった薬の数々だけだった。それと例のお粥云々の書き置きと。

 

 久々に休みを取って、アパートでごろごろしながらテレビを見ていると電話が鳴った。僕は一瞬どきりとしたが、もう以前ほど期待しないようになっていた。予想通り、受話器の向こうから聞こえてきたのは男の声だった。

「もしもし、オレ、秋山」

「久しぶり。どうした?」

 秋山は学生時代に組んでいたバンドのドラマーで、いまは一部上場の商社に勤めるエリートサラリーマンになっていた。バンドの残りのふたりはミュージシャンになっていて、いわゆる立派なカタギになったのは彼だけと言ってもよかった。卒業してすぐに同級生と結婚して家庭を設けたあたりも一番まっとうな生き方をする彼らしかった。

「いやね、オレ今度ユーゴに転勤することになっちゃってさ」

「ユーゴってあのヨーロッパのユーゴか」

「そう。それでさ、行くと五年は戻って来れないと思うからさ、行く前にそのなんだ、壮行ライブってのをやろうかなと思って」

「そういうのって普通本人じゃない奴が言い出すことなんじゃないの」

「いいじゃん、この際。ねえ、やろうよ」

「いいけどさ。他のふたりも大丈夫だったら」

「陽太郎と山崎にはもう連絡してオーケーもらってあるから」

「相変わらず要領いいな、お前。で、いつ?」

「再来週の土曜。大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ」

「よかった。実はもう新宿のライブハウス押さえてあるんだ」

「お前ホントに要領だけはいいな」

 

 久々の土日の休みを過ごして、月曜の十一時過ぎに出社すると会社にいたのはショウコちゃんだけだった。

「おはよう。今日はまだひとり?」

「桜田さん今日明日有給取ってるんですよ」

「どうせダーリンとどっか旅行でも行ってるんだろ、また」

 僕はショウコちゃんの出してくれたコーヒーに口をつけながら、一応机の上の伝言帳に目を通した。

「ショウコちゃん、このタカスギさんって男? 女?」

「男のひとでしたよ」

 伝言欄は空白になっている。

「で、なんだって?」

「さっきかかってきて、マカベさんいますかって。まだですって言ったらまたかけますって」

「あっそう」

 なんか支払いが遅れてるカードでもあったかなと考えたが思い当たるものはなかった。またそのうちかかってくるだろう。

 僕は伝言帳を閉じて、連絡すべきところに順番に電話をかけ始めた。

 

 結局タカスギ氏からその日電話はかかってこなかった。


7.


 翌週の土曜日、僕はギターのソフトケースを担いで新宿へと向かった。

 南口を十分ほど歩いたところにあるライブハウスに着くと、ちょうどベースの荒木陽太郎が車から機材を下ろしているところだった。彼はいまはツアーミュージシャンで、某ベテラン歌手のバックミュージシャンをやっている。親父さんは東大の教授で、彼にも同じ道を行かせたかったらしく大学院まで行かせたのだが、いまごろはさぞ嘆いていることだろう。当の本人はと言えば、実に呑気なものである。

 先に僕が声をかけた。

「よう、山崎は」

「もう来てるよ。秋山も」

 地下に続く暗い階段を降りて行くと、先に来ていた秋山と山崎が煙草を吸っていた。

 キーボードの山崎は都内のジャズのライブハウスで演奏している。彼だけが一年年下だ。僕ら他のメンバーがだいたいがロックから始めたクチなのに対して、山崎は最初からジャズをやっていた。ちょっと内向的で大人しいように見えるが、案外酒豪である。学生時代、一度サークルの合宿で浴びるほどチャンポンで酒を飲んで急性アルコール中毒に陥り、ひと晩で髪が真っ白になったことがある。おかげで、いまだに童顔なのに白髪がちらほらと混じっている。


 僕らは先週一度リハーサルスタジオを借りてひととおりのリハーサルはしておいた。陽太郎と山崎はともかく、秋山と僕は楽器を触るのも久しぶりだった。ただ、レパートリーはほとんどが学生時代からやり慣れた僕の曲だったので、さほど苦労することもない。学生時代の僕は、半ば本気でミュージシャンを目指していたこともあり、とかく自分ができる以上の演奏をしようと躍起になっていた。それが故にミスタッチも多かったし、演奏に出来不出来のムラがあった。いまとなってはそういう肩の力も抜けて、とりあえず自分ができる範囲のことで表現しようと思えるようになったので、不思議なことに昔よりは指は動かないもののかえっていい演奏ができるような気さえする。


 メンバーが揃ったところで、音合わせに一曲だけリハーサルしておくことにした。いちおう送別ライブという名目なので特別に付け加えた、一曲だけオリジナルのレパートリーではない、チャーリー・ミンガスの「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」をやることにした。

 照明のチェックも兼ねて、本番同様照明も落として演奏した。久々のライブハウスでの演奏はなかなか気持ちよかった。いろんなことを忘れて無心で演奏するのはとても気持ちがいい。こういうときはインスピレーションも湧くし、指も案外スムーズに動いてくれる。

 本番までは後二時間ほどもあるので、それまで茶でも飲むかと僕らは楽器を置いて出口へと向かった。

 メンバーの最後に僕が出ようとすると、ちょうど出口のドアの脇に立っていた背の高い男が声をかけてきた。

「よかった。とってもよかったです」

 満面に笑みを浮かべてそう言うと男はいきなり握手を求めてきた。

 僕はてっきりライブハウスの人間だと思った。男は三十代後半と言ったところか、それでいてジーンズの上下にウェーブのかかった長髪という、いかにも全共闘世代という感じだった。身長があって体格もいいわりに頬がこけているあたりは、松田優作と似ていると言えなくもない。

 僕は照れ笑いを浮かべながらどうも、と言って階段を上ろうとすると、男はさらに声をかけてきた。

「マカベくんだよね。ちょっと話できないかな、ケイコのことで」

 僕は思わず足を止めて振り返った。男は相変わらず人懐っこい笑みを浮かべたままだった。


 僕はバンドの連中に本番までには戻るからと言って、男と近くの喫茶店に入った。

 歩きながらもしかしたらこいつがケイコの旦那なのかもしれないと思い、僕はちょっと緊張した。

 窓側の奥のテーブル席に座ってコーヒーを頼むと、男は名刺を一枚差し出した。

「驚かせちゃったかな。こういう者なんだけど」

 名刺には、高杉探偵事務所、高杉晋作とあった。タカスギ。こいつがそうか。事務所の住所は東久留米市となっていた。高杉晋作?

「これって本名ですか?」

「そうだよ。笑っちゃうだろ。親が洒落が分からなくてさ。実際迷惑してる」

「探偵、ですか」

「まあ、事務所って言ってもオレしかいないし、セコい興信所ってとこなんだけどね」

「はあ」

 僕はもしかしたらとんでもないトラブルに巻き込まれつつあるのかもしれないと頭の片隅で思いながらも、高杉の人懐っこい笑顔と呑気な雰囲気になぜかちょっと親しみすら覚えた。

「ちょっと恩義のある弁護士に頼まれちゃってさ。オレ昔いろいろあったから。それで、その弁護士がある組の顧問弁護士なわけよ」

 僕はきょとんとして見つめるだけだった。

「あれ、また驚かしちゃった? まあ、実際、きみはちょっと厄介な立場にあるってわけなんだけど」

 そう言って高杉は出されたコーヒーをうまそうにひと口飲んだ。

 なにやら僕にとって剣呑な話らしいが、どうにも相手ののんびりとしたペースにその実感が湧かない。

「それで」

言いながら高杉はショートホープを咥えて火を点けた。

「ケイコの居場所知らないかな。タカハシケイコ。それともアオキケイコかな?」

 ふーっと一息煙をうまそうに吐き出しながら、相変わらず人懐っこい笑みを浮かべた。アオキケイコ? たぶんそれはケイコの旧姓なのだろう。どこかで聞いたことがあるような気がする。考えてみれば、それもケイコの言うように、よくある名前とよくある苗字がくっついたものだった。

「知らないですけど」

 こいつはもしかしたらとんでもない食わせ者なのかもしれないと思いながら答えてはみたものの、どうしてもそうは思えない雰囲気があるのが不思議だった。

「ケイコがどうかしたんですか?」

「うん、いや、だいたいきみはケイコが何者なのか知ってるの?」

「えーと、看護婦だってことは聞きましたけど」

「結婚してるってことは?」

「それも」

「オレもそうだけど、きみも案外呑気だなあ」

 そう言うと高杉はくく、と笑った。

 どうも相手のペースに乗せられてしまいそうである。僕はコーヒーをぐいと飲むと、思い出したようにポケットからマイルドセブンを出して吸った。煙をひとつ吐き出すとひとつ質問をぶつけてみた。

「あの、これって浮気調査なんですか?」

 高杉はまたくく、と笑うと、

「まあ、そんなようなもんだけどね。組って言ったでしょ、組って。普通もうちょっとびびんないかなあ」

「いや、なんか高杉さんいい人みたいなんで、なんか」

「あのさあ、人を見かけで判断したりすぐ信用しちゃダメよ」

「そりゃそうなのかもしれないですけど……」

「でもきみはなんかいいなあ」

「はあ」

「いいよ、ギターも上手いし」

「どうも」

「ケイコが惚れるのも分かるような気がするなあ」

 そう言ってまたコーヒーをひと口飲むと、高杉は身を乗り出して急に真顔になった。

「オレさ、こう見えても人殺したこと結構あるんだよね」

 僕は一瞬凍りついて思わず煙草を取り落としそうになった。すると高杉はすぐまた元の顔に戻って、またくく、と笑った。

「あ、びびった。ごめん、ごめん」

「脅かさないでくださいよ」

 僕はなんとか引きつった笑いを浮かべた。しかし、先ほどの一瞬真顔になったときの眼光の鋭さは脳裏に焼き付いていた。

「それで、話は元に戻るけどさ、ホントに知らないの、ケイコの居場所?」

「あの」

「なに?」

「ケイコってどういう字を書くんですか?」

 今度は高杉が呆気にとられたような顔できょとんとして、次に破顔一笑した。

「なんだ、そんなことも知らないのか。土ふたつの圭子だよ、藤圭子と同じ」

 僕は例えが古いなと思いながら頭の中で書いてみた。高橋圭子。ホントだ。ケイコの言う通り、よくある名前によくある苗字がくっついたという感じだ。

「あの」

「いちおうオレが訊いてるんだけどな、順番としては。ま、いいか。なに?」

「どうやって僕のことが分かったんですか?」

「これでもプロだからね。プロ」

 そう言ってまたくく、と笑った。

「リダイアルボタンてついてるだろ、電話に。あれだよ、あれ」

「ああ」

 ってことはケイコはやはり留守中に何度か僕のところに電話は入れていたのだ。

「悪いけどつけさせてもらってさ、あとはあのマンションにある事務所に片っ端から電話して」

「なるほど」

「こっちの質問に戻ってもいいかな?」

「ホントに知らないんです。マジで。もうひと月以上も連絡ないし。半分以上あきらめかけてたところで」

「どれぐらい付き合ってたの? 実際」

 これは誘導尋問かもしれないと思いながらも、いまさら隠し立てしてもどうにもならないような気もしてきていた。

「三回会っただけです。本当のところ」

「なあ」

「はい?」

「きみ、新聞取ってる?」

「いちおう。ただここんところ忙しかったんでろくに読んでませんけど。まあ、普段からスポーツ欄と番組欄ぐらいしか読まないけど」

「テレビぐらいは見るだろ?」

 僕はスタジオでの自分を思い出した。確かにテレビはあることはあるが、ほとんどの時間はファミコンの画面になっていた。

「信じられないかもしれないけど、このところはほとんど見てなかったですね」

「呆れたもんだなあ。それじゃあしょうがないか」

 そう言って高杉はショートホープをもう一本くわえた。

「殺されたんだよ」

「え?」

「ケイコの旦那」

 僕が心底驚いた顔をしているのを見て高杉は付け加えた。

「つまり、ケイコはもう未亡人だってこと」


8.


 僕はコーヒーが空になっていることに気付き、手元のコップの水をぐいと飲んだ。喉がからからに乾いていた。

 例によってアタマの中は混乱できるだけ混乱していた。カオス。さまざまな想像が駆け巡る。もしかしてケイコが殺したのだろうか? だとしたらなぜ? もし違うとしても高杉が登場してきているということはケイコが厄介事に巻き込まれていることは確実だ。それもかなりの。考えてみると高杉が最初に言ったように、それは僕自身がそれに巻き込まれつつあるということでもあるのだが、なぜかそれはどこかに行ってしまって、アタマの片隅ではこれで大手を振ってケイコと付き合えるかもしれない、などという能天気な考えも浮かんでいたことも確かだ。

 僕はまた眉間に皺を寄せて考え込んでいたらしい。押し黙ってしまった僕に、高杉はまた呆れたような表情で話しかけてきた。

「どうやらホントになにも知らないみたいだな」

 僕は確かにほとんどなにも知らないのかもしれない。僕の知っているケイコ。彼女の舌。彼女のかたちのいい乳房。彼女のうなじ。陰毛の下の性器。細くてしなやかな指。笑った顔。切なそうな顔。困った顔。僕より十センチほど背が低くて恐らく体重は十五キロは少ないであろうこと。二十五歳であること。小平に住んでいること。医者と結婚した看護婦であること。他にはなにを知っているだろう? 結局、僕が知っているケイコで確実なことは、僕がこの目で見て触ったものだけなのだ。

「あの」

 僕が口を開くと、二本目のショートホープを灰皿に押し付けていた高杉は目を上げた。

「教えてもらえませんか。ホントのこと」

「ホントのこと?」

「僕が知らないこと」


 高杉は眉をひそめて困ったような顔をして一瞬考え込んだが、ま、いいか、いいギター聞かせてもらったしなと話し始めた。

 高橋圭子の夫、武史は広域暴力団傘下の組の幹部だった。二年前、圭子が勤める病院に入院した際に圭子と知り合い、半年後に結婚した。とは言っても、どうやら噂ではさんざんつけまわした挙句無理矢理犯して殺すだなんだと脅して入籍させたらしい。ま、やくざなんてそんなもんよ、と高杉は付け加えた。組とは言っても構成員が十人いるかいないかの小さい組だし、武史もそれなりに見栄は張っているものの金回りはそんなによくなかったようだ。圭子には金を渡さず、ソープで働けだなんだと言っていたらしい。圭子はそれまでの総合病院から日勤だけの個人病院に移って看護婦は続けていたようだ。これはたぶん、夜武史が帰ってきたときにいないと暴力を振るわれるからじゃないかな、と高杉は説明した。ま、殴る蹴るは当たり前だからね、あいつら。圭子も何度か逃げ出そうとはしたらしいが、埼玉の実家を知られている手前、つねづね逃げたら親までただじゃ済まさんとか脅されていたらしい。去年は一度鬱病で精神科にもかかっていたようだ。ま、体のいい軟禁だよな。


 高杉はそこまで話すと、ウェイトレスを呼んでコーヒーのおかわりを二つ頼んだ。僕はひたすら煙草を灰にして聞いていた。半ば茫然としながら。あのホテルで、一度彼女は真実を語っていたのだ。旦那がやくざだと。しかし、淡々と高杉が話す凄惨な話と、僕が知っている明るくてクールなケイコと同じ人物の話だとは思えなかった。そもそも彼が真実を話しているという保証はどこにもないのだ。ただ僕は、真実というものはいつもそんな風に存在しているのだ、と思った。

 高杉はもう一本ショートホープに火を点け、話を再開した。僕は僕で、新たなマイルドセブンに火を点けた。そんなわけで僕らのテーブルは紫煙に包まれていたわけだ。


 それで、八月のアタマに、武史が自宅マンションの地下の駐車場で射殺された。まあ、チンケなやくざがひとり殺されたぐらい、ありふれた話だ。新聞の扱いもほんの数行。テレビのニュースでも似たようなものだ。気付かなくても無理はない。世間から見ればそんなものだ。警察にしてもハナから真剣に調べやしない。どうせつまらないメンツがらみの喧嘩沙汰か、いいとこ金銭トラブルってとこだろうってことで。よしんば抗争だとしてもそのうち向こうから犯人が名乗り出てくるわけだから。ところが奴らの世界では違うんだな。メンツぐらいしかないから。それはともかく、そんなわけで警察はハナから圭子は疑ってなかったようだ。第一発見者は圭子だよ。そもそもいつ帰ってくるか分からない、外泊も日常茶飯事の極道がたまたまひと晩帰ってこなかったとしても不思議でもなんでもないし、たまたま翌日の昼過ぎに下に降りた女房が死体を発見してもなんの不思議もないってわけだ。


「なあ」そこまで話して高杉はいきなり問いかけてきた。「オレってやっぱりしゃべり過ぎかなあ」

「そんなことはないと思うけど。って言うか、この場合はその方が助かるんですけど」

「ま、いいか。ここまでしゃべっちゃったら。きみがどうなるかはこの際置いといて」

 僕は一瞬ぎょっとしたが、相変わらずの調子で話は再開された。


 まあそんなわけで葬式やらなにやらも無事済んで、警察も金銭トラブルの線で捜査を続けた。なにしろ、この武史って奴は根っからの見栄っ張りで乱暴者と来てるから、だからそんな誘拐同然の結婚までしてるんだが、あちこちでトラブルの種は掃いて捨てるほどあったし、例えば麻雀ひとつとっても相当負けが込んでたらしい。ま、組にとってもある種厄介者だったわけで、犯人が捕まるのも時間の問題だろうと。ところが、だ。そうこうしてるうちに圭子が突然消えちまったってわけだ。えーと、あれはひと月ほど前か。どうもおかしい、こいつはなんか裏がある、警察が嗅ぎ付ける前に見つけろってんでオレにお鉢が回ってきたわけだ。

 ふうっと高杉は煙をひとつ大きく吐き出して、僕はコップの水を一息で飲み干した。

 それでオレがマンションの部屋に入ってみたんだが、家具やらなにやらはほとんどそのまま残ってた。圭子の着るものやなんかはあらかた残っていて、必要最低限だけ持ち出したって感じだ。ただ、通帳の類はもちろん、写真やらなにやら圭子に関するものは一切残ってなかった。メモひとつ。おまけによく見るとそこら中物色した跡があった。なにか探し物をしてたことは確かだな。そこで試しに電話のリダイアルボタンを押してみたら、きみんちに繋がったってわけだ。

 きみんち、というところで僕は思いきり眉間に皺を寄せていたらしい、慌てて高杉はフォローした。

「あ、番号メモったあと天気予報聞いといたから大丈夫、警察とかにはバレないよ、たぶん」

 あんた経由でやくざにバレる方がよほど始末が悪いだろうが、と思いながら僕は訊いた。

「それで、僕のことはその、組には知らせたんですか?」

 高杉はにやっと笑みを浮かべて答えた。

「まだだよ。オレが頼まれたのは圭子を見つけてくれってことだけだから」煙草を灰皿に押し付けながら付け加えた。「いまのところ」

 僕は内心ほっとしながらも、この高杉という男をつかみかねていた。果たしてどこまで信用していいものやら。彼の言を借りれば、「いまのところ」僕とケイコの行く末は彼に委ねられているってことは間違いなさそうだ。いずれにしてもごく常識的な一般人だとはとても思えないが、人がいい、という印象は拭えない。不思議なことに。おまけに厄介なことでもあるが。だいたい、人がよくて信用のできる悪人、なんてものは存在するのだろうか? 

 それでも僕は訊かざるを得なかった。

「ケイコを見つけたら、彼女はいったいどうなるんですか?」

「さあな。言ったろ、オレの仕事は彼女を見つけるだけだって。ま、圭子が殺したと組が思ってることは確かだな。あいつらの考えることなんて分からんよ。たぶんコンクリートに詰めて東京湾に沈めるとかじゃないか」

 言ってから、僕が今度は本気で眉をひそめていることに気づいたらしい。実際、僕のはらわたは煮えくり返っていた。

「おいおい、そんな怖い顔しないでくれよ。例え話だよ、例え話」そう言ったあと高杉はちょっと目を泳がせて一瞬考えて続けた。「ただ、なんかそれだけじゃないもんが絡んでる気はするな」

「それだけって?」

「組のもんがかみさんに殺されたって、痴話喧嘩みたいなもんだろ? そいつは警察の領分だってことさ。組にはなんの得もない。わざわざオレなんかが出張る必要もないってことさ」

「どうしても見つけたら報告するんですか?」

 僕は知らぬ間ににらみつけていた。

「まあ、仕事だからな。プロだって言ったろ」

 そう言うと高杉は肩を大袈裟にすくめてみせた。

 会話は一瞬そこで途切れた。知らぬ間に僕は抜き出したマイルドセブンのフィルターでテーブルをこつこつと叩き続けていた。

 沈黙を先に破ったのは僕の方だった。

「高杉さん」

「ん?」

「いくらで雇われてるんですか?」

 高杉はびっくりした表情を見せた。

「オレは安くないぞ」

「いくらですか?」

「二百万」

「じゃあ三百万出します」

「なあ、言ったろ、オレはプロだって」

「そのわりには守秘義務とか守ってないような気もするけどな」

「お前、ヤなとこ突いてくるね」

 いつのまにか「きみ」が「お前」になっていたが、顔は笑っていた。

「五百万。でもあるのか、そんな金?」

「作ります」

「どうやって」

 僕は必死で考えた。カードの類はもう限度額いっぱいに借りてしまってるし、銀行じゃ貸してくんないだろうな。田舎の両親にもそんな余裕があるとは思えないし、第一頼む理由が思い浮かばない。しかし、ケイコがみすみす殺されるのを我慢できるはずもない。

「とにかく作ります」

「無理すんなよ。それにオレも手ぶらってわけにはいかない」

「海外に逃げたって言うか、死んだことにすればいいじゃないですか」

「それでも証拠は必要だろ、この場合」

「それも作ります」

「無茶言うなよ」

 そう言って苦笑すると、高杉はまた新たなショートホープに火を点けた。

「とにかく」僕は食い下がった。「先に高杉さんが見つけたら、報告する前に僕に教えてもらえませんか」

「知らない方が寝覚めがいいんじゃねえか。言ったろ、人を簡単に信用するなって」

 高杉はひとつ大きく煙を吐き出すと、真顔になってしばらく考えてから口を開いた。

「分かった。その代わり、お前が先だったらオレに知らせてくれ。その後のことはそれからだ」

「分かりました」

 ここはこう答えるしかなかった。時計を見ると本番まであと二十分しかなかった。

 高杉は僕がもう行かなきゃと言うと、レシートを取ってレジへと向かった。僕がその後を憂鬱な顔でついていくと、振り返って言った。

「なあ」

「え?」

「お前、ちっともあきらめてないじゃん、ケイコのこと」

 そう言ってまた人懐っこい笑みを浮かべた。

 勘定は高杉が払った。店を出て僕がライブハウスに戻ろうとすると、背中越しに高杉の声が聞こえた。

「頑張れよ、ライブ」

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