第2話 偽りの夫婦
高台の一番奥にあるユウキの家は、隣の家までは少し離れていて、人通りは殆どなかった。
彼女が、慣れない手つきで庭の山茶花や、花の手入れをしている。ずっと家の中に閉じ込めておく訳にもいかないと思ったユウキが、花や木の世話のやり方を教えたのである。彼女は、花が好きなようで、ガーベラやスイセン等の世話に時間をかけていた。
彼女の日課は、朝はユウキより早く起きるが、料理ができないので手持無沙汰で待っている。それからユウキを手伝って朝ごはんの支度をする。朝食をとってユウキが仕事に行くと、洗濯と掃除をして庭の花に水をやり、一段落するとテレビを見る。お昼は冷凍食品をチンして食べて、昼からもテレビを見る。彼女はテレビを見ながら、何やらしきりに口を動かしている。それは、テレビの番組から、地球の言葉を学ぼうとしていたのだった。
一週間もすると、簡単な料理が出来るようになり、朝餉の支度など、テキパキと家事をこなすようになったが、相変わらずしゃべる事は無かった。身振り手振りで何とか意思疎通は出来ていたが、ユウキには、もどかしかった。
ユウキは、休みの日には、出来るだけ彼女を外へ連れ出した。色んなものに触れることで、日本の環境に早く順応させたかったからだ。
その日も、二人でドライブに出掛けた。春とはいえ、北海道はまだ寒かったが、天気も良く彼女も嬉しそうだった。
中古の愛車を走らせ、花で有名な小高い丘公園に着くと、そこは一面の花畑だった。駐車場に車を置いて、海側の展望台まで花々を見ながら歩いていくと、数組のカップルや家族が来ており、眼下には太平洋が広がっていた。先端の手摺の所まで来ると、彼女は、風に乱れた栗色の髪をかきあげながら青い海の彼方を眺めていた。
今、彼女は何を思っているのだろうと、ユウキが彼女の美しい横顔を見ていると、彼女はユウキの方に視線を移しニコッと微笑んだ。彼は、異国の地で記憶をなくし孤立無援の彼女の身の上を思うと、かわいそうでならなかった。万感極まったユウキが彼女の手を取り、緑色の澄み切った目を見つめながら、その名を呼んだ。
「エレーナ」
すると、
「……ステラ」
突然、彼女の口から言葉が出て、ユウキが「えっ」と聞き返した。
「私の名前は、ステラ」
きれいな日本語だった。
「ステラ、そうか君の名はステラか、そうか、そうなのか、よかった……」
ユウキの目に涙が溢れ、周りに人がいるのも忘れて、彼女を抱きしめていた。彼女は最初、彼がなぜ泣くのか分からず、キョトンとしていたが、察したように笑みを浮かべ、ユウキを抱き返した。この瞬間から、二人の間にあった言葉の壁は崩れ、お互いの心が少しづつ見えるようになった。そして、徐々に普通の夫婦のような穏やかな生活が送れるようになったのである。
ユウキが、湖で助けた時の状況を彼女に話してみたが、やはり、それ以前の記憶は欠落していた。
彼女は文字を覚えると、ネットを開き、どう猛に知識を吸収していった。彼女の、学習能力は天才的で早かった。
暫くすると、買い物、近所付き合いなども無難に熟し、綺麗で、日本語の上手な外国人妻だと近所で評判になった。
ユウキは、ステラの笑顔で送り出されて、夕餉の匂いと彼女の笑顔が迎えてくれる新しい生活に、本当の夫婦になったような錯覚に陥っていたが、ステラは、テレビ等で学んだ、夫婦像をただ演じているだけかもしれなかった。それでも、ユウキは、今の幸せな夢の様な生活が永遠に続いてくれたらと願うようになっていた。
ある日、ユウキが「プレゼント」といって、彼女に渡した小さな箱には、エメラルドの指輪が美しい緑の光を放っていた。安物ではあったが、頑張ってくているステラへの感謝の思いが詰まっていた。ステラは指輪を指につけて手を翳すと「きれい、ありがとう」そう言って嬉しそうに微笑んだ。
それから、何日か経って、ステラが働きたいと言いだした。ユウキは、少し心配はあったが、独り立ちの絶好のチャンスかも知れないと許した。
彼女は、近くのスーパーに、毎日、五時間のパートタイムで勤め始めた。ユウキの心配を余所に、彼女の働きは抜群で、一月もすると職場の責任者になり、正社員にとの話が出るほどになったが、家の事が疎かになってはと辞退した。友達も出来て、ユウキをほったらかして女子会に出掛ける事もあった。
この頃になると、お互いの気が知れてきたこともあり、ステラは言いたいことも言う、活発な感じになっていた。本来の人格がにじみ出てきたのかもしれないとユウキは思った。
ある時、二人で、手を繋いで繁華街を歩いていると、やくざ風の男が絡んで来た。
「姉ちゃん、綺麗やな。ちょっと付き合ってくれや?」
いきなり、男がステラの腕をつかんだ。
「やめろ!」
ユウキが、その腕を振り払った。
「なんだと!」
男は叫ぶなり、ユウキに殴りかかり、その拳が彼の顔をかすめた。スッと下がり、身構えたユウキを、いきり立った拳が更に襲うと、中国拳法の有段者の彼が、さらりとかわして、腹に当身を食らわせた。
「うっ!」と男は膝を折って倒れた。
ユウキがステラの手を取り、その場から立ち去ろうとすると、仲間らしき五人の男達が二人を取り囲み、その中の一人がナイフを取り出した。
五人相手では、さすがのユウキも逃げるしかないと、左右に目をやったその時、ナイフを持った男が、いきなり斬りかかって来た。不意を突かれ、「しまった!」とユウキがステラを庇おうとした刹那、彼女が、ユウキの肩に手をつき、それを支点にして、ふわりと宙に舞ったかと思うと、彼女の両足が男達の影をパラパラと撫でた。彼女がスカートを抑えながら、ストンと元の位置に降り立つと、男達はバタバタと倒れ込んだ。
ステラは表情も変えず「帰ろ」と、いつもの笑顔でユウキの腕を取った。ユウキは何が起きたのか呆気にとられながらも、その場から足早に立ち去っていった。
帰り道、ユウキが聞いた。
「ステラは、何か格闘技をやっていたのか?」
「……分からない」
「あんな動きをして、心臓は大丈夫なのか?」
「あれくらいなら、何ともないわ」
と彼女は答えた。増々、ステラの謎が深まるばかりのユウキだった。
帰り道、験直しに酒でも飲もうと、行きつけの小さなスナックに寄った。ママは60前後の喋りのうまい小太りのおばさんで、ユウキと同郷ということで話が合った。店にはもう一人、ヨウコという可愛い女の子がいて、背が高くイケメンのユウキが好みなのか、彼の傍から離れようとしないで、無神経に話しかけて彼を独占した。ほかに客はいなかったので、ステラはママが気遣って相手をしていたが、ステラもヨウコの事が気になるのか、チラチラと彼女に視線を向けていた。
その内、ステラはグイグイと酒を飲み始め、30分もすると、目がすわって来ていて、「あまり飲みすぎないようにね」とユウキが諭した時には、ヨウコに絡み始めていた。そして、ステラの悪態がエスカレートしてゆくと、ヨウコは逃げ出してしまった。
「待ちなさいよ!」
彼女を追おうとしたステラを、ユウキが止めた。
彼は、ステラが暴れだしたら恐らく止められないと思い、ママに謝ってステラを無理やり連れだした。ステラは、大きな声で訳の分からないことを口走りながら、訳の分からない方向へと歩き出した。ユウキは周りの目を気にして、タクシーに乗ろうとしたが、ステラが、ドアにしがみついて乗ろうとしないので、止む無く歩いて帰る事になった。
「私がいるのに、あの女とばかり話すなんて。私が嫌いなの!」
ステラが、しどろもどろの声でユウキを攻めだしたので、宥めながら出来るだけ人の通らない道を選んで帰った。暫くして、道端に座り込み静かになったと思ったら、寝てしまっていた。ユウキは、彼女を背負うと、その鼓動を背中に感じながらテクテクと帰っていった。
彼女が、酒癖が悪いというのは、ユウキにとっても意外な発見だった。二度と酒は飲ませないと思いながらも、ステラがヤキモチを焼いてくれた事が嬉しかった。
家に帰ると、布団を敷いて、服を着たまま寝かせた。彼が床に就こうとした時、襖があいて、「お水頂戴」と、ステラが苦しそうに言った。水を持って行くと、一気に飲み干し、ユウキの前で服を脱ぎ始めた。ユウキが、慌ててコップを持って自分の部屋に戻ろうとすると「行かないで!」と彼に抱き着き離れなかった。やむなく、ステラの布団に一緒に入り、彼女が眠るのを待った。下着だけのステラに抱き着かれたユウキは、数センチの所にある彼女の顔を、どうしたものかと眺めるしかなかった。アルコールの匂いが鼻を突いたが、それ以上に、この状態は彼を興奮させるに充分すぎて眠る事は出来なかった。
どれくらい経ったか、彼女の腕枕になっていた左腕が痺れてきたので、そっと腕を抜いた。スヤスヤと寝息をたてる彼女の額にキスをして、ユウキは自分の布団へと戻っていった。
翌朝、朝食の準備をしながらステラが聞いた。
「私、飲みすぎて昨日のこと何も覚えて無いんだけど、何かあった?」
ステラは何も覚えていなかった。ユウキが昨日の出来事を聞かせると、
「いやだ、ごめんなさい」
彼女は、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「それで……何もなかったわよね?」
「男と女が、裸で抱き合って何もないわけないだろう」
ステラは、まさかと言うような顔をしてユウキを見た。
「お酒の匂いがすごくて失神しちゃったよ」
「ひどい、嘘なのね!」
ふくれっ面のステラは、大笑いするユウキを睨んだ。
「ごめん、ごめん、お酒は合わないようだから、あまり飲まない方がいいんじゃない」
ユウキは、そう言って話題を変えた。
その夜の事である。ユウキが寝床に入って、本を読んでいると、ステラが枕を抱いて部屋に入って来た。
「どうしたの?」
「一緒に寝てもいい?」
「えっ」と言ってユウキが戸惑っている間に、ステラが布団の中に滑り込んで来た。ユウキは、暫くステラの顔をうかがっていたが、その、美しい瞳に吸い寄せられるように彼女を抱き寄せると、唇を合わせた。
ユウキは、熱いキスをしながら彼女の乳房を愛撫すると、溢れる気持ちを抑えきれなくなって、ショーツの中に手を滑り込ませようとした。だが、彼女はピクンと震えて、ユウキのその手を拒んだ。
ユウキがキスを止めて、ステラの顔を見た。
「ごめんなさい……」
ステラは睫毛を伏せた。彼女は、抱いてほしくて彼の所に来たものの、いざとなると、拒否反応が出てしまった自分の気持ちが分からなくなっていた。
「無理もないさ、無意識の中の本当の君がダメだと言ってるのかも知れないね」
「……」
ステラの瞳が潤んで泣きそうな顔になるのを、ユウキが額にキスをして、優しく抱き寄せた。ステラは、ユウキの優しさに包まれながら眠りに就いた。
次の日、二人は、いつもの生活に戻っていたが、その日から、ステラがユウキの寝床に来る事は無かった。
彼には、もう一つ気になることがあった。それは、ステラが、時々、暗い顔をして塞ぐことがある事と、夜中に聞きなれぬ言葉を発し、うなされる事があったからだ。
増々謎が深まる、ステラの正体とは? 考えるほどに、ユウキの気持ちも塞いでいった。
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