第六話 前を向いて、心を決めて
日中は多少暑くても、夜になると気持ちのいい風が虫の音を運んでくれる。この虫の音が俺は小さい頃から好きだった。
この時季にキャンプに行ったことがある。自分の家からだと聞こえてくる鳴き声は限られるが、大自然の中に入ると珍しい声がいくつも聞こえて心を躍らせた。街中だと、虫たちは人間や車に遠慮して鳴き声を出さないものだと思っていた。だからキャンプ場で聞こえてくる虫の音は、「ここへ来てくれてありがとう」という彼らからのサービスなんだと虫たちからしたらありがた迷惑な気持ちに浸っていた。
昔は単純に心地よさだけを感じていたけれど、夏が終わった
前の家よりも静かだからなのか、四階でも彼らの生命の合唱はしっかりと届く。俺にとっては最高のBGMだ。
勉強の息抜きにと、リビングのドアを開けた。母さんはソファで何やら本を読んでいる。コップに注いだ麦茶を持ってカーテンをめくると、こちらからは下弦の月が見えた。
「何読んでるの?」
「これ? 昔、要さんが誕生日プレゼントにくれた、おすすめの小説。あまり読む方じゃなかったみたいだけど、これは印象に残ってたんだって」
「へえ、父さんが。恋愛もの?」
純愛をイメージさせるタイトルだった。
「ふふっ。実はこれ、友情がテーマの本なの。男の子たちの……青春、かな。たいちゃんも読んでみる?」
「ふーん。俺は……ひとまず受験勉強が落ち着いたら」
引っ越しが決まってから俺は受験の話を避けていた。勉強の調子はどうかと母さんに聞かれても曖昧な返事を繰り返すうちに、自然と尋ねられることがなくなった。
しかし今は、勉強のために自分の部屋にこもることが増えた。母さんが飲み物を片手に様子を見にくるようになり、自然と親子の会話が増えたように思う。最近は夕食を一緒に食べることも多くなった。
「そっかあ、頑張ってるね。志望校は決まったの?」
「ちょっと待ってて」
俺は部屋に戻り、ある冊子を持ってきた。
「ここを考えてるんだ」
以前、トモが教えてくれた進路指導室にあった本を、再び借りている。ページをめくり、目的である高校を母さんに見せた。
「前の高校よりちょっとだけ偏差値は高いけど、手は届くと思う」
母さんは詳細に目を通しながら、うんうんと頷いている。
「うん、いいと思う。場所もここから通いやすいし、文武両道に力を入れてるし、充実した高校生活が送れそうね」
実はまだ母さんには内緒にしているが、大学は国公立を志望している。少しでも家計の負担を減らしたいからだ。その点、この高校は国公立への進学率が高く、フォローするための制度が手厚いことがアピールポイントとして記載されている。
「一緒に頑張ろうね、たいちゃん」
母さんの手のひらに、俺の手のひらを重ねた。パシッ、と小さな音が鳴った。
「うん。頑張ろう」
三者面談は滞りなく終わった。一週間ほど前に模試が行われていて、この面談で初めて結果を知る。夏休み、引っ越し準備やそれによる気持ちの問題もあって、俺の偏差値はちょっぴり落ちていた。あともう一歩のところでA判定にはならなかったものの、これくらいなら今からでも充分巻き返せるとのことだった。
先生のその言葉どおり、次の模試の時には俺の偏差値はぐんと伸びた。それどころか千葉にいた時よりも上がっていた。それにはこんな背景が絡んでいるのかもしれない。
放課後、トモと彼の家で勉強するようになったのだ。
「何よお。最近二人、仲いいじゃない」
仏頂面の緒方が、教室から出ようとした俺とトモの行く手を阻んだ。
「勉強してるんだ、トモの家で――」
「えっ、トモの家?」
正直に答えただけなのに、トモは慌て、緒方はかなり驚いた様子だ。そんなに驚くことなのだろうか。彼女は目を見開いたまま、視線を俺からトモに移した。俺の横で、彼は保健室の時のような中途半端な笑みを浮かべている。
気まずい空気が流れた。口にしない方がよかったと分かっても、もう遅い。緒方が抱いているだろう劣等感から目を逸らしたくて、彼女と視線を合わせることができない。
「あ、あーほら、男同士の話とか……さ」
トモのその言葉は、明らかに緒方を拒んでいた。そんな雰囲気を察したのか、彼女はそれ以上は何も言わなかった。
じゃあ、と言ってそそくさと教室を出た彼を追った。――ドアのところで立ち尽くしたままの緒方の背中に後ろ髪を引かれながら。
翌日には緒方の質問攻めが待っていた。彼女の話では、トモはどうやら付き合う女の子はもちろん、男友達すら家にあげたことがないらしい。
家での様子や同居人との雰囲気、さらにはどんな小物が置いてあるかどうかまで尋ねられた。
トモは前におばあちゃんと二人暮らしをしていると言っていたけど、両親がいないわけではないらしい。彼の両親は自営している定食屋兼自宅に住んでいるのだとか。
ただ、今彼が住んでいるのは母方の祖母が住む団地。普段なら特別気にしないだろうけど、緒方にあそこまで驚かれてしまうと、両親と別に生活している理由を聞きたくなってしまった。
「たいちゃんいらっしゃい。二人とも頑張ってて偉いわ~」
トモのおばあちゃんは、麦茶とおまんじゅうが乗ったお盆をドアの近くに置いてくれた。
「お邪魔してます。すみません、いつもご馳走になって」
おばあちゃんは、ふふ、と口元に手を当てた。
「いいのよお、これくらい。ともくんが中学生になって、初めて連れてきたお友達だもの」
「ちょ、ばーちゃん。余計なこと言わなくていいからっ」
トモは、にこにこ顔のおばあちゃんを優しく部屋から追い出そうとした。
「あ、ともくん。おばあちゃんこれからちょっと出かけるから、なんか買い足すものあったら『らいん』してね~」
「はいはいっ」
おばあちゃんはいつも割烹着を着ている。それがこれでもかというくらいに似合うのだ。
「毎度毎度悪いね、お菓子も出してもらっちゃって」
お邪魔する頻度を減らしたり、手土産を持参してみたりもしたが、おばあちゃんは「若い子が気にしなくていいのよ」と言って、お菓子を出し続ける。
「いいんだよ、別に。ばーちゃんもめちゃくちゃ嬉しそうだしさ。孫が一人増えた気がしてるらしくって、『たいちゃんもっと連れておいでよ』ってしつこく言われてるから」
ふと、この前の緒方に驚かれたことが頭に浮かんだ。気になるので、この流れでさりげなく聞いてみることにした。
「そういえば緒方も言ってたけど……トモってあまり人を家にあげないタイプ?」
中学生にもなれば行動範囲は広がるものだけど、もし、トモ自身が気が進まないと思っているのなら、場所を変更した方がよさそうなのだが。
しかし、トモは俯きがちに首を横に振った。
「そんなことねーよ。呼ぶほど親しいやつがいないだけ」
「ふーん、そっか」
頷いてみたものの、なんだかしっくりこない。けれどこれ以上は追及せずに、トモの反応に違和感を抱きつつノートに目を落とした。
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