ホリデイズ

高山 靖

(1)

 もう昔の話である。

 世の中は翌年から起こる流行り熱のようなバブルに浮かれる直前で、そして僕はまだ若かった。これはいまでも変わらないが、僕はいつも漠とした不安を抱えて生きていた。いつもなにかをちょっとずつ間違えているのではないかと思っていた。例えば、順番とかそういうものを。

 そんなときに、彼女に出会った。


1.


 ゆっくりと、ゆっくりと意識が戻ってきた。


 遠くで犬の声がする。

 頭がまだぼうっとしている。僕は殴られでもしたのだろうか。いったいこの状況がなんなのか、ここがどこなのか、僕にはすぐに理解できなかった。それどころか、よく考えてみるとなにも思い出せない。おぼろげな視界に次第に浮かんできたのは見覚えのある薄汚れたモルタルの壁だ。なんだ、自分の部屋ではないか。ここは僕のアパートだ。一応1DKという作りの、ろくに日の当たらない二階建て二世帯の一階。高円寺から徒歩二十分。それによく見るとここは自分のベッドの上だ。おまけに素っ裸だ。もぞもぞと足を動かしてみる。と、なにかに当たった。すると、声がした。

「あ、起きた?」

 女の声だった。女?

 まだよく思い出せない。僕は女と住んでるんだっけ?

 えーと、いまはいつだっけ? 

 一九八六年、昭和六一年。よし。上出来だ。

 何月だ?

 えーと、暑いな、そうだ夏だ。僕は今夏休みの最中だ。去年会社をかわって最初の夏休み。たしか僕は二十七になったばかりだ。先週だったかいつだったか。そうすると七月の終わりか、八月の始めか。えーと。うすぼんやりと丸い蛍光灯が灯っているところを見るとまだ夜のようだ。それとももう明け方か。

 いきなり蛍光灯に被って視界に女の顔が飛び込んで来た。

「ごめんね。ミンザイ入れちゃった。だって、一息に全部飲むんだもん、びっくりしちゃった」

 ミンザイ? スイミンザイ? サイミンザイ? どっちにしても似たようなもんだ。誰だ、この女は?一体全体なんで僕が睡眠薬を飲まされるのだ?

 僕の顔を覗き込んで笑いかけている女は、髪が肩よりちょっと長いくらいの若い女だ。よく見ると案外可愛い。彼女は白いシャツを羽織っただけの裸だ。視線を下に移していくと、シャツの間の乳房、濃い目の陰毛が見えた。

 ふふ、と笑いながら彼女は屈み込んで僕の乳首に舌を這わせ始めた。まだ完全にははっきりしない意識の中でも、彼女の舌先が触れた途端にくすぐったいような快感が走る。

 彼女の舌は次第に下へと這って行く。胸から臍へと、そして知らぬ間に勃起していたペニスを咥える。彼女の舌の動きは実に巧みに亀頭に絡みつき、反射的に僕は少し背中をそらせて目を閉じた。

 僕のペニスは、なのか僕自身が、なのかよくわからないが、とにかくそのいずれかは彼女の舌の支配下にあった。僕は再び目を開けて、首を横に向けて隣の部屋の真中に陣取っている丸いテーブルに目をやった。コタツ兼用。去年中野の家具屋で買った。三万六千円。結構高かった。よし、だんだん思い出して来たぞ。

 テーブルの上に空のグラスがひとつ、その傍らにウォッカの瓶。あんなものを飲んだのか。そりゃ死ぬよ。睡眠薬なんか入れなくても。僕はただでさえ全くの下戸なのだ。

 彼女の舌が亀頭の裏側から先へと動き、先端を嬲る。僕は思わずうっと小さく声を上げ、照れ隠しに言った。

「上手いね」

 すると、彼女は顔を上げて言う。

「あなたが教えてくれたんじゃない」

 嬉しそうに言う唇の端から唾液が小さく糸を引き、それがやけに艶かしかった。

 女が僕の睾丸を口に含み、肛門に舌を這わせ、それからまた亀頭に戻ってきたところで僕は射精した。


 それから僕はようやく彼女のことを思い出した。駅で拾ったのだった。正確に言えば拾われたのかもしれない。


 実際僕はいろんなものを拾ってくる癖がある。

 かつて僕は衝動買いしたモルモットを一匹、飼っていたことがあった。ある日の帰り、駅の公衆トイレに立ち寄って外に出ると、入り口のところにダンボールに入った生まれて間もない子猫が捨てられていた。ほんとに小さいが毛は生え揃っているので生後数日は経っているのだろう。元来僕は動物というものが好きなので、可愛さのあまり、ダンボールごと持ちかえってしまった。それで深く考えずにモルモットのケージに子猫を一緒に入れてしまった。なにしろ、モルモットは耳のないうさぎとたいして変わりないのでちょっとした猫ぐらいの大きさはある。もしかしたら親猫と勘違いでもしないかなどと馬鹿なことを考えたのかもしれない。いずれにしろ、モルモットはとても大人しい動物だし、子猫の四倍ぐらいあるし、大丈夫だろうと思ったのだ。ところが、翌朝起きてみると、驚いたことにモルモットに綺麗な円形脱毛症が出来ていた。考えてみれば齧歯類であるモルモットはねずみの類である。猫とねずみ。まったく、本能というものは厄介なものである。


 で、彼女の話に戻ると、昨夜高円寺のホームに降り立ったところで声を掛けられたのだった。

 僕は吉祥寺からの帰りで、もう十一時近かった。客もまばらな電車からホームに降りて出口の方に歩き出すと、後ろからちょんと肩を叩かれた。僕が驚いて振り向くと、そこに白いシャツにジーンズという格好で、肩からトートバッグを下げた、整った顔立ちの女の子が立っていた。彼女は少女っぽさと女っぽさが同居していて、僕よりだいぶ年下にも、同い年ぐらいにも見えた。僕がきょとんとしてると、彼女は眉を八の字にしてなにか思い詰めた表情で、ねえ、あなた彼女いるの、と僕に訊いてきた。あまりに唐突だったのと、思いの他真剣な眼差しに、僕は思わず気圧されたように、いないよ、と答えてしまった。すると、彼女はちょっとほっとしたように表情を緩めると、間髪入れずにあなた一人暮し? と訊いてきた。そうだよ、と僕も同じリズムで答えると、彼女はまるで当たり前のように、じゃこれからあなたのうちに行っていい? と尋ねてきた。考えてみると断る理由がすぐに見つからない。僕が答えに詰まっていると、彼女はまた思い詰めたような表情になっていて、すがるような目をしていた。心なしかその目は潤んでいるようにも見えた。こうなると、僕という人間は断れない性格なのだ。ましてや相手が可愛い女の子となると。

 気がつくと彼女は一緒に僕のアパート目指して歩き始めていたのだった。歩きながら、彼女は先ほど見せた表情がまるで嘘のように楽しそうに、ねえねえ、あとどれぐらい、とか訊くので、そうだなあまだ十五分ぐらい歩くかなあなどと答えながら、僕はなんだかヘンなことになってるな、などとようやく考え始めたのだった。

 アパートに着いて、ふたりで部屋にあがると、彼女はバッグを下に降ろした。僕が汚い部屋だろ、と恐る恐る訊くと、彼女は先ほどホームで見せた、思い詰めたような、どこか泣き顔のような顔をして、ねえ、キスしていい? と訊いてきた。僕はまるで狐につままれたような顔をしていたに違いないだろうけど、そんな彼女をとても可愛いと思った。それに、もし僕が首を横に振ったら、いまにも泣き出すのではないかと思った。僕がうん、と答えると、彼女はちょっと背伸びをして舌を入れてきた。僕はきつくきつく抱き締められた。

 で、結局はなんだかよくわからないうちに僕たちはベッドに入ってセックスしていたのだった。

 終わった後に、彼女は冷蔵庫に入っていた、僕がかつて飲めもしないのにボトルデザインが気に入って、なんとなく買ってそのままになっていたウォッカをグラスに三分の一ほどついで、ハイと差し出した。その晩のあまりの急展開とセックスを終えて我に返り始めた緊張で、僕はなにも考えずに一息に飲み干してしまったのだ。覚えているのはそこまでだ。思い出したのも。


 僕が射精したものをごくんと喉を鳴らして彼女は飲んでしまった。それからふふ、と笑うとそのまま舌を入れてキスをしてきた。僕はアタマの片隅でちょっとうげ、と思った。


 要するに彼女は僕の好みのタイプだったのだ。ちょっとボーイッシュで、積極的で、クールで、それでいてすごく女っぽくって。なにかいつも背伸びをしているような切実さがあって、そこがとても可愛かった。

 彼女はねえ、感じた? と嬉しそうに尋ねてきた。僕はようやく照れ臭さが現実感とともに戻って、うんと曖昧な返事をした。


 現実感が戻ってくると、そうか、ここは僕の部屋なのだ、なにも遠慮することはないのだとようやく気づき始めた。

「ねえ」

 僕が声をかけると、彼女はなに、と身を乗り出した。

「いま何時?」

 彼女は少々落胆の色を浮かべると、立ち上がって隣の部屋に行き、テーブル(正確にはコタツだ)の上に置いてある腕時計を見た。

「四時。ねえ、さっき寝たばかりなのにもう眠いの?」

 そう言われてみればそうだが、だいたい僕は何時間ぐらい眠っていたのだろう?

「きみは眠くないの?」

「わたし夜勤慣れてるからね」

「夜勤て」

「あれ、言わなかったっけ、わたし看護婦だって」

 それでミンザイか。ふーん。

「オレやっぱり寝るわ」

 僕は足元にくしゃくしゃになっていたタオルケットをたくし上げると、それにくるまって言った。

「じゃ、わたしも」

 言うなり、彼女はタオルケットの中に飛び込んで来た。

 何時間寝たのか知らないが、僕のからだはへとへとだ。瞼が自然と降りてくる。

 あ、そうだ、その前に。

「きみ、名前は?」


こうして僕はケイコと出会った。どういう字を書くのかは教えてもらえなかった。


2.


 自分にとって自分がつまらない人間であることなど滅多にない。

 だが、大学を出て会社に入ってしばらくしてからの僕は、次第に自分がもしかしたらつまらない人間になってしまったのかも、などと時折考えるようになっていた。これはいわゆる五月病の一種なのかもしれないし、もしかしたら一種の鬱病なんてことも考えられる。だいたいにおいて社会に出たばかりのころというのは、そもそもペーペーであるが故にまだ何者でもない。ただただ右往左往するだけだ。ちょうど社会や会社のリズムにすっかり慣れたころというあたりが曲者である。そろそろ自分が何者であるか、少なくともいまはどの程度の人間であるかなどと考えて憂鬱になってしまう。しかしまあ、考えてみれば、そもそもつまらない人間になったと考えること自体、つまらない人間じゃないと思っていたということでもあるわけで、そこのところがいささか厄介ではあるのだが、要するにぼうっと先を見始めて、同じ場所にたたずんでジジイになっている自分を想像してぞっとしたりするのである。それで僕はその年、仕事も会社も変えてみることにした。


 そんなわけでケイコと出会ったのは会社を移ったばかりのころである。

 僕が入った会社は音楽プロダクションで、いわゆる芸能プロダクションとは似たようなものだがちょっと違うのはアーティストが社長と副社長で、ミュージシャンしか所属していないところだ。それも社長副社長のほかにはアレンジャーと作詞家がふたりだけと、こぢんまりとした個人事務所のようなものだった。

 そこで僕がやることになったのは原盤ディレクターという仕事である。原盤というのはマスターテープ、つまり音源そのもののことで、簡単に言えば、レコード(つまりCDだが)の制作費を出している側のディレクターということだ。レコード会社の方にも担当ディレクターがいるので、レコーディングの現場にはディレクターが二人いることになる。要は、僕の入った会社の社長はそこそこの大物アーティストで、事務所が原盤制作費を全部出しているということだ。そこで僕は社長であるアーティストのディレクターになったというわけだ。というと聞こえがいいが、実際のところは社長本人がプロデューサーでもあるので、ただのマネージャーのようなものだ。

 僕は学生時代までバンドをやっていて、曲りなりにもミュージシャンを目指していたこともあって、譜面にも強いしそれなりに耳もよかった。そこを買われたのだが、分かりやすく言えばレコーディング中の相談相手といったようなものである。

 ま、実際のところはレコーディング中はスタジオにずっと付き合ってはいるものの、特にすることがあるわけじゃなし、ファミコンのゴルフゲームがやたらと上達した。

 とまあ、そんな仕事なので、時間的には普通の会社と比べるとはるかに自由というかルーズで、もともと朝が苦手な僕にはかなり気分的に楽な仕事である。もちろん、タイムカードなんて無粋なものはない。

 この手の仕事の特徴はというと、忙しいときと暇なときが極端だということだ。つまり、アルバムのレコーディングが佳境に入ったりすると、その数ヶ月間はそれこそ鬼のように忙しい(と言っても拘束されているという意味であって、実際にはゴルフゲームをやっている時間がやたらと多いのだが)。逆にアルバムが完成して、しばらく次のレコーディングまで間があるときはやたらと暇になる。

 だから、夏休みというものも特に期間が決まってなくて、個人が仕事の状況で取るのだが、うまくすれば二週間近くは平気で取れるのだった。この辺が小さい会社のいいところでもある。僕は十日間ばかり夏休みを取った。

 ケイコと出会ったのは、その最初の日のことだ。

 

 目が覚めると、ケイコは横でまだ寝息をたてていた。今度は意識ははっきりしていた。

 横を向いた寝顔を見ているとどこかまだあどけなさが残る顔立ちは、誰かに似ている。ような気がするのだけれど、それが誰だか思い出せない。いずれにしろ、午前中の陽射しの中で改めて見るケイコはとても綺麗に見えた。いまさらながら、自分がとんでもなくラッキーな気がしてきた。ラッキー。

 僕は彼女を起こさないようにベッドを抜け出ると、コーヒー用にお湯を沸かすために薬缶を火にかけた。二人分の豆を手動のミルでガリガリと削るとペーパーフィルターに入れて、湯が沸くのを待った。

 うーん、と声を出して彼女が寝返りを打ったので、起きたのかと思ってベッドのそばに行ってみると、布団の上に投げ出された彼女の左手が目に入った。昨夜は気付かなかった。彼女は左手の薬指に指輪をしている。アンラッキー。

 これはやっぱり結婚してるってことだよな、いや単純に彼氏がいるってことだろうか、あれやこれや。途端に混乱の極みに陥って目まぐるしく想像が駆け巡ったところにピーとけたたましく薬缶が鳴った。まったく笛吹きケトルって奴は。

 ひとまず指輪のことはアタマから追い出して、コーヒーを淹れることにした。火を止めるとようやく薬缶は鳴り止んだ。挽いた豆に湯を垂らして蒸らして二十秒待つ。と、ベッドの方から声が聞こえた。

「おはよう」

 僕は「おはよう」と答えて、いけね、三十秒ぐらい経っちゃったぞと思いながらドリップに湯を注ぎ始めた。

「いい香り」

 いつのまにか彼女は起き出して後ろから覗き込んでいた。例のシャツ一枚のままである。性懲りもなくまたちょっと勃起しかけた。

 淹れたてのコーヒーを二人で座り込んで飲んだ。

 飲みながら、僕は指輪のことを訊くべきか訊かざるべきか悩んでいた。僕の難点はすぐ顔に出ることである。

「なに難しい顔してんの?」

 ほらね。

「後悔してる? わたしと寝たこと」

 答えに詰まった。それはもちろん後悔しているからではなくて、いまだに指輪のことを言い出そうかどうしようか考えていたからである。

 ふと顔を上げて彼女を見ると、眉間にちょっと皺を寄せている。それがまた可愛かったりする。いかん、このままだと誤解されると思った僕は、ようやく口を開いた。

「いや、あのさ、その指輪」

 ん、という感じで彼女はきょとんとした顔になった。

「その左手の指輪」

 僕が指差すと、やっと意味が分かったようだ。

「あ、これ?言わなかったっけ?結婚してるって」

 彼女はいとも簡単に言うと、思い切り微笑んだ。後ろめたさもなにもない感じで。


「それって不倫ってこと?」

「そうだよ」

 それがどうしたという顔で彼女はコーヒーに口をつけた。

 自慢じゃないが僕は人妻と寝たのはこのときが初めての経験だった。僕はさらに混乱した。ついでに心拍数もちょっと上がった。もっとも、カフェインのせいもあったのだろうが。自分の中でこの状況をどう消化したものか分からなかった。

「後悔してるの? わたしと寝たこと」

 やっぱりまた僕はいつのまにか眉間に皺を寄せていたらしい。また同じ質問が飛んできた。

「いや、全然」

 あわてて僕は無理矢理さわやかな顔を作りなおすと答えた。とりあえず、無理にでも自分が稀代のプレイボーイであると自己暗示をかけることにした。

 しかし、自己暗示は失敗した。

「でもさあ、大丈夫なの? 泊まったりして」

「殺されるかも」

 そう言って彼女は笑った。ここはどう考えても相手の方が上手だ。

 僕はそれ以上自分の女々しさを出すのを止めておこうと、それ以上訊くことは出来なかった。

 コーヒーを飲み終わると、彼女は時計を見て帰んなきゃと言った。ベッドの方に戻ると、あっという間に着替えを済ませ、もう玄関口に立っていた。

 僕も慌てて着替えて、玄関でスニーカーに足を突っ込んでいると彼女が訊いた。

「ねえ、わたしのこと好き?」

「ああ、好きだよ」

 ちょっとどぎまぎしながらも僕は答えた。答えながらまんざら間違ってもいないと思った。それより驚いたのは彼女が真顔になっていたことだ。

「じゃあ、また会える?」

「もちろん」

 これは自信をもって答えることが出来た。

「じゃあここの電話番号教えて。電話するから」

 僕は郵便受けに入っていた出張マッサージのチラシの裏に電話番号を書くと、彼女に手渡した。手渡しながら、もうちょっとマシなものに書けばよかったと後悔した。ふと思い出して、ちょっと待ってと声を掛けてから部屋に上がりなおすと、鞄から名刺を一枚取り出して彼女に渡した。自宅の番号もこれに書けばよかったと思いながら。

「いまは夏休み中だけど、会社にかけても平気だから」

「へえ、ケンジってこう書くんだ。沢田研二とおんなじだね」

 彼女は名刺を見てそう言いながら、名刺と出張マッサージのチラシを財布にしまった。

「ねえ、きみんちに電話は……できないよね」

「んー、そのうち教えるよ」

 駅まで送って行くあいだ、彼女はディレクターってなにやるのと訊いてきたので、僕は一生懸命説明した。でもたぶんあまり理解してもらえなかったと思う。特にゴルフゲームのあたりは。

 駅で別れ際、彼女はもう一度訊いてきた。

「ねえ、わたしのこと好き?」

 そしてちょっと背伸びをすると、僕の唇に軽くキスをした。


 改札に立って階段を昇りきるまで彼女を見送ったあと、僕はふと気付いた。いけね、どこに住んでるのか、いくつなのか訊くのを忘れた。


3.


 彼女から電話があったのは四日後だった。


 その間、僕がしていたことといえば、ただひたすら電話を待つことだけだった。せっかく取った夏休みだと言うのに、他に優先させるべきことはなにもないように思えた。

 上の空で部屋を何度も掃除したりした。電話機に留守電は付いていたけれど、極端に外出を控えた。ろくに効かないクーラーを付けっぱなしにして、読みかけの本を読んだりもしたがちっとも頭に入らなかった。結局ほとんどの時間を、付けっぱなしのテレビをぼうっと見て過ごした。外ではひっきりなしに騒々しく蝉が鳴いていた。

 彼女が帰った翌々日の夜に一度電話があった。飛び付くように受話器を取ると、母の声が聞こえてきた。

「今年の夏は帰らないの?」

「うん、もしかしたら仕事で緊急に呼び出される可能性があるんだ」

 僕は嘘を最小限にとどめた。

 結局のところ、僕はとっくに恋してしまっていた。

 狂おしいほどケイコに会いたかった。

 彼女が結婚していることについて、それこそ本一冊分ぐらいの想像をしたが、結局そんなことはどうでもよくなっていた。考え過ぎて、しまいにはこれが果たして本当の恋なのか、それともただの性欲なのかもよく分からなくなった。しかし、仮に半分以上が性欲だとして、それでも残りの半分近くは間違いなく恋だった。

 にもかかわらず、不思議なことに一日一日と日が経つに連れて、少しずつ彼女の面影ははっきりしなくなってきた。徐々にディテイルが怪しくなってきて、それに対して僕は極度の焦りと不安を覚えたが、だからといって会いたいと思う気持ちは一向に醒めるどころか、ますます募るばかりだった。彼女の顔をすべて忘れてしまわないうちにもう一度会いたい。

 僕は必死で駅のホームで会った彼女の顔を思い出そうとし、朝コーヒーを飲みながら微笑んだ彼女の顔を思い出そうとした。しかし、あれこれと考えれば考えるほど、それに比例するように記憶は怪しくなっていった。逆に彼女の口の中に射精した快感だけが強くいつまでも感覚として残っている。僕はただのすけべなのだろうかと本気で考えた。つまるところ、僕は考え過ぎるのだ。僕の胸はきゅんきゅんと痛んだ。

 

 そんなふうに身を捩るように考え過ぎて疲れ果てた四日目の夜に電話が鳴った。

「もしもし」

「わたし、ケイコ。覚えてる?」

 その質問は一番胸にぐさっと刺さる質問だった。腰が抜けるほど考え続けていたことと、もう半分ぐらい自分の中ではぼやけている彼女の顔の記憶とのジレンマを見事なまでについていた。

 僕はあれほどケイコのことを考えて恋焦がれていたくせに、いざ電話が来たときの対処を考えていなかったことに気付いた。ここはクールに答えるべきか、それとも熱烈に愛情を表現すべきか。

 とりあえず墓穴を掘らないことを第一に、前者のセンで行くことにした。

「もちろん」

 一応クールに決めたつもりだったが、気持ち早口になってしまった。僕は気付かれないようにちょっと生唾を飲み込んで、はやる気持ちを落ち着けようとした。

「ねえ、会いたかった?」

「うん、すごく」

 結局深く考えるのはやめた。

「わたしも」


 ケイコとは翌日に渋谷で待ち合わせた。

 前の日の電話は、待ち合わせの場所と時間を決めると、じゃあねとあっさり切れてしまい、肝心の気になっていたこと、彼女の住んでいるところとか年とかはなにも訊けずじまいだった。それよりも彼女の声に気のせいか元気がなかったのが気になった。

 約束の二時きっかりに彼女は現れた。僕はと言えば、十五分ばかり早く着いて、109のエレベーター前をひっきりなしに煙草を吸っては熊のようにうろうろしながら、もし彼女が来てもすぐに分からなかったらどうしようだの、Tシャツにジーンズてのは安直過ぎたかなだの、果てはホントに彼女は来るのだろうかだの、例によってどうでもいいようなことをあれやこれや考えていた。

 彼女が満面に笑みを浮かべていざ現れると、それまであれこれ心配していたことが嘘のように、初めて会ったときからの彼女の顔をいとも鮮やかに思い出した。人間の記憶ってものは不思議なものだ。

 彼女は黒の長袖のTシャツにジーンズといういでたちだった。僕という人間はつくづく取り越し苦労をする人間なのだなと改めて思った。だいたい、夏の真っ盛りにイヴニングドレスかなんかで現れるわけがないのだ。

「へへ」

 それが彼女の第一声だった。

 不思議なもので、それで僕の考え過ぎからくる妙な緊張もどこかに吹き飛んでしまった。

 僕らはごく自然に手を繋いで道玄坂を登り始めた。


 適当に目に入ったホテルに入ると、シャワーも浴びずにセックスをした。

 今回はしっかりとゴムの人工物の中に射精して、僕は冷蔵庫の上に置いてあったコップに水を満たしてベッドに戻った。

 彼女がそれをごくりと喉を鳴らして一口飲むあいだ、僕はマイルドセブンに火を点けて、ひとつ大きく煙を吐き出した。

「ねえ。わたしにも一本ちょうだい」

 僕は、自分で咥えて火を点けてから渡したものかどうか一瞬迷ったけれど、それはなんか、あまりにもこういうシチュエイションに合い過ぎていやらしい感じがして、パッケージをちょっと振って一本が顔を覗かせるようにして彼女へと差し出した。

 彼女はそれを取って咥えると、枕元に置いてあった僕のジッポで火を点け、ふうと煙をひとつ吐き出した。

 一瞬、僕の知らない大人のケイコが垣間見えたような気がして、僕はどきりとした。実際、彼女が煙草を吸うのを見るのはそれが初めてだった。

 僕は天井を向いてもうひとつ煙を吐き出しながら、なにから訊き始めようか考えていた。

「ねえ」

 彼女の声で我に返り、声のする方を向いた。

「なに考えてたの?」

 どうやら僕はまた眉間に皺を寄せていたらしい。

「うーん、訊きたいことがあり過ぎてどれから訊いていいものやら分からないんだ」

「いいよ、なんでも訊いて。答えられるものは答える」

 ということは答えられないものがあるってことじゃないかなどと思いながら、僕は質問を開始した。

「ケイコっていくつ?」

「二十五」

「じゃ、ふたつ下だ」

「へえ、同い年ぐらいかと思った」

「どこに住んでるの?」

「小平」

「それってどのへんだっけ?」

「んー、遠くだよ。国分寺とかから乗り継いで。もしくは西武新宿線とか」

「じゃあなんで渋谷なんかにしたんだよ。お互い新宿の方が近いじゃん」

「出来るだけ遠くにしたかったの」

 声のトーンがちょっと落ちた気がしたのでふと横を向いてケイコを見ると、遠い目をしたような気がした。だがそれもすぐに消えた。

「次の質問は?」

「苗字は?」

「タカハシ。タカハシケイコ」

「それって女優と同じじゃなかったっけ」

「よくある苗字とよくある名前がくっついたってこと」

「そう言われてみればそうだな」

 つまり旦那はタカハシって苗字だってことか。

「いつ結婚したの?」

「えーと、二年前」

「旦那はなにをやってる人?」

「やくざ」

「マジかよ」

「嘘。医者」

「脅かすなよ。じゃ、職場結婚か」

「ねえ、これっていつまで続くの?」

「じゃあ今度はそっちが訊いていいよ」

「わたしのこと好き?」

 僕らはもう一度セックスをした。


 渋谷からの帰り道、高円寺で僕が降りるまで、今度は僕が質問攻めにあった。

 僕は山形出身で大学から東京に出てきたこと、中学高校とテニスをやっていたこと、高校・大学とバンドをやっていたこと、子供のころはピアノをやっていたがバンドではギターを弾いていたこと、高校時代はファンクラブまでできたこと、大学時代はやたらともてたこと、大学卒業後に酷い失恋をしてそれ以来誰とも付き合わなかったこと、会社を替わったこと、車が欲しいこと、いまのアパートが仕事に不便なので引っ越したいと思っていること、なんてことを話した。最後の引っ越したいという話にだけ彼女は不安げな顔をして、いつ、ねえいつ、と訊いてきたが、僕はまあ冬のボーナスまでは無理だなと答えた。ちょっともてた話を強調し過ぎたかななどとも思ったが、話しながら、二十七年間も生きてきたわりには案外簡単にこれまでの人生を語り尽くせちゃうものだなと思った。思うに、僕のこれまでの人生には謎がなさ過ぎる。

 かたやケイコはいまだに謎だらけである。僕にとって。


 謎その1。

 なぜ彼女は僕に声をかけたのか。

 謎その2。

 なぜ彼女は僕と寝たのか。

 謎その3。

 なぜ彼女は僕に睡眠薬を飲ませたのか。

 謎その4。

 なぜ彼女は連絡先を教えてくれないのか。

 謎その5。

 なぜ彼女は僕の自宅でなく、それも渋谷という彼女の自宅から遠い場所を選んだのか。

 謎その6。

 なぜ彼女は後背位を極端に嫌がるのか。


ここまで紙に書いてみて、僕はふと気がついた。これはもしかしたら謎でもなんでもないのではないかと。単に僕が恋しているが故に謎に思えてしまうだけで。たとえば、謎その2とかはなぜ僕は彼女と寝たのかと置き換えることもできる。考えようによっては、すべて「彼女は気まぐれである」というひとことで片付いてしまうではないか。

 僕は馬鹿馬鹿しくなって紙を丸めてゴミ箱に捨てた。

 だが、なにかが僕の頭の中で引っ掛かっている。なんだろう。

 そうか、思い出した。小平。初めて出会ったあの晩、僕は吉祥寺からの帰り道だった。そしてあのときホームにいた電車は僕が乗っていた電車だけだった。つまり、彼女は僕と同じ電車に乗っていたということだ。彼女は自宅と逆方向の電車に乗っていた。


 謎その7。

 なぜ彼女はあの晩上り電車に乗っていたか。

 謎その8。

 なぜ彼女は高円寺で降りたのか。


 その日はケイコとの二回戦の疲れもあって早々に寝てしまった。そして僕にとっての謎の数々も深い眠りの中で雲散霧消していった。

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